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私が東亞子の養子がいると知ったのは、亡くなった吾郎が10歳か11歳の頃だった。週刊誌に出ていた。
無責任にも吾郎は政商と言われた某財界人と東亞子の子ではないかと予想していた。このことで、東亞子は大変な迷惑を被った。この週刊誌のことについてこの財界人は東亞子を詰問した。
東亞子とて、吾郎が養子に入ったことすら知らなかったと思う。というのは愛知県の田舎町で生まれたことになっている吾郎を知るよしもなかっただろう。
私は事件後、この吾郎が生まれた場所である愛知県の田舎町を訪ねて、吾郎が生まれた様子を聞きに行った。
「20年ほど前、△△さん方で、男の子が生まれたでしょうか?」
「△△さんはのところの息子さんは、もう、40歳すぎで、一人しかいませんよ。それに△△さんは、もう、おばあさんですよ。若い男の子がいるわけはないでしょう」
と、一様に皆さんがいわれる。
それと、週刊誌に出ていたときに丁度我が家にやってきた私の戸籍上の父?ラッキーに問いただした。
「この間、週刊誌に東亞子のところに養子がいるって、あれなんなんだ?」
「・・・・ ・・・・ ・・・ ・・・」
ラッキーはうつむいてただ黙っている。
私もかなりしつこく聞いたが、黙っている。
長い間、黙っていて、仕舞いにはうつむいて泣きそうになる。
事件の後、東亞子の周りには、「吾郎」と言う名の男の子で、亡くなった吾郎と同じ年齢で、同じ学校に行っていたのが、もう、一人いると知った。
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被害者・藤田小女姫の真実
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藤田小女姫の最後の写真はハワイ警察が撮影した遺体の写真です。
これをここにアップするわけには行かないので、言葉で書きます。
まず、顔は猿ぐつわを咬まされていました。衣類を細くして、ねじったようで紐状になっていました。
首には絞められたような跡がありました。
背中には釘状の物で、引っかかれたように、ジグザグに傷がついていました。
足は焼かれたのか、黒ずんでいました。手の指先は傷ついていました。
以上です。さる出版社で、専門家に見ていただきました。それによると、
・・・多数の加害者が多数の凶器で死に至らしめた。・・・とのことでした。
私もそう思います。
多数の犯人が多数の凶器で、いたぶって、死に至らしめたのでしょう。
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ラッキーがさる組の幹部に約束した金を用意することができたのは、襲撃されてから数年たっていた。私は高校生になっていた。
本名・○○吾郎という名の二枚目俳優に夢中だった東亜子を高利貸しの息子と結婚させて、そこから、金を引き出すというのを実行して作った金だった。
東亜子の支援者も反対した。さるジャーナリストは彼の著書に件の高利貸しの息子のことを「粗野で下品な男」だから、駄目だと書いてあった。
ラッキーと第一妻と東亜子のマネージャーとその取り巻き達は金のために結婚はしなくてもいいから、形ばかりの結婚式と戸籍を入れるということにした。
世間では結婚式を挙げて、戸籍を入籍したならば、結婚したと考えるでしょう。
ラッキー達の論理はそうではないようだった。結婚式を挙げ入籍したならば結婚詐欺とは言わないと言う。
この頃から、東亜子は「私の人生なかった。私の青春なかった」というようになっていたのだろう。
東亜子の犠牲によって得た金で、ちょうちんは家の建て替えをした。
それから、しばらくして、離婚という形で、高利貸しの息子とのことに終止符を打った。
ラッキーは「吾郎さん、吾郎さん!!」と言う東亜子を見て「吾郎」ならいいと考えた。そして、んばらば「吾郎」を作ろうだった。
こうやって、東亜子のまわりには「吾郎」という名の男の子が何人かできた。
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駅裏で襲撃されたラッキーは私どもが住んでいた家の新築代金を持参することを約束したようだった。この約束を果たさなければ、どうなるかはラッキーが一番わかっていただろうし、東亜子のところにいた第一妻も当然わかっていた。
今もそうだが、家1軒というのは大きな買い物であって、いわゆる太い金だ。失業者のラッキーがとうてい出せる金ではなかった。しかし、なんとかしなければ・・・
ラッキーとラッキーの第一妻は戦前から、借金まみれであった。昭和20年、そもそもラッキーを襲撃した親分のところに、東亜子を連れて行って借金の形にしたのだ。
そのころ、金融業者(今で言う街金)の息子が、藤田小女姫にご執心だったことに目をつけた。ラッキーと第一妻は、金のためにこの話を何とかしようとした。
ところが、東亜子はそのころ、二枚目の映画俳優に夢中であった。
皆さん、結婚って何だと思いますか?
① 結婚式を挙げることでしょうか?
②戸籍を入れることでしょうか?
ラッキーと第一妻はこの両方をしました。
ところが、二人は一緒に住んだこともなければ、なんでもなかったのです。
ハワイでの事件後、東亜子のマネージャーだった人とそのグループに守られたと聞きました。戸籍はほどなく離婚という形で抜きました。
第一妻によって、金だけ出した東亜子の結婚相手はそこのところをさる雑誌に書いていました。
これは余談ですが、東亜子のマネージャーとそのグループの学生時代の写真があったので、どこの学校か調べました。ラッキーも一緒に写っているその写真を持って、東京に隣接した県庁所在地の図書館に行って写真の学帽についている徽章で、校名を知ろうと思いました。
図書館で付け合わせていると、年配の方が、「これは○○師範学校だろう」といって、学校史を見ると一致しました。
東亜子が思いを寄せていた二枚目俳優の本名が「○○吾郎」です。
ラッキーとその第一妻に東亜子は二度売られた。
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最近、テレビドラマで土下座が流行っていたそうですね。あまり、ドラマは見ないので、どういう内容だかわかりませんでが、その語感からして、ろくなこと」ではないと想像しています。
昭和30年、北九州の炭住から、東京の江戸川沿いに引っ越してきた。そのころ、ラッキーは第3妻となる女性のところに住んでいた。後で聞くと、ラッキーが押しかけていったようだ。
だから、江戸川沿いの家にはほとんど、寄りつかなかった。おまけに、ラッキーは今で言う探偵事務所のような看板を掲げていた、そこの事務員とも懇ろになっていた。
私が小学校の6年で、二女が小学校4年くらい(どこかか連れてきたので、年齢はさだjかではない)であった。三女はちょうちんの実子だったので、いつもちょうちんが連れ歩いていた。
私と二女は学校に行く年齢であったが、学校には行っていなかった。
最近では子供の置き去りだとか、虐待だとかが流行っているようですが、ラッキーは置き去りも、放置もなんでもやっていた。九州から出てきただけでも心細いのに・・・・
私と二女は、よく、遠くから聞こえてくる列車の音を聞いては、忍び泣きでした。
冬の寒い頃でした。
ある日、ラッキーが珍しく江戸川縁の家にやってくるために、最寄りの国電の駅でおりたところ何者かに襲撃されたということを、ちょうちんは楽しそうに話していた。
それから、数年たった頃だった。私も小学生ではなく、高校生になっていた。ラッキーはいつも喧嘩の話が好きだったから、言い出したのか・・・
「人間は頭を踏んづけられると、参ってしまうのだ」と言い出した。深くはきかなかったが、あの襲撃された夜のことを言っているのだと思った。
誰に襲撃されたのかというと、ちょうちんはが誰かに依頼したのだと思った。近所にさる組の幹部がいた。
そう考えていたところ、その好々爺然とした組幹部の方が「ラッキーさんは我が家にやってきたことがあるんだよ。家の上がりかまちのところから、頭を畳にこすりつけたまま、顔を上げないんだよ。帰りも後ずさりして、そのまま、帰ったよ」と、言う。
「ラッキーが何をしに、こちらにきたんですか?」と、聞くと、
「金を持ってきた。いくら持ってきたかは知らない。ちょうちんさんに渡した」という。
そういうことだろうとは思っていたが、・・・・
つまり、こういうことだと思う。ちょうちんはこの組幹部に頼んで、ラッキーを襲撃してもらい、雨漏りしていた家の新築代金を出させた。
ラッキーとて、この組幹部が襲撃すると言うことは、大変のことだとすぐにわかって、いわゆる土下座をすぐにしたのだろう。しかし、それではすまなかった。私に「頭を踏んづけられる云々・・・」は、そのときのことだろう。
この家の新築代金は、東亜子がいつも言っていた「私の人生なかった。私の青春なかった」という言葉をいわしめる元になったのだと、私は強く思っている。
そのあとのことは、亡吾郎のことに続く。
土下座などという言葉が流行っているのは良い世相ではないですね。
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