平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に

1994年2月23日(ハワイ時間)姉・藤田小女姫(フジタコトトメと読みます)こと藤田東亜子はホノルルの自宅コンドミニアムで惨殺さ

被害者・藤田小女姫の真実

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温泉

 戦後すぐに群馬県で、養蚕農家敷地内の掘っ立て小屋での生活はどんなものであったかを知ることが出来た。
 この農家に尋ねた時の最初の言葉は「なぜここがわかりましたか?」というのだった。ここのことを彼ら(秋田から群馬に一緒に移動していた子どもたちとそれをさせた大人たち)は、決して知られてはいけないことだったようだ。
 そして、彼らも私を含めて誰にも知られていないと思っていたようだ。
 
 東亜子が戸畑からラッキーの第一妻に連れられてからことを知りたかったので、一生懸命知っている人を探した。
 雑誌の記事で、東亜子のことを古くから知っている人がいる。早速、訪ねて行った。その方は、S新聞の元記者だった。
 東亜子はS新聞本社の最上階で「小女姫相談室を」解説していた。
 その時、私は群馬県のことは大まかな場所ではなく、ポイントで知っていた。みんな、秘匿しているようなので、元記者に言わなかった。
 群馬県の東亜子がいた場所近く(徒歩圏)に、満州で密偵をしていた彼は戦後の疲れを癒して実家で、静養していた。そのときのことを色々話してくれた。
 突然だった。
 「僕、一緒にお風呂に入ったんだよ」と、私はびっくrしfたが、素知らぬ顔をしていた。
 東亜子たちは昭和20年の終戦から、昭和24,5年までこの山奥にいた。昭和24,5年と言えば東亜子が11,2才である。今で言えば、立派な淫行でである。
 この時、一緒に聞いていた家内は、後で、「あの人、どんあつもりで、あんなこというのかしら・・・」と、訝しがった。
 私もその直後、知り合いの記者にそのことを話した。
 東亜子のみならず、一緒にいた子どもたちはいずれも攫われてきたこどもたちだと思わざるを得ない。
 
 そして、昭和24,5年に、京浜地区で住所不定で、八百屋、古道具やを谷rったとのことだった。戦後混乱していたときの八百屋や古道具屋はどんなものだったか・・・
 盗品ではなかったのだろうか?との疑念が消えません。
 
 その頃、あちこちで、占い師がいた。たくさんのこどもたちを連れたひとたちはこどもにも占いをやらせることを思いついたのだろう。
 なんでもやらせたようだ。

赤いバラは、

 東亜子が秋田県・田沢湖の羽〇家から、群馬県の農家の崖下に作られた掘っ立て小屋(この農家の主の言葉です)に、連れてこられた。
 
 前述したようにこの近所の方の少しお話を伺ってから、目的の家を訪問した。このやの主はご在宅でした。
 「藤田というものです。先般、ハワイで亡くなった占い師の藤田小女姫の弟です」というと、この初老の主は、余程驚いたのか、顔がこわばり、言葉が出ない。
 少し、間を置いて、
 「どうして、ここがわかりましたか?」と、聞いてきた。私はこう思った・・・どうしてって?当たり前ではないか、だから、弟だと言っているんだ・・・と思ったが、「いろいろ調べましてね・・・」と、だけ言った。
 
 東亜子の本には、ここを描写している。「母屋は運動会ができるほど広い家だった」と、私はさほど広いとは思わなかったが、ほかの人家からは孤立している。このときは周りの桑の木を伐採したばかりのようで切り株が残っていた。桑の木が会ったらとおりからは見えない。
 そして、母屋からかなり離れたところに白壁の頑丈な蔵が建っていた。まわりには何かをすったように真っ赤なバラが咲いていた。
 
 この主が言うには××さん(ラッキーの第一妻の苗字)一家はこの敷地のがけ下に掘っ立て小屋を建てて、終戦後、住んでいました。
 
 東亜子の本と近所の方のお話をすり合わせれば、がけ下の掘っ立て小屋と白壁の蔵で何かが行われていたと想像するのは考えすぎでしょうか・・・
 
 東亜子が残した写真には、この家の男の子(中学生くらい)がその祖母らしい老女とツーショット・・・この男の子をさして
 「ところで、××さんですよね。ここにいらしたんですか?」
 「ええ、そうです。電話番号を知っていますから、教えましょうか・・」
 「そうですか、ありがとうございます」ということで、教えてもらった。
 もちろん、そこの電話にかかるわけがなかった。でも、表向きはこの電話番号のようだった。
 
 東亜子の持っていた写真の老女は小学校入学の写真の担任とよく似ているというより瓜二つだった。若かった女教師はこの男の祖母と同じくらいの年齢になっていた。
 
 白壁の蔵で何が行われていたのでしょうね。
 
 白亜の蔵の周りのバラはあくまでも赤かった。

崖下、崖上

 「ラーメン」の項で、私の経験を書きましたが、東亜子と同じく攫われて、ラッキーの2番目の妻と一緒に生活した私は東亜子と同じように彼らの金づるだったのでしょう。「金づる」という言葉は提灯の好きな言葉でした。
 ラッキーは一番目の妻には東亜子、二番目の妻には私、三番目の妻にはリツ子をそれぞれ与えた。おのおの妻たちの金づるではあったが、ラッキーの金づるでもあった。
 それで、新しく私の方で起きた出来事を「東と洋と」という書庫を作りました。
 
 日本が敗戦によって、終戦となり、吉原が戦災で焼け出された。
 秋田県にいた子どもたちはほとんど同じメンバーが群馬県の山奥に連れられていった。東亜子の「幸運への招待」によれば、沢山の子どもたちが農家にいた・・・と記載され炊いたので、私はここに出かけていった。
 本には沢山の子どもたちがいたと書かれていた。東亜子がいた農家は現存していた。
 しかし、私は件の家を訪ねる前に近所で終戦後のことを伺ってからにした。
 
 まず、地形
 かなり高い山がありました。だらだらと坂を上っていくとかつては養蚕やっていたのかがあり、家と家とが離れていました。山のてっぺにはまとまって、同族の家が数軒ありました。それとて、桑畑が間にあって、かなり離れていた。
 件の家を訪問する前に聞いた話の一例です。
 ・・・・あの家では、戦争が終わった後、いろんな人がいたみたいです。よく、あの家から、かくまってくれと逃げてきた人がいたよ、それに朝鮮人だろうか、日本語が話せないひともいたよ・・・と、
 東亜子の本ではラッキーの第一妻の弟の家で、「私が着いたときに、もう、、子どもが沢山いた」と書かれている。
 東亜子は「この叔父(第一妻の弟)が、怖くて。家に帰りたくなくて、夕方になっても帰らない日が多かった」と書いていた。
 
 件の家の近所で聞いた話とすりあわせるならば、東亜子も近所の家に逃げ込んだのだろうか・・・と思い、暗然とした。
 おまけに東亜子は「いつまでも帰らないで、川の畔を歩いていた」と書いている。
 
 件の家に直撃した様子は、また・・・

ラーメン

 秋田から東亜子は群馬に行くのですが、ちょっと、昨年亡くなった落語家の師匠は大変東亜子と親しくさせていただいていたようです。
 ご冥福をお祈りすいたします。
 
 ラッキーは昭和29年、突然、上京しました。勤務先の明治鉱業には無断であったようです。提灯と私とすぐ下の妹と末の妹、都合四人は社宅に置き去りにされました。
 もっとも、最初は置き去りにされたことすらわかりませんでした。一ヶ月位してから、提灯が置き去りにされたことに気づいたようです。
 
 そこの話はいろいろあるので、またのことにして、昭和30年9月も末の頃、ラッキーが迎えに来て、四人は上京しました。最後の頃のSLでした。道中も普通ではなく、今回の事件を思わせるようなこともありましたが、東京駅について、江戸川の家に行きました。
 
 そこで、待っていたのは去年なくなった落語家の師匠のお母様でした。もちろん、その頃は彼も落語はやっていませんでした。
 そのお母さんが、しばらく、私どもと一緒の家に住んでいました。私達子供3人は大変彼女になついていました。特に、末の妹(提灯の本当の子)はいつも一緒に錦糸町に行っていました。
 
 ある日、彼女は子供達3人をラーメン屋に連れて行ってくれました。私は初めてラーメンというものを食べました。こんなうまいものがあるのだと思って食べました。生涯忘れないでしょう。
 
 この松○さんが談○師匠のお母さんだと知ったのはさる雑誌で師匠が「わたしのおふくろ」と言って写真を掲載していたからです。
 
 この師匠はなにか経歴を隠しているようです。彼の周りがそうさせるのかわかりませんが、さびしいです。
 
 ラーメンを見るたび思い出します。

恩師と級友

 昭和20年4月に撮影されたと思われる東亜子の小学校入学写真を元に、そのころのことを知りたくていろいろ訪ね歩きました。
 
 まず、校長先生をと思いましたが、すでに物故されていました。
 次に写真に校長先生と並んでおられる担任の先生は、ご健在でした。お年は70台半ばになられておられました。
 私は件の写真を提示して、「この先生は○○さんですよね。東亜子はこれなんですが、この頃のお話を聞かせていただけませんでしょうか・・・・」
 そうすると、「私であるようなないような・・・」といったきり、長い沈黙があって、そうこしているうちにその家のご家族が来て
 「あら、これ、いつの写真?・・・真ん中が××校長先生でしょう。その隣がうちのおばあちゃんだ」というので、私はことの顛末を話しました。
 「昨年の2月、ハワイで殺された藤田小女姫の弟です。ここに写っているのは東亜子です。あの頃のお話を伺いにきました」と、
 「そうなんですか・・・おばあちゃんは一言も藤田小女姫さんの先生だったといったことがないんです」という、
 それで、別のもう一枚の写真を見せると「あっ、これは・・・ほら、すぐそこの△△さんのおうちですよ。今も同じ家です」という。
 そして、「学校はここですが、、昭和20年にこの辺りの生徒はこんな洋服を着ていなかったでしょうね。おばあちゃんは都会で先生をやっていたから・・・その頃のものではないでしょうか?でも、変だね〜だって、これは小女姫さんで、この年に入学したんでしょう」という。
 ○○先生は押し黙ったままでした。
 
 確かに、女生徒が大半で男生徒がまばらに入った30人足らずの生徒達は都会の子のようでした。
 おそらく、○○先生は全部ご存知だったのでしょうが、何も言いませんでした。
 
 東亜子はこの写真だけで学校と名がつくところには通った形跡がありません。後に世に出てからは私立の学校に在籍したことがあります。その担任の先生はすべてその頃のお話をしていただきました。
 
 ここのその写真をアップして、見たいただいて、なにか情報が得られればと思うのですが、可能なのでしょうか・・・
 
 終戦の頃をご存知の方はご教示を!
 

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