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人の容姿はそのいろいろな遺伝子の組み合わせにより現れたものだと思う。
私は50歳過ぎるまで、自分の身分を知らなかった。日本国による戸籍が正しいものだと信じてラッキーとちょうちんを親だと信じていた。
しかし、考えてみれば私とラッキーおよびちょうちんは全くにていない。考えなくても当たり前である。ラッキーと実の母は父親違いの姉と弟である。ラッキーと私は少しの血がつながっている。
でも、顔を見れば決定的なちがいがある。
ラッキーは白人の混血であると思われる容姿である。ラッキーの父親とは子供の頃かなり、頻繁にあっていた。つまり、ラッキーとその父親は白系ロシア人と思われる容姿だった。
ラッキーやちょうちんと私は似ても似つかぬのに、親子だと思っていた私は間抜けのそしりを免れないと思う。
一番下の妹になっていた四女は私の子が自分に似ているのを発見して、安堵というか自分の存在の確認というか、喜んだのは自分がラッキーの子でないと言うことを知って悩んでいたからだ。
四女は私のことを「叔父さん」と呼んでいた。おそらく、本当に叔父さんであったのだろう。
今、思う。
「容姿はDNAが表に現れたものだ」ということを・・・大切にしなければいけないでしょう。
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被害者・藤田小女姫の真実
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私には叔父がいます。といっても戸籍上の話だけで、ほんとは異父兄です。私よりひと回り以上年上です。
彼は旧国鉄に勤めていました。鉄道マンです。背の高い好青年でした。昔、国鉄の駅員さんだった元首相がいて、美男の駅員さんとして有名だったそうですね。ちょうちんもそうですが、彼に憧れた女性が多かったようです。
ラッキーは嫉妬深い男でしたから、そんな彼を妬んだのでしょう。いつも彼のことを『貧乏皇太子』と言って、軽侮した様子で私などに話していました。子供だった私は意味がよくわかりませんでした。
ある日、私どもの社宅を訪ねてきました。国鉄の制服を着てきました。そこへちょうちんの戸籍上の妹になっている女性が来ました。私は他人の容姿に関して口にするのは嫌いです。特に女性に関しては気持ちのいいものではありません。お察しください。
いつ呼んでいたのかラッキーは写真師を社宅に呼んでいました。ラッキーは自分の背広の上着を美男の兄に着せ、私ども子供も含めて呼んであった女性も一緒に集合写真をとりました。
子供だった私はその意味がわかりませんでした。
後日、出来上がった写真を見ていると、近所のおばさんがやってきました。そこで、
「あらっ 写真? おばさんにも見せて」と言うので・・・見せました。
「あぁ〜! ○〜○〜○さーん(私の苗字)! わっはっはっは!!・・・・わっはっっは・・・」と笑いころげていました。
何で笑っているか子供の私にはわかりませんでした。
大人になった私はこの意味を理解しました。これはちょうちんの妹と異父兄との結婚写真だったのです。
ちょうちんが亡くなった後、私は子をつれてこの家を訪問しました。この夫婦の不自然さにわが子でさえ気づきました。
私は直接質問しました。
「ところで、なんで、おばさんは○○さん(異父兄の名)と結婚したの?」と、
「私のことを好きだ好きだと言っていると、ラッキーさんが言っていたから・・・」だという、
そして兄は
「私はこの人を見たこともないし、○△家(ちょうちんたちの家)の人はどれがどうだかわかんないから、知っているわけないのに・・・あの日、あんまり、来い!来い!とうるさいから、いったんだ」という。
これは後で知ったことだが、当時兄は結婚していて、子供が一人いた。職場の上司の娘さんで兄も将来を嘱望された駅員だった。
この写真撮影以前にラッキーが兄の戸籍を離婚にして、このちょうちんの妹と結婚したことにしていた。
後の顛末は・・・・彼は世捨て人になった。
時が10年経ちました。
ラッキーは東亜子と高利貸の息子に同じことをしました。兄にしたことと違うのは高利貸の息子からは多額の金を引き出したことです。それと、東亜子と高利貸の息子は一緒に生活したこともなければ荷物を新居に運んだこともなかった。そもそも、新居などもなかった。
群馬のがけ下の掘っ立て小屋で一緒だった男の子達は彼らのマドンナである東亜子を高利貸の息子に指1本触れることは許さなかった。
それと、高利貸の息子はラッキーの第一妻を階段から突き落としたそうです。
結婚って、なんでしょうね。
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文無しで、失業者のラッキーが大金を用意しなければならない。どうすれば家2軒の金を用意できるのか?
ラッキーを転がした人は「あんなに派手にやっていたけれど,金はあんまりなかったみたいだね」と言っていた。それは当然だろうと思う。
当時、17,8才だった東亜子はただ、仕事だけで金の管理はしていなかった。第一番妻が一緒にいても彼女は東亜子に接触できなかった。
東亜子を世に出したのは私供の実の母の夫であった。実の母も自宅近くに事務所を構えさせ、東亜子の事務所に通っていたそうだ。
ラッキーが金を得る為には,東亜子を売ることであった。つまり、結婚という名の人身売買であった。
それを実行するに当たってタッキーがやっていた偽学生仲間に頼んだ。
ラッキーは昭和はじめの頃から、10年近く偽学生をしていた。その頃は偽学生がたくさんいたそうだ。十年の間に借金を作って,東亜子を攫って,借金の形にしたのみならず、又、転がされて、今度は結婚という名で売ろうというわけであった。
ところが、東亜子は、後に有名になった二枚目俳優に熱を上げていた。東亜子も一応美人占い師であるから、週刊誌などには騒がれていた。
ラッキーと第一妻たちは二枚目俳優の友人で高利貸しの風采の上がらない男に目を付けた。
私のまわりで、ラッキーはこんなことばかりしていた。何度、口にするのもはばかられるような汚いことをしたかわからない。
藤田小女姫殺害事件は人間を軽蔑したラッキーたちが原因を作ったのだと想う。
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鷹匠は雛を手に入れると、餓死寸前まで、餌をやらないでいて、空腹が頂点に達した頃、おもむろに肉をやる。
すると、鷹の雛は、鷹匠を親だと勘違いする。
東亜子は買い物姿のラッキーの一番妻に誘拐されて、権蔵小屋に監禁された。そこで待っていたのは、ラッキーを「お父さんと呼べ」、一番妻を「お母さんと呼べ」であった。
東亜子は小学校に入る4,5ヶ月前であった。つまり、十分、物心ついていた。この二人が父母でないのに、「お父さんと呼べ。お母さんと呼べ」と言われても、できないことであった。
そこで、ラッキーと一番妻は東亜子に食事を長い時間与えないでいた。空腹であった東亜子の目の前に食べ物を出す。
そこで、「お父さんと呼べ、お母さんと呼べ」という。
東亜子が拒否すると、目の前の食べ物を捨ててしまう。又、時間をおいて同じ事をする。
何度か繰り返された。
空腹に耐えかねた東亜子が「おとうさん、おかあさん」と呼ぶ。
「おとうさん、おかあさん」と呼ばせてから、ラッキーと一番妻は、明治鉱業・高田鉱業所の社宅に東亜子を連れて行った。
そこで、東亜子は外に出ることは出来なかった。軟禁というのでしょう。
この後、ラッキーと一番妻は小倉の社宅に移動した。
私は拉致されたとき2才であったので、このような記憶はない。
時は流れて、占い師として、世に出た東亜子は食べ物もなにも不自由すrことはなかった。
事件後、私は東亜子と親しく、深くお付き合い頂いた方に、東亜子の様子をうかがった。
・・・・・
「こととめちゃんは、なんか変だったわよ。 ほら、お付き合いしている方がみんな政財界の有力な方だったでしょう。 だから、お中元やお歳暮なんか、高級なものを送って下さるでしょう。値段も手が出ないほど高い物ばかりなの… ハムだとか、大きなものなど、少し囓って、ぜんぶすててしまうのよ。私が注意したのよ。>こんなに沢山あるんだから、自分の食べられる分だけ食べて、食べられないのはみなさんにお裾分けしたら・・・それにみんなも一緒にやっているのだから、わけて食べれば、無駄にならないでしょう< って、
でも、聞く耳を持たなかった。
[いいから、捨ててらっしゃい]と言うばかりだったわ。ものに憑かれたたように変だったわ」・・・・
私はこのことを聞いて、東亜子の苦しさを思い知った。2才と7才の差だろうと思った。弁化してあげたいと思った。
人間は鷹の雛ではない。
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群馬から、連れられてきたこどもたちは浮浪児のようにと言うより、浮浪児だった。大人に言われるがままに、なんでもやっていた。
東亜子は主に、占いをやっていたようだ。川崎、大井、大森などの駅頭で、占いをやっていた。
そんなある日、私どもの実の母が、占いをしている最中の東亜子にあった。母は「会った」と言ったが、私は見つけたのだと思う。
警備とかを専門に仕事をしている知人がいうには「探していたんだよ。それに誰か情報をいれたのだろう」という。
母の夫はいわゆる有名人であったし、彼女自身、電車で出歩くとことはないとおもう。
それに、夫の立場を考えると、「私の子です」とは言えない立場にあった。この時すでに「藤田小乙姫」と名乗っていたそうだ。
この時を境に東亜子は大井町で場所を構えて占い相談をやった。その占い相談は門前列をなす、盛況であったそうだ。
全ては母に会ってからだった。
東亜子をよく知る人たちに「〇〇には世話になった」と、よく言っていたそうだ。〇〇とは母の夫です。
群馬や秋田に一緒にいたこどもたちは大人になっても、砂糖に群がる蟻のように東亜子の周りに蠢いていた。
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