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藤田小女姫こと藤田東亜子の名前のいわれは、私どもの実の父が名付けたのだろうと思います。
実の父は労働運動をやっていて、何度か、逮捕されたりしていたようです。いわゆる大東亜共栄圏と騒がれていた頃、中国にわたっていたようです。
母とは単なる芸者とお客ではなくて親戚関係であったそうです。
東亜子の方は大東亜共栄圏からとったようです。
私の洋三は太平洋、大西洋、インド洋の三洋でしょう。
このいわれをラッキーは自分が考えたようにいつも話していましたが、そいういうことの思いつくような男ではなかった。
東亜子は亡き後、この事を知りました。東亜子の写真にもかなり残されています。東亜子もこの父の友人たちのおかげで、世に知られるところとなったのでしょう。
しかしながら、当時、母は日本人と言えば大概の方が知っていると言わる方の後沿いになっておりました。その方にご迷惑をかけてはとの思いから、辛らかったでしょう。
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昭和21年2月、私の記憶の始まりは、遠賀川沿いの権蔵小屋の中であった。
権蔵小屋とは、川筋者が住んでいる小屋で、若松にある観光権蔵小屋は6畳ほどの広さで、床がない掘っ立て小屋である。
そこで、私は後で知ったのだが、祖母と一緒の記憶がある。もちろん、その人が祖母であったと知るのは、後年のことである。
冬の福岡は寒さ厳しく、床のない掘っ立て小屋で3歳の幼児と60歳(推定)の老女がいた。
外では、「馬糞紙では駄目だ。トタンにしろ・・・」の叫び声がしていた。
つまり、風が吹き込むので、馬糞紙(いまでいう下ボール紙)で塞ごうとしていたが、トタンにしろと言っていたのである。
ここへ、叔父になっている(実際には私にとって父違いの兄)が台湾から帰還して、この権蔵小屋にいる祖母と私は見付けたのである。
この時、祖母だけを彼の勤めていた国鉄の官舎に連れ帰った。
なぜ、私は連れて行ってくれなかったと言えば、衛生兵だった彼が見て、どうせ、私は助かるまいと思ったようだ。なぜなら、このブログの最初にあるような姿をした私だったからだ。到底、助かるまいと思ったようだ。
それからの記憶がなかったのだが、数えてみると、2年後の昭和23年だと思うが、小倉の明治鉱業の社宅に、連れていかれていた。そこに祖母がいた。
やはり、2月の寒い頃だった。
私は祖母と同じ布団で、寝ていた。いろいろ、話しかけてくれた。アルバムを一緒に実て、長崎の眼鏡橋が映っていると「この足がよくなったら、ここに連れて行ってやるからな・・・」と、言っていた。
もちろん、この言葉をラッキーが聞かないわけはなかった。ちょうちんもそうだと思うが。私に実親を知らせないようにするには邪魔であったのだろう。
彼らは祖母に死を与えた。
祖母の配給があったにもかかわらず、祖母は餓死した。
祖母は私の最後の肉親である。
ちょうちんは、この事、心にひっかるものがあると見えて、私が結婚して、妻に「お父さん(ラッキーのこと)が、「働くものが食べるのだというから・・・そうした」と、言い訳のように話していた。
つまり、祖母の配給はラッキーが食べたということでしょうが、私は二人で食べたと思っている。
こうして、私は最後の肉親と別れた。
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今日、テレビで、産院で、取り違えられた男性が「自分を産んだ人に会いたい」と、言っていると、放送していました。
私や東亜子の場合は、人さらいですが、取り違えも同じでしょうね。ただ、悪意がなかったのでしょうが、結果はたいへんなものがあります。
テレビで見ていて、胸つまるものがありました。赤ん坊の取り違えは子供のほうyも辛いですが、親の方もやりきれないでしょう。
私どもの場合は、最初、ラッキーの借金のために東亜子を攫って、いわゆる女衒に渡して、謝金を長夏至にしたのです。私の方はいわゆる馬鹿養子としです。
取り違えの場合、単なる過失ですが、結果はみんなで辛い思いをしたでしょうね。まして、子供の方に子ができると辛さはさらに増すでしょう。ラッキーもちょうちんも最後は自殺でした。
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あの日から、今年で、24年が経ちます。
私の中では犯人像は、大分前に、こんな風ではないかと想像しております。東亜子と私を戸籍上で長女と長男にして、東亜子はラッキーの借金の形として昔の吉原関係者に差し出した。私は馬鹿養子として働かせて、金をせしめるという目的だった。
ラッキーは自分の戸籍には自分の子供が誰も持記載さr手ていないが、戸籍に載っていない子供を含めて、多数いる。
このことを私の母となっているちょうちんは「ラッキーさんには子供が数えきれないくらいいるよ。あんたらの思っているような人ではなか」と、よく言っていたが、このちょうちんも戸籍にのっているのは私の妹でラッキーの三女になっているのだけです。
こうして、沢山の子供たちが成人して、自分の親を知って、「どうして捨てたのだ?」と攻め立てたので、ラッキーは「コトトメの財産はわしのものような様なものだ」と言ったのだろう・・・これは想像ではなくてラッキーは私にもよく言っていた。
ところが、あまりの数の多さに、彼らの間で争いがおこった。
その結果、殺害されるものとその犯人に仕立てられるものとに分かれたということでしょう。
私も最初福迫君はどこから来たのかわからなかったが、手紙のやり取りをしているうちに不審なことがあって、・・・あぁ・・そういうことだろう・・・と思いました。
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藤田小女姫こと藤田東亜子が殺害されてから、24年が経ちます。
福迫雷太氏は28歳の時に逮捕されてから、今年で52歳になります。
当初、私は戸籍通りに東亜子と私の関係は異母姉弟だと思っておりました。ところが関係者を当たっているうちに父母同じの姉弟だと知りました。
二人を知る方は、それとなく実母の方向を指さして下さいました。その方向に向かっていくと、・・・・・涙枯れてしまった86歳の老女にたどり着きました。
ただ見つめ合っただけで、すべては通じました。血を感じるというか・・・すべてが分かりあえるのでした。
わが子は母の再来かと思いました。
母は私に・・・自分自身をくれたのです。
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