平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に

1994年2月23日(ハワイ時間)姉・藤田小女姫(フジタコトトメと読みます)こと藤田東亜子はホノルルの自宅コンドミニアムで惨殺さ

被害者・藤田小女姫の真実

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花街を支える村

 東亜子が借金の形に吉原関係者に引き渡されて、秋田県の田沢湖近くの村に連れて行かれたのは昭和20年4月であったか、その前であったかわからない。というのは東京で小学校に入学していたのならば、私が卒業した小学校と同じであるから、私は母校に行って、東亜子の入学式の写真をもって、尋ねました。
 ところが、そこに写っている先生が在職していたかどうか、不明なのです。
 
 戸畑をでてからの東亜子の足跡を辿っていた私は秋田・田沢湖近くのさる小学校にこの写真を持って訪れた。歴代の校長先生の写真が飾られていた。
 その中に東亜子の入学集合写真の中央に座っている校長先生の写真があった。
 
 ここ田沢湖近くの村は吉原関係者の本に依れば、『女郎や芸妓要員として連れてこられた子どもは寒い東北地方の田舎である年齢になるまで、育てられる』そうだ。
 
 東京・吉原は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼け出された。昭和20年8月15日、日本の敗戦によって戦争が集結した。
 吉原は復興することが出来なくなった。東亜子のみならず沢山の子どもがこの界隈で育てられていた。その子どもたちは吉原に返されることができない。
 『日本売春思考』によれば、こういう子どもたちはほとんどがさらわれてきた子どもであるという。戦後の食糧難の時代、秋田地方も例外ではなかった。
 戸籍がないか、あるいは人さらいの戸籍に養女としてはいっているかの子どもたちであるから、次の行き先は・・・
 
 今もって、人身売買と言うことが行われているのですね。中国では、最近、当局に手入れされたとか言っていますが、・・・
 人身売買という、おぞましいことが実際おこなわれていた(る?)のですね。
 
 次に、私は、東亜子の連れられて行った先に訪ねて行きました。吉原関係者が数多く連れられてきていました。大人もいたようです。
 
 こうして、書いていてもため息がでます。
 

雪・行き・逝き

 昭和20年5月ごろから、吉野川の源流に程近い祖母の実家で、静養していた祖父母は、突然、福岡・戸畑の家に帰ると言い出したのは、昭和21年・真冬だった。
 祖父の実家は祖母の家から徒歩で、尾根伝いに40分ほどの距離にあった。そこに何か福岡から知らせがあったようだった。このとき、祖父は60台はじめだった。祖父の本家には甥が戸主であった。祖父は小柄であったが、この甥は屈強な大男であった。祖父はこの甥に福岡の家まで同道してくれるように頼んだ。
 ところが、昭和21年1月下旬の阿波・剣山系は雪だった。今でも雪合戦の大会があるくらい雪が多いです。この甥は「春まで待てないか・・・」といったし、まわりのもの達も「待ったほうがいい」といって、今かなければならない理由を聞いたが、答えなかったそうだ。
 
 今は徳島県三好市になっている。私は福岡県戸畑にいくにはどういう経路で行ったのかわからないが、いずれにしても池田で列車に乗らなければならない。
 当日、祖母の実家に祖父の甥が迎えに行った。家を出ると急激な崖がある。そこで、祖父は雪で足を滑らせた。谷に落ちたら終わりなのであるが、途中、木にひっかって止まった。ところが、その弾みで胸を強く打った。
 1週間ほど、出発を遅らせ、休んだ。多少の痛みが残っていたようだが、出発した。
 
 大変であったが、戸畑の家に着いた。祖父が到着したの知ったラッキーやちょうちんを含む川筋ものがきた。
 ところが、大男で腕力が強そうな甥を見て、帰った。川筋ものというのは威勢が良いとかいうのだが、ただでは帰らない。一緒にいたちょうちんが、甥の長靴を無断でもって帰った。
 昭和21年の長靴は貴重品であったのだろうが、大男の長靴に足が合うものがいなかった。このことが彼らの犯行を物語った。、
 
 しばらく、甥がいたが、いつまでもいるわけにはいかないので、徳島に帰った。
 
 甥が帰るのを待っていた川筋もの達は、祖父母を襲った。胸の痛みが残っていた祖父は・・・無念であったろう。
 
 祖母は・・・
 雨風の強い晩であった。私が押し込められていたごんぞう小屋につれてこられた。このときの記憶は私の最初の記憶です。
 「・・・トタンにしろ、だめだ・・・」といって叫ぶ男の声だった。
 
 なぜ、祖母だけが助けられたのか・・・犯人達は祖母を助けたことが自分の犯行を物語っているのに気づかないのか・・・
 つまり、ラッキーとその実の父親だろう。
 
 私は人の美醜を言うのは嫌いであるが、東亜子が「美人占い師」と言われたならば、この祖母がいたからでしょう。あたりをはらいというほどの美人であったそうだ。福岡にいったばかりの祖母を見て人攫いを生業にして、少し知恵遅れであったラッキーの実の父親が襲ったのは当然の成り行きだった。
 
 戸畑の家からは祖母の宝飾品を始め一切合財持ち去られた。私どもの父は労働運動家として、少しは、知られた人だったが。祖父の半分だけの甥だ。つまり、母とも少しの血縁があった。
 祖父の家に多量の蔵書を置いていた。それをラッキーが盗んで、最後は東京にまで持ってきていた。
 
 東亜子の死後、母はこのことを知っていて、「なんにもないでしょう・・・」と、49年前の出来事と重ね合わせているようだった。

 川筋者の意味を飯塚の歴史民俗資料館に問い合わせました。
 答えは

……・
 筑豊地方の石炭を若松の洞海湾(遠賀川河口)に運び出すために川平田舟でを使って、遠賀川を下った。
 その船を操船する船頭さんたちのことです。威勢が良くて、気っぷが良い男たちのことです。……
 とのことでした。

 今は若松には観光施設としてゴン蔵小屋があります。すなわち、川筋者のことを権蔵といった名残からだと思います。
 川筋者の本場・飯塚で、川筋者の寄り合い所というか詰め所というか住居というかそういうものです。飯塚には遠賀川筋に建坪3坪くらいの権蔵小屋が沢山建っていました。

 その人たちと祖父の死は密接な関係があると思っています。その前に、みなさん、『川筋者』という言葉のイメージ…どんな風に感じますか?

 ラッキーはこの川筋者の住居である権蔵小屋で成長しました。

 何ともいえない想いがありますが、皆様のイメージ教えて下さい。

赤旗

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 
 先日、父祖の地に行ってきました。もう、何回も行きました。
 東亜子が秋田につれていかれたその頃、私はラッキーにより、福岡県飯塚のゴン蔵小屋に押し込められた。2歳であった。
 私はハワイの事件後調べた。祖父母が提灯の実家に私を探しに来たようだった。同じ飯塚でもゴン蔵小屋のある遠賀川筋と繁華街では少し離れているのと、川筋者のゴン蔵小屋には近づけない。つまり、川筋者の本部に行くのだから、危険である。

 時系列に整理すると、東亜子が東京に連行されたのは小学校入学前で、私がさらわれたのが4月になっていたと思う。
 
 身に危険を感じた祖父母が上記の写真のところに避難するのであった。その時、祖母は飯塚に行ったのが原因かどうかわからないが足が不自由になっていた。
 祖母の実家に行くのであるが、ここは四国の剣山系でごらんのように山険しく、谷深いところである。
 これから、3年後、私はこの祖母と最後の肉親として過ごすのである。体格が良いとかとは感じなかったが、祖父がこの山を登るのは難儀したであろうと思う。現在のこの家の当主に依れば、戸板にのせたのでは…という。

 こうして、昭和20年8月の終戦を迎えた。

 なぜ、このタイトルを赤旗としたかというと、ここは平家の落人の里です。この写真の場所から少し行くと、平家屋敷があります。そこには畳1畳ほどの赤旗があります。赤地に文字が書かれています。本物の赤旗です。祖父もこの近くの出身です。
 東亜子はここにきたことはないと思いますが、彼女の本には「鳥も通わぬ」と形容しています。阿波のここが父祖の地であると言うことは知っていたようです。実の母に聞いていたのでしょう。

 ここで、終戦の年を過ごした祖父母は昭和21年になって福岡・戸畑の自宅に帰るのですが、これが今回のハワイの事件の原型になっていると思います。
 次回、祖父の死を書きます。

思えば遠くに・・・

 福岡県戸畑の祖父の家から、買い物姿のラッキの一番妻に誘拐されてから、福岡県篠栗の明治鉱業社宅やゴン蔵小屋で、犬や動物のような扱いで、ラッキ−とその妻を『父、母』呼ばされた東亜子は東京・江戸川で、彼らの借金の形に引き渡された。

 このとき、3月10日の東京大空襲で吉原は焼かれていた。しかし、吉原の関係者の本に依れば、花魁や女郎予備軍として、子どもを得たときは、東北で、ある年齢まで置いておくそうだ。
 東亜子も秋田に連れて行かれるのであった。東亜子の『幸運への招待』に依れば、
…実の母が北海道にいるというので、北海道を目指した…と、書かれている。
 小学校にもうすぐという年齢の女の子を列車で東北・秋田に連れて行くには人目に触れるので、いわば、連れて行く人間が騙したのでしょう。

 考えてみて下さい。
 九州・福岡から東京を経て、北海道です。小学校入学寸前の女の子です。その不安はいかばかりであったかと…
 ところが、途中で、予定を変更して、秋田県の田沢湖に連れて行かれました。さる農家でした。吉原予備軍はここで、ある年齢まで過ごしたようです。 
 
 私は、このこと知ってから、東京から東亜子の足跡を辿りました。『心細かったろう。寒かっただろう。寂しかっただろう』と思いながらでした。

 残された写真を元にこの農家を訪問しました。当時のことを知っている高齢の男性は
薄笑いを浮かべて、何も話しませんでした。
 ところが、同じ写真に写っていた幼児を見て「あっ、これ!俺だ」と、

 彼は幼児であったので、この写真がなんたるかを何も知りませんでした。でも、高齢者の男性はなぜこんな写真があるか、全てわかっているのに何も話しませんでした。

 私は言いたい。”もう、歴史であるから、全部、話して欲しい欲しい”と思う。良きに付け悪しきにつけ記録しておかねば成りません。

 これから、数ヶ月後に終戦を迎えるのであった。


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