|
ラッキーが入院したのは寒い二月だった。祖母が小倉で餓死したのも二月の寒い日であった。祖父が雪の四国・祖谷から、戸畑に来て、死去したのも二月だった。
東亜子がハワイで惨殺されたのも二月二十三日(ハワイ時間)
ラッキーの見舞いを催促する四女はどこかほっとしているように感じられたのは私だけではなかった。斯く言う私もラッキーの入院などどうでもよかったが、気になることがあった。
実は私ども(東亜子と私)には父親違いの兄と姉がいる。このときに姉の存在を私は知らなかったが、東亜子のまわりと実の母のまわりに張り付いていた。
戸籍上は、兄は私の叔父になっている。この兄と父同じの妹がいるのを知ったのは兄が言い出したからだ。つまり、ラッキーの一番末の弟ということである。
もっとも、兄の口から「弟よ」と言われたことはない。私とは親子ほど歳が違う。おそらく、父からも母からも私は末っ子であろう。
私はこの叔父(このときはそう思っていた)に電話して、「ラッキーを見舞って法がいいのでは・・・」と言った。戸畑に住んでいたこともあり、あまり、気が進まない様子だった。
私自身はラッキーの長男のくせに行きたくないのだから、まして、弟だったら、行きたくないのも当然だと思っていた。
私がラッキーを見舞ったときに四女が「九州から○雄さん(兄の名)と言う方がお見舞いに見えられました」という。続いて「なんか、変なんです。戸畑から来られたのに○○町によってから、帰るそうです。○○町にお知り合いでも・・・」と言って、首をひねる。
ラッキーの死後かなり経って、戸畑の○○雄を訪ねた。この兄と小学校に入る前の東亜子は一緒だった。このことを○○雄は「こまいころに・・・な」という。
ところが、ラッキーの見舞いのことに話が及ぶと「あの病院にいたあの娘は、なんだろう・・・」
ラッキーの第三妻に子ができなきとは○○雄も知っていた。
私と○○雄は「四女は東亜子の娘では・・・」と言う想いを共有した。この兄は、東亜子のことは借金のかたに、実の母から私のことをダシにして、金をせびっているのを知っていたから、四女のことをダシにして、東亜子から金をせびっているのだと解釈した。
私は東京にいてラッキーやちょうちんの近くにいたので、いちいち、思い当たるところがある。
その兄にしても、ラッキーを見舞った後、○○町(ここの母が住んでいる)に行ったのは、私どもの母に会いに行って、何か言ったのだと思う。
同じ血を分けて、腹蔵なく話せないのですね。嘘の代償は大きいです。
|
被害者・藤田小女姫の真実
[ リスト | 詳細 ]
|
私が所帯を持ってから、ちょうちんが我が家に電話してきたのは3度だけであった。
最初は三女(ちょうちんの実の娘)の夫をただき出した後、いやがらせの電話だったのか、まだ、幼児であった娘が出た後、泣き出した。
何を言われたか聞いても「ダディちゃんのことを・・・」というだけで、泣いていた。
二度目は、ケチだったちょうちんが、珍しく米をくれた。その時はコメが不作の年で臭素米などの話題が出ていたころだった。
その米を家内が研ぐときに、異物が混入していて、米と分離しようにも比重が同じなので分離できないから、「どうしよう」ということになった。私どもの世代は食べ物を捨てるということはできない世代だったと思うし、私は飢餓のl子供時代を送っていたからなおさらだった。
それで、飼っていた番いの犬に野菜とガラを混ぜて、圧力なべで煮て、やった。
2,3日したら、メスの方の犬が朝の散歩のときに急死した。犬といってもコリー犬であったので、1度の食事でかなりの量を食べる。それを2頭にやっていたから、かなり食べた。
メスが急死してから、オスのほうは食事をしなくなった。私(のみならず我が家全部)は、まさか、ちょうちんからの米が原因であったとは思わなかった。
そして、オスの方もメスが死んでから2,3日後に亡くなった。
米が来てから、10日ほどした頃、ちょうちんから電話があった。
「珍しいではない?なにか??」というと、
「この頃、何にも連絡がないから、どうしたのかと思って・・・ガス中毒でみんな死んでいるのではと思ったから…」という。
いつもちょうちんとは連絡を取っていたのではないし、こちらから、江戸川の家に行っていたので、たかが10日くらい連絡がないからといってガス中毒と考えるのは、何か理由があったのだろう。
そして、三度目の電話、2度目の電話があってから、10年以上は経っていた。
「癌になったみたいで、どうしよう。○○ちゃん(三女)に言っても、なんだかんだ言って、なんにもしてくれない。どうしようかと思って・・・」
「どういうこと?なんで癌だとわかったの?」
「いつもの行きつけの先生が、癌かもしれないから、癌センターみたいな癌専門の病院でみてもらいなさいというのよ。○○ちゃんも▼▼ちゃん(二女)も自分でなんとかしなさいというようで・・・」
「わかった。じゃあ、いろいろ当たってみるから、待ってて」と言って電話を切った。
その時、正直、「我が家の敷居は高いはずなのに、よく電話してこられるよ」と思った。
家内に言うと「しょうがないじゃない。早急になんとかしなければいけないから、今日は仕事をキャンセルして、なんとかしようよ」と、
それで、その日のうちにさるがんセンタいーに行くことで、話がついた。
ちょうちんから電話があってから3日後日に入院ということになった。入院が決まるとあれほどそっけなかった三女がやってきて、なにやらやっていた。
入院の前日に私は江戸川の家に行って、翌日の入院に備えて、泊まり込んだ。
こうして、癌センターに入院した。その後、病院に見舞いに行くのは私の家族だけであった。
清拭のとき、娘がちょうど見舞いに行った時だった。
看護師さんが「あら、お孫さん?いいわね。やってもらって・・・」とちょうちんに言った。
ちょうちんは「○○ちゃんが来るから、○○ちゃんにふいてもらうから・・・」と言って、タオルを自分で持っている。それを見た看護師さんが「あら、・・・早くしないと冷めちゃうわよ」といってもタオルを握って離さない。
当たり前のことだが、 私の娘はちょうちんには似ても似つかぬ容姿だ。娘は子供のころから、ちょうちんのことを「あの方、私のおばあちゃんではないよね」と言っていた。
わかっていても、人としてやることであろうから、ちょうちんを見舞っていた。
ところが、ちょうちんの方はますます私の実の母に似てくる娘に対して逃げ回っていたのだった。
最初に入った病室は数人の患者がいた。そのなかでも、病状の軽微な患者とそうでない患者がいて、何かにつけ摩擦があったようだ。
病院側も知っていたのだろう。個室に移ることを勧められたので、私は即承諾した。新しい病室を見に行く時に、私たちを変な眼で見ていた。
私は知らなかったが、個室に移るときに看護師さんに、何かあったら、ここに連絡してくれるようにと、三女だけの電話番号を書いた紙を渡していたそうだ。
個室に移ったその晩であった。
ちょうちんは体につけていた医療機器を勝手に外して庭に面した病室を狂ったように激しく歩き回ったそうだ。
もちろん、病院の方は紙に書かれた連絡先に電話した。
三女は「わかりました。明日行きます」というものの、結局、行かなかった。
ちょうちんは荒れ狂って、医療機器を外す、の繰り返しであったようだ。
私のところに二女から連絡があったのは一日経っていた。
それから、4ヶ月半経って、東亜子の事件であった。ちょうちんの死から1ヶ月後、東亜子と吾郎にかけられたた生命保険が増額されていた。偶然だろうか?
|
|
選挙中のことですが、なにか殺人事件の容疑者が拘留中に自殺したとの報道がありました。それで、そのときに書こうと思ったのですが、今になってしまいました。
ラッキーもちょうちんも最後は自殺でした。二人とも病院にいてのことでした。おのおの自分のしたことを隠して逃げたのでしょう。
まず、ラッキーの場合から書きます。
昭和の末期で、平成になる1,2年前でした。病院での過剰医療が騒がれていた頃です。東亜子のところから金をせびっていたのでしょうが、都心の地下鉄の駅近いマンションに3番目の妻と一緒に住んでいたラッキーは70台半ばになっていた。
東亜子と一緒に亡くなった吾郎のことを、ラッキーの数ある子から生まれた子、つまり、孫だと確信しています。
東亜子のところに吾郎を押し込んだあとだった。週刊誌に『藤田小女姫の子』として、掲載されたいたのを見たのはその頃だった。
これも後で知ったのだが、『吾郎』という名前自体についても、まったく、ラッキーと言うのはふざけた人間だと思っている。
というのは、東亜子が好きであった二枚目俳優の本名だったからだ。そもそも、それを邪魔して、高利貸の息子を東亜子に押し付けて、高利貸しの息子から金を引き出したのがラッキーだ。
それを名前だけ東亜子の想い人と同じにして、東亜子の養子にして押し込んだのだった。
その子が小学生になって、週刊誌に出た頃、我が家にラッキーがやってきたので、このことを問い詰めた。
ラッキーは泣きだしそうな顔でうつむいて黙っていた。
そういうことがあって、4,、5年経っていた。
なにもすることがないラッキーは病院めぐりをした。当時、病院をサロンにしていた老人が多かったようだ。
そこで、ラッキーは体調を崩したようだった。即、入院となった。
そのころ一緒にいた四女があちらこちらに電話をして、見舞いの催促をしていた。私のところにも電話が何度かあって、仕方なく見舞いに行った。
病院にいくと大げさな機械を口にはめて体には電線みたいなものを巻きつけていた。でも、たいしたことはなさそうだった。
私は小倉での祖母のことを思い出した。心の中で「こんなところで寝ていられるような身分ではないだろう。お前!○○(祖母の名)になにをした」との思いがこみ上げてきた。
見舞い品にもっていった食パンを拒否するその手は私達親子(私の子と一緒に行った)を拒否するようにハエでも追い払うような手つきだった。
それを見た私は、思いっきり にらみつけた。
ラッキーはキューっと、収縮した。キューピーが両手を挙げているように両手を挙げて硬直していた。
それを見た四女は「あらっ、精神的なショックからかしら・・・」といった。
何分かして、元に戻ったラッキーに「じゃあ・・・な」と言った後、四女に「先生に言ってあの機械をはずしてもらったほうがいいよ。言いにくければ、私からいってもいいよ」と頼んだら、彼女はすぐにっ先生に言ったらしくて、機械も取れて、すべては普通になった。
それから、少ししてから、二女から電話があった。
「ラッキーさん、わっぱやら機械が取れて普通になったのだけれど、何にも食べないのよね。なんだか、自殺をしているみたいなのよ」と、
一緒にいた子にそのことをいうと「自殺の現在進行形?」という。
場所は病院であるから、点滴などし始めた。
祖母と同じ、餓死の道を辿ったのか私にはわかりません。
|
|
前の項「郭公の雛を育てさせた」で、ラッキーが数え切れないほどの子をいろいろな女性に産ませたことを書きました。
それで、結論から書きます。その子達は自分の親が誰であるかは母親から聞いて知っていた。
ところが、ラッキーは自分に似た鼻が大きく白人面の自分の子達を嫌った。ところが、大きくなったラッキーの子達はラッキーを責め立てた。
ラッキーも人の子であった。自分に似た子達を何とかしてやりたいと思った。ここのところをこう言っていた。「このままでは、馬鹿おやじで終わってしまう」と、私にも言っていた。私はこの時に「なんだ、馬鹿親父だとおもっていないのか?」と心の中で思っていた。
方々に産み散らしたラッキーの子達は成人して、又、子を作り始めた。タイトルの『ねずみ算』のようだった。
ハワイでの惨殺事件はこのラッキーの子どもや孫が引き起こしたものと推察しています。
|
|
『郭公の雛を育てた』という言葉があります。託卵のことでしょうね。
ちょうちんはいつもこう言っていた。「ラッキーさんは、あんたら(私と家内)の考えているような人じゃなか・・・何人子どもがいるかわからないんだから」と、
でも、ラッキーの戸籍には東亜子や私を含めて5人の子がいることになっている。ただ、三女は白人のような感じはラッキーに似ているだけで、後は4人は似ても似つかぬと言うのが正しいであろう。
ところが三女の父親を巡って、ラッキーがちょうちんを殴り、そのちょうちんは江戸川畔で、私に心中の誘いをしたくらいだから、もちろん、ラッキーの子ではない。
東亜子がハワイの自宅で殺害された後,報道で、同時に殺害された養子・吾郎の顔写真が出た。
私はびっくりした。
なんで、養子がラッキーにそっくりなんだ。
つまり、ラッキーは郭公のように、何人もの子をあちらこちらに託卵していたのだろう。
その吾郎に福迫君は「僕と吾郎君は双子のように似ている」と、裁判所で証言しているのはどういうことだろうか・・・
|


