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終戦後、私が小倉で祖母と一緒にいたのは、昭和24年の寒い頃だ。
小学校に入る一年前である。いつの間にか、明治鉱業・小倉の社宅にいた。この祖母は肉親の温もりを私に与えて、自分は餓死して果てた。
東亞子がハワイでの惨殺された後、祖父母の里に出かけて、親戚など、この二人と関係者を知る人々を訪ね歩いて、お話を伺った。
二人の故郷は、徳島県・剣山系の山奥だった。
祖父は東山、祖母は西山で、各々、そこで、名主のようだった。特に祖母の方は祖母の家の名字とその村落の名前が同じである。
その昔、平家の落人が住み着いたという言い伝えがある。祖父と祖母の家のは徒歩で40分ほど離れていた。
ところが両家は仲が良いかというとそうではなくて、敵対していたようだ。
祖父の親戚の物は「なんで、「○○叔父は△△△(祖母の家の名字)のもの一緒になったのか・・・」と、不思議がっていた。
祖母は美人であったとはラッキーもよく言っていた。そして、この里でも、みなさん、「きれいな人やったわ!」と、おっしゃる。
「鄙には稀な」という言葉があるが、この鄙は平家の女官が落ち延びてきて、古くから美人の里で、「秋田美人」などと言うようにここの地名を付けた美人の呼称があるそうです。
そんなわけで、祖父と祖母はみんなに不思議がられるのに一緒になり、九州に向かった。
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2015年01月12日
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