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昭和21年2月、私の記憶の始まりは、遠賀川沿いの権蔵小屋の中であった。
権蔵小屋とは、川筋者が住んでいる小屋で、若松にある観光権蔵小屋は6畳ほどの広さで、床がない掘っ立て小屋である。
そこで、私は後で知ったのだが、祖母と一緒の記憶がある。もちろん、その人が祖母であったと知るのは、後年のことである。
冬の福岡は寒さ厳しく、床のない掘っ立て小屋で3歳の幼児と60歳(推定)の老女がいた。
外では、「馬糞紙では駄目だ。トタンにしろ・・・」の叫び声がしていた。
つまり、風が吹き込むので、馬糞紙(いまでいう下ボール紙)で塞ごうとしていたが、トタンにしろと言っていたのである。
ここへ、叔父になっている(実際には私にとって父違いの兄)が台湾から帰還して、この権蔵小屋にいる祖母と私は見付けたのである。
この時、祖母だけを彼の勤めていた国鉄の官舎に連れ帰った。
なぜ、私は連れて行ってくれなかったと言えば、衛生兵だった彼が見て、どうせ、私は助かるまいと思ったようだ。なぜなら、このブログの最初にあるような姿をした私だったからだ。到底、助かるまいと思ったようだ。
それからの記憶がなかったのだが、数えてみると、2年後の昭和23年だと思うが、小倉の明治鉱業の社宅に、連れていかれていた。そこに祖母がいた。
やはり、2月の寒い頃だった。
私は祖母と同じ布団で、寝ていた。いろいろ、話しかけてくれた。アルバムを一緒に実て、長崎の眼鏡橋が映っていると「この足がよくなったら、ここに連れて行ってやるからな・・・」と、言っていた。
もちろん、この言葉をラッキーが聞かないわけはなかった。ちょうちんもそうだと思うが。私に実親を知らせないようにするには邪魔であったのだろう。
彼らは祖母に死を与えた。
祖母の配給があったにもかかわらず、祖母は餓死した。
祖母は私の最後の肉親である。
ちょうちんは、この事、心にひっかるものがあると見えて、私が結婚して、妻に「お父さん(ラッキーのこと)が、「働くものが食べるのだというから・・・そうした」と、言い訳のように話していた。
つまり、祖母の配給はラッキーが食べたということでしょうが、私は二人で食べたと思っている。
こうして、私は最後の肉親と別れた。
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