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さるブログで「もし、もどれるなら」という表題があったので、私ももどれることならという思いがあります。
東亞子は「有楽サウナ事件」のあと、ハワイに行きます。
そして、ラッキーの第一妻では戸籍上、母親になっていて、昭和20年、3月、小学校入学寸前に戸畑から、東京の「しんせつなおばさん」に引き渡され、冬の秋田に連れて行かれました。
その第一妻をハワイに連れて行ってどうしたのか・・・・
このことをちょうちんはどこから聞いてくるのか。私どもの耳にも入りました。
「あっちはひどいみたいよ!!」という。そのとき、私は「あっちってどっちだ?」思っていました。
今、痛恨の思いです。
私は若年失策。中年苦闘、老年悔悟の人生だと若い頃から思っていて、この言葉をよく口にしていました。まさにこの言葉のようです。
東亞子は、ハワイで、第一妻に暴力を振るっていたそうです。まわりのお手伝いさんなどによると、「なんで、先生は、あんなにおかあさんんおことをなぐるのでしょうね?」と、不思議がっていたそうです。
私の悔悟は、ラッキーを私が羽交い締めにして,東亞子に思いっきり殴らせてやらなかったことです。
本当に人生って悔悟ですね。
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被害者・藤田小女姫の真実
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事件後、成城のマンションには秘書と名乗る女性が住居を占領していた。裁判所から、管財人が選定されて、私どもが入ったのは、事件から半年以上たっていた。
秘書と名乗っていた女性は,私どもに会うことなく、当日の朝早く逃げるようにして退去した。
入ってから、私は名簿やら電話帳で、かつて、個人がおつきあいしていた人たち特に秘書とかお手伝い方にお目に掛かって,お話を伺った。
生前、東亞子がどんなことを話しているのを知りたかった。
皆さん、共通していたことは
1、 いつも寂しそうでした。
2, 私の青春なかった。
3, 私の人生なかった。
でした。
・・・いつも寂しそうでした。・・・というのはさもあろうと思う。私だって、自分の家庭を持つまで、自分の居場所がなかった。でも、私は自分の家庭を持つことができた。
東亞子は戸籍上は一度,結婚したことになっているが、戸籍の上だけのことでした。
ラッキーは、私どもが上京したときに江戸川の家に越してきた。江戸川と言えば,すぐ近くに小学校入学寸前の東亞子を借金の形に自称「しんせつなおばさん」に手渡した場所だ。
その後、私もそのしんせつな家によく行った。
私どもが九州から上京してきたときは、東亞子は美人占い師として、派手に活躍していた。
ところが、ラッキーは明治鉱業を辞めて,1年ほどの無職だった。当然,生活が成り立たない。ちょうちんはこのしんせつな親分に依頼して、ラッキーを小岩駅頭で、懲らしめて貰った。
ラッキーは無職の失業者である。金を持参しろと言われれば、行くところは,東亞子のところしかない。
ラッキーは、又、東亞子を金にしようと考えたのだろう。その頃、東亞子は週刊誌などで二枚目俳優との間を騒がれていた。
このことを知る人は「あの俳優に夢中だったので、みんなで邪魔した」と言ってはばからない。
そして、ラッキーたちは高利貸しの息子に東亞子との結婚を持ちかけて金を引き出した。
でも、実際には結婚式を派手に挙げて、戸籍を入籍しただけで、別れた。一緒に生活したことはない。
結婚って、なんなのだろうか???
怒った金貸しの息子は、突然、やってきてラッキーの第一妻を階段から突き飛ばしたそうだ。
こんな青春だったのだ。
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自分の身分を知ってからの私は、ラッキーや第一妻の所業を詳らかにしようと思って、北は北海道、南は福岡、時間を作って、知り合いや東亞子の遺品から出た手がかりを元に歩いた。
それと、知らなかったとはいえ、私は彼らの渦中にいたのだった。
まず、私は飯塚のごんぞう小屋に監禁されていたことは、早くから、わかっていた。
でも、東亞子は私より5歳年上なのだ。私は3歳にもならないから、自分自身がさらわれたことさえわからなかった。
しかし、東亞子は小学校に入る寸前であった。長崎で、祖母や母と一緒で、しかも戸畑の祖父の家に女中さんに連れられて、祖父母の家に通っていたそうだ。同い年の従姉妹と遊んでいたそうだ。
祖父母の家で、遊んでいた東亞子をラッキーの第一妻が買い物姿で現れて、「一緒に買い物をしよう」と、誘いそのまま、誘拐した。これは、東亞子の死後、物心ついてから初めて会った私に母が、東亞子の言葉として私の教えてくれた。
小学校6年の夏まで、過ごした明治鉱業の社宅近くで、明治鉱業の社員の方にお話を聞くことができた。
東亞子と同じ年頃のその方達は、東亞子が監禁されていた様子を知っていた。
私が住んでいた明治鉱業の社宅とは違った場所だった。小倉に行く前の場所とはいえ、社宅で大胆にも東亞子を監禁していた。
道路より高い場所にあったその社宅で時々女の子の姿を見かけたが、外に出てくることはなかった。
小学校にはいる直前の東亞子は、自分の親たちのことを知っていたし、自分がさらわれたと言うことも知っていた。
東亞子を受け取った方が一番心配したことは、さらった子であるのがばれることだった。
まず。東亞子をラッキーや第一妻のことを「お父さん」「お母さん」と呼ばせることだった。
鷹匠が雛を得て、自分を親だと思い込ませるには、極限まで、餌をやらないで、死ぬ寸前になってやると雛の鷹は、鷹匠のことを親だと思い込むのだそうだ。
その方法を東亞子にした。
さらった東亞子に食べ物をやらないでいて、・・・
飢えた東亞子の前に食べ物を出し、これをやるから、ラッキーを「お父さんと呼べ」「第一妻をお母さんと呼べ」と迫った。
拒否した東亞子の目の前で、彼らが食べてしまった。
こんなことが何度か繰り返された後、東亞子はやむなくラッキーを「おとうさん」第一妻を「おかあさん」と呼んだのだろう。
幼児ともいえた東亞子が自分の魂を・・・・・・・・無念だったろう。
後年、成城の100坪超えの豪邸で、食べ物は、政財界の有力者から送られた高価な高級食品を少しだけ、かじって「捨ててしまいなさい」といって、捨てさせた。
まわりにいた方が「そんなもったいないことをしないで、皆さんに、少しずつ、小分けにして、持って帰っていただいた方がよろしいでしょう」と、忠告しても「捨ててしまいなさい」一点張りだったそうです。
このことを聞いた私は、魂を売った東亞子の苦しみがわかっていたたまれなかったです。
ちょうちんは私が我が子を連れて江戸川の家に行くと、すぐに帰りたがる私の子に対して「餌をやる人には懐くわぁ!!」と言った。
妻はこの言葉への不快感を今でも言っている。
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事件が起きるまで、私はラッキーとちょうちんの子だと思っていました。いつも、第一妻の凶暴さをちょうちんは「二人でとっくみあいのをしていた。○枝(第一妻の名)とは仲が悪かった」と、祖父と第一妻の関係をいっていました。
それで、小さい頃から、東亞子を連れて行って、一緒にいる第一妻に会ったならば、ひどい目に遭うだろうと・・・
それもありましたが、このちょうちんの方が私にとって困っていました。この女がいなくなったら、東亞子に会いに行こうと思っていました。
事件は、ちょうちんががんセンターで亡くなった3ヶ月後のことでした。ちょうちんの事後処理を弁護士に依頼して、次女と三女に話をつけ、会いに行こうと思っていた矢先の出来事でした。
ちょうちんの死を平成5年9月30日午後11時59分と医師は確認しました。
翌、2月23日にハワイの自宅で東亞子は死体で発見された。同じく吾郎も死亡していたが死体には蛆がわいていたそうだ。
ちょうちんの葬儀を私が喪主になって執り行いました。今、思うと、ちょうちんは東亞子の事件を予測していたように「自分が死んでも、九州の連中に連絡しては駄目だ」と、何度も繰り返していました。
ちょうちんも自分が死んだら、私が東亞子に会いに行くことはわかっていて、私も自分の本当の身分を知ることは確実だと思っていたのでしょう。
そして、九州から出たきた者たちが東亞子の周りを徘徊していたこともつぶさに知っていたのでしょう。
ハワイで、東亞子が第一妻に暴力を振るっていたことを知っていて、「あっちはひどいみたいよ」と、私どもにいっていた。
「吉○さんちは怖いから・・・」とも、言っていた。自分がラッキーを痛めつけるように依頼したくせに、最後まで勝手な女だった。
このとき、まさか、東亞子と私の誘拐に深く関与していたとは知らなかった。
自分の身分を知ってから、どこで、どのように誘拐されたか、調べることにした。
東亞子と私は5歳の差があります。私には実親と一緒にいた記憶がありませんが東亞子は小学校はいる直前まで一緒にいたのですから、当然、実親の記憶があります。
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事件が起きて、東亜子の様子を何も知らない私は、彼女がどんな生活をしていたか知ろうと思って、できるだけ東亜子の近くにいた人々に話を伺うことにした。
近くというと、秘書の方、お手伝いさん、ご近所、の方々です。マスコミ関係者とか、仕事関係などは緊張したなにかがあるので、それは表として、日常の生活を知りたかったのです。
それと、吾郎を知る人を探しました。
まず、東亞子と吾郎はどうだったのか?
ある方は・・・・・・・「最初、テレビで先生(東亞子のことを皆さんこう呼んでいました)が、殺されたと聞いて、誰がやったかというは、一番最初に思い浮かべたのは吾郎ちゃんでした。でも、ちょっとしたら、吾郎ちゃんも殺されていて、違うのだなって思いました。
いつも・・・ね。吾郎ちゃんは先生に暴力を振るっていて大変でした。それに暴れて、もう、見ていられませんでした」・・・・と、
「どんな理由で、暴力を振るうのですか?」
「理由はよくわからなかったのですが、成城の家には、漫画がたくさんあったでしょう」
「えぇ・・・大きな段ボール箱に何箱もありました。捨てるのに大変です」
「あれなんかも、先生は嫌がっていました。それとお金のことなんかも・・・あったんんでは??」
吾郎は小さい頃から、学校はほとんど行かなかったようです。学校から父兄である東亞子に何度も何度も呼び出し状などが来ていた。
小学校はどこに行ったか知らないが、吾郎はほとんど、名古屋の別荘で過ごしていたようだ。別荘の荷物を取りに行ったら、別荘の近所の方が、「吾郎さんとなにかお母さんみたいな方と一緒に住んでおられました」と、いわれた。だから、学校から成城の家に呼び出し状が来ても、誰も無視したのでしょう。
東亞子に暴力を振るっていたのはかなり、大きくなってから、21歳で死ぬまでの間であったと思う。
前記事に書いたようにNSXとアキュラなど、高額なスポーツカーなど、無職で無収入なのに買い与えるということは吾郎の暴力の果てであったのか?
それから、吾郎が私の近くの全寮制の中学校に入ったが1ヶ月ほどでやめているのを知ったので、この学校に問い合わせたが、ご返事いただけませんでした。
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