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子供への虐待があとをたたないようですね。
実は、ラッキーもちょうちんも私には暴力は奮いませんでした。ところが、食事で虐待しました。
私の最後の肉親である祖母は餓死でした。
祖母は起き上がれなくなってから、何日たったか、わかりませんが、寒い裏日本気候の福岡で、息絶えました。
そらから、何日もしないで、戸籍上叔父っている兄(これも東亜子が亡くなってから知った)が復員して、私の姿を見て、もうすぐ、死ぬであろうと思ったようです。彼は衛生兵でしたから、そういうのをよく見てきたのでしょう。
そして、私が笹栗の小学校に入学してからも、同じようでした。
同じ炭鉱に勤める社宅に皆さんはもちろん村中の方々は私がラッキーとチョウチンの子ではなくどこからか連れてきた子であることは知っていたようです。
このことも東亜子が殺されてから知ったのです。
私が住んでいたのは明治鉱業の社宅でしたが、今度、野田で虐待死も隣近所の皆さん知っていたのですね。
こういうことが続くのでしょうか....よそのお宅のことには口を出さないというのでしょうね。
今でも、私は東京の給食が命の恩人だと思っています。ありがとうございました。
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占い師・藤田小女姫(コトトメと読みます)を求めて祖父母の出身地や実家を訪ねました。そこで、質問されたのは、
・・・・ なんで、○叔父は××(祖母の苗字)家のものと一緒になったのか?・・・・
ということでした。
つまり、××家は、接触すると危険だということでしょう。
それとこの地域では藤田家のあったのは東山で、××家のあったのは西山でした。いろいろな場面で両部落は対立していたのかもしれません。
藤田家はそうではないのですが、祖母の家はその家の苗字が疎なまま地域の名前になっていました。最近、地名などを変えました。それまでは、ずーっと、祖母の実家の名前が地名でした。
祖父の父(私にとって祖祖父)は、明治維新の前から、福岡に行っていて、八幡製鉄所の創業にも参加していたようです。
で、明治の末、祖祖父が退職するときに八幡製鉄所専属として慰安所を経営することになって、祖父を含めて子供たちを福岡に呼んだようです。
それと、祖祖父には福岡にいわゆる現地妻がいたようです。
祖母の実家は、私は信じたくないのですが、幕末の人きりと言われた人物が関係しているとのうわさです。
それで、藤田本家の古老が、「なんで、○叔父は××家のものと・・・」言われたのでしょうか? わかりません。
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姉・藤田小女姫こと藤田東亜子が殺害されてから、もう、すぐ四半世紀が経とうとしています。
亡くなったものの年齢を数えても、仕方ないのですが、56歳になったばかりでした。もっとも戸籍は信用なりませんが…
私のブログも起こったことをつらつらと書いてきました。それと、戸籍など全く信用ならないと知ってから、自分の身分が知りたくていろいろ調べて全国を回りました。
結果、いろいろ分かりましたし、自分の実親も知ることができました。
事件については、姉・藤田東亜子と私は、両親同じの姉・弟です。
で、事件後東亜子の近くにいて親しかった方に、
「東亜子と私が一緒にいて協力し合えば事件は起こらなかったか?」と尋ねたところ・・・
「事件が起こらなかったかもしれないし、…・乃至は貴方も一緒に殺されたかもしれない。それほどr大変だったのよ」とのことでした。
私の方で起こったことを書いてきましたが、何しろ、長い間のことであれもこれもとわかりにくいので、かいつまんで、書きます。
残された時間も少ないので、・・・・
よろしくお願いいたします。
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私どもが子供の頃(太平洋戦争が終わって、いくらもしない頃)、は大人たちが、よくこんな言い方をしていました。
『そんに遅くまで遊んでいると、人さらいに攫われるから、、早くうちに帰りなさい』と、
もちろん、私の親のふりをしていたラッキーとチョウチンもよくこのセリフを吐いた。
私が所帯を持ってから、たまに妻と一緒にチョウチンのところに行くと妻にこういったそうだ。
「飯塚のブンさんは、いつも、こんな格好で、出かけるのよ」と、言って真似をした。
その姿は川筋者として、親分のあとについていくときの格好だ。
ブンと言うのはチョウチンの父親(おそらく違うのでしょうが…、戸籍上)で
になっている)であるが、ラッキーンー実の父である。白人様のマスクをした男であった。
後に、聞くと、少し、知恵遅れ風であって、川筋者の権蔵小屋に住んでいた。
つまり、出かけるというのは人攫いに出かけるのである。
ラッキーの父親は人さらい稼業であった。
私の最後の肉親である祖母は阿波の美人の里の出で、わけても美人で名が通っていた。阿波の大地主の娘で、西山の頂きに住んでいて、東山に住んでいた祖父と歯どうして知り合ったかはわからなかったが、この辺境の地から大都会である博多に来た時にブンに襲われて、ラッキーが出来たようであった。
強姦で生まれた子は、悲しいかな、母親に憎まれた。なぜなら、忌まわしい男に似ているからだろう・・・
こうして、ラッキーは祖父母の家には入ることができなかった。ところが、戸籍は祖父の子になった。
実際にはブンのところにたのだが・・・・
たまに、母親のところに行くと祖母は、ラッキーを蹴った。
このこと、ラッキーは私に事あるごとに言った。
妻にも言ったようだった。
妻は女性であるから、「そりゃあ、当たり前でしょう。憎むべき男に似ているんだから、なんでラッキーさんはブンさんを懲らしめてやらなかったの?」
「〈俺が懲らしめてやるから、・・・ね!)と言って、成敗してあげればよかったのよ、おばあちゃんかわいそう!!!、悔しかったろうね。日本が
敗戦で、満州から引き揚げてくるときに大変だったんで、そんな風にできた子がたくさんいたみたいなで、・・・女って悲しいよね。忌まわしい男の子が出来てしまうなんて・・・」と、
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藤田小女姫殺害事件は私が50歳の時でした。誕生日の関係で姉は56歳でした。
その時まで、私は戸籍通りに、ラッキーとチョウチンの子で、姉はラッキーと彼の第一妻のこであるから、つまり、腹違いの姉と弟だと思っていました。
小学6年まで、福岡の炭鉱で過ごした私を福岡の方は村のほとんどが、ラッキーとちょうちんの子ではなくて、どこからか連れてきた子であるとご存知でした。
そのことを本人である私に行ってくれる方はおりませんでした。
ただ、私に「おとうさんやおかあさんは好きか?」と、謎をかけてくる方がおられたことは覚えています。
でも、私は答えなかったように思います。
姉と私は5.5歳の差がありますから、当然、姉は知っていたわけです。でも、ラッキーんぽ第一妻に「おかあさんとよべ!!」と、暴力沙汰で、迫られたようです。
占い師として、世に出た後、ラッキーの第一妻は東亜子の母として人前に出たことはなかったようです。
事件後、数少ない第一妻にあった方に「東亜子の母親はどんな人でしたか?」と、伺うと、なにか、言いにくそうに「ちょっと ねぇ〜、 なんか外国人のようでした。それに 話がぁ・・・」と言われました。
私は、ラッキーを思い出し、なんとなく理解できました。
ラッキーはおそらくロシア人との混血でしょうから、白人様のマスクでした。
ラッキーの周りは白人みたいな顔をしたのが多かったからです。これには訳があって、明治まで遡ります。
福岡にはもちろん、ほぼ、日本全国と言っていいくらい調べて歩きました。
その結果、ようやく、自分は誰であるか、わかりました。
そのときまで、犬猫と同じであったのです。叔父だと思っていたのが兄であったり、東亜子の他に腹違いの姉がいたり、父違いがいたりでした。
で、産みの母だと思う人に会うことができました。その方は、間違いないと思います。
というのは娘に瓜二つです。
娘は子供のころからちょうちんが祖母ではイことを知っていたそうで、悩んでいたそうです。
「チョウチンさんは、私のおばあちゃんではないよね・・・」と、妻に言っていたそうです。
「そうなんじゃあないの?だって、ダディちゃんもそう言うし、戸籍にもそう書いてあるわよ」と答えたそうです。
「じゃあ、私は あんな顔になっちゃうの? どうしよう・・・でも、ダディちゃん似てないよね。・・・困った!!」
私どもは人として生まれたことを分断されたのです。
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