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藤田小女姫こと藤田東亜子は、惚れっぽいというか、いろいろな人が好きになったそうです。
まわりにいた人によれば、二枚目とか今でいうイケメンが好きだったそうです。
私ども、肉親の間では東亜子には子がいたという風に思っております。ラッキーにさらわれた子がいたという共通の思いがあります。
ラッキーはよく、こういっていた。
「女は自分の腹を痛めた子は忘れられない」と、うそぶいていました。
私の母親からは、私を・・・東亜子からは四女をだしにしたとの思いがあります。
昔、トニー・谷さんのご子息が誘拐された事件の時、ラジオで、「助けてください」と、懇願しているトニー・谷さんの声に、ラッキーは「ふん、変な奴だ。俺なんか、お前たちがさらわれても、あっ、そうですかで、終わりだ」と、私、二女、三女を前に言い放っていた。
四女に初めて会ったのは、私が、大学に入ったばかりのころだった。四女は幼稚園くらいの年齢だったのですが、どこにも行っていなかった。
ラッキーは明治鉱業を辞めてからは、どこからも収入がなくて、文字通り文無しであった。
この四女に、私は夜昼別なくやっていたアルバイトのおかげで、少しの金を持っていた。
二女や三女には小遣いをやろうなどと思わないが、この四女には、小遣いをやっていた。喜んでくれました。
この四女は、私から言うのもなんですが、美人でした。
本人もラッキーと第三妻の子でないと早くから認識しておりました。
いろいろありました。思い出しております。
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被害者・藤田小女姫の真実
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昨日、日本テレビで、ハワイでの事件について放映がありました。かなり前に取材がありました。
感じたことを書きます。
原因について、立川談志師匠が、
・・・・倅のことが原因だろう…・と、言われていました。まさしくそうです。今、このブログで、私どもがラッキーに連れ去られたことを書いていますが、その結果が、東亜子の養子になっていた吾郎に行きつくのです。
談志師匠は短い言葉で言われましたが、ラッキーたちの所業が最後に吾郎に行きつくのです。
誰もが、吾郎は誰の子であるのか?親がなくて子があるわけはないのですから、生んだ母親がいるはずです。私は、吾郎の母親を訪ねて、21年前、愛知県の片田舎の町に行って、ご近所の皆さんにいろいろ聞きました。
即ち、本当に生んだのかということを聞きたかったのです。
多数の方に、聞いて回りました。
みなさん、「○○さんは、おばあさんですよ。いくら、20年前でも子供など産めるわけがないでしょう。それに20年前のあのころは、○○さんは婦人会をやっていて、子供を産んでなんかいませんよ」とのことでした。
この方はラッキーの知り合いであることでしょうが、なぜ、吾郎をほかの人の戸籍に入籍したのか、・・・このこと自体「公正証書原本不実記載」です。
この時、ラッキーには戸籍のない子たちが、何人かいたのだ。ラッキーは、私の子が戸籍上は孫であるにも関わらず。私の子から、逃げ回っていました。
ラッキーでも、戸籍のない子は不憫であったのだろう。
奇しくも、この愛知県の片田舎は、伊勢湾台風で役所が流されて、申告によって、戸籍が作成された。
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私が藤田小女姫こと藤田東亜子が姉であることを知っていても、会いに行かなかったのは、皆さまわかりにくいと思いますので、ここにその実態を書きます。
実は姉には電話をしたことはあります。早朝、誰もいないときにつながりました。次にかけたとき、秘書かお手伝いさんかの女性が先に電話に出ました。私のことを根掘り葉掘り聞いてきました。
その次にかけたときはその電話はなくなっていました。解約されていました。
それきっりでした。
ラッキーは妻が3人おりました。もちろん、戸籍上は同時ではありません。
最初の妻(ここでは第一妻と言います)は、ラッキーより一回り年上です。つまり、12歳年上の女性です。容姿はラッキーと同じく白人のようだそうです。東亜子の母親になっています。
次が、私の私の母親で、ラッキーの二女と三女母親になっている第二妻です。ここではちょうちんと呼んでいます。容姿は顔が六角形で、色黒く、日本人様です。ラッキーより一回りしたですつまり、12歳したです。
第一妻と第二妻であるちょうちんとの年齢差は24歳です。
第一妻はラッキーと一緒になる前に、男女二人の子を生していました。女の子は年齢がちょうちんと同い年です。
で、東亜子が殺害された後、東亜子の姉となっているので、私は電話をしました。
「○○子さんですね。私、藤田と申します」と、名乗りました。でも、彼女は私が子供のころ、明治鉱業の社宅(炭住)にいるころから、すでに知っていた。私は知りませんでした。
続いて「あのぉ〜、○○子さんは、ちょうちんさんと同い年ですよね」というと「えぇ〜、まぁ〜」と言う。そして、最後に「近い内に、裁判所でお目にかかれますよね」と言って電話を切った。
これが最後の言葉です。つまり、彼女はほどなく亡くなりました。
最後が第三妻です。私どもが九州から東京に出てきたときに、すでに先に東京にいたラッキーと一緒にいた女性です。四女の母親になっています。元芸者です。容姿は普通の日本人然としています。
ちょうちんと第一妻は一緒に生活していたことがあったらしく、よく、第一妻の凶暴性を私どもに言って聞かせていた。
「○○枝さんは、すごいのよ。じいちゃん(私どもの祖父)と、いつも取っ組み合いの喧嘩!!」と言って、私どもに○○枝の凶暴性があることを伝えていた。
だから、東亜子のところに行けば、狂暴女が「猛り狂うぞ」と、いうのだった。
東亜子にもちょうちんのことはそう言っていたのだろう。
電話で、「お父さん、お母さんのことは抜きにしましょう」と・・・・
人と人との間を分断するのは彼らの生命線だったのです。
今回逮捕された中学生誘拐犯もいろいろな言辞と、手段を弄したのでしょう。
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今朝、朝ドラを見ていたら、炭住で、使われていた言葉が出てきました。このドラマには前からこの言葉が使われていたような気がしますが、忘れかけていた福岡弁を思い出し、妙な気持ちです。
福岡でのことを確認するために歴史資料博物館にいろいろお聞きしました。「せからしか」はよく使われましたが、あまり・・・ちょっと、いわく言い難いです。
川筋者のことを・・・・≪飯塚などで掘られた石炭を遠賀川を下って、若松まで運んだ船の船頭さんで気風がよい人≫と、答えられました。
それはそうかもしれませんが、
≪川筋者→筋者→スジ者と変化して、やくざの意味合いを持つようになった≫とはいえないでしょうか??
私が住んでいた炭住でも、≪せからしか≫は、よくつかわれていました。
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前項で、明治鉱業のことに触れました。
東亜子が殺害された後、東亜子の本宅(死亡した時点では、成城の自宅マンション、ハワイのコンドミニアム、箱根、名古屋にそれぞれ別荘があった)で、写真を整理していたら、驚いたことに、私が住んでいた明治鉱業・篠栗鉱業所の社宅で、東亜子を真ん中にした集合写真があった。
炭鉱会社の社宅とは、通常、炭住と呼ばれていた。私は物心ついてから、東亜子にあったことがなかった。なのに炭鉱のことをヤマと呼んでいた時代の炭住に来ていたのだった。
その頃、東亜子は藤田小女姫(コトトメ)として、天才少女占い師と呼ばれていた。私は小学校4, 5年だった。
その前に、ラッキーは大人の男なのに、少女雑誌を買ってきて、一人で、後生大事にしているのは知っていたし、同じ社宅のおばさんたちも、私のことを弟だ言っていた。
東亜子亡き後、篠栗に行って、いろいろ聞いて歩いた。
東亜子がラッキーの第一妻にさらわれて、篠栗に連れてこられていたのも、この時、知った。2軒長屋になっていた社宅に監禁されていて、時々、窓から、見えたそうだ。
東亜子がラッキーの第一妻に東亜子を攫わせて、続いて、私をラッキーの代に妻になるちょうちんに私をさらわせた。昭和20年、もうすぐ、東亜子は小学校という時期だった。
ラッキーは明治鉱業篠栗鉱業所であるから、炭住にいたとしても、第一妻と第二妻になる者が同居ということは考えられないことだろうから、私はどこに監禁していたか・・・・
いわゆる川筋者たちがいる飯塚の権蔵小屋であった。
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