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藤田小女姫こと藤田東亜子の名前のいわれは、私どもの実の父が名付けたのだろうと思います。
実の父は労働運動をやっていて、何度か、逮捕されたりしていたようです。いわゆる大東亜共栄圏と騒がれていた頃、中国にわたっていたようです。
母とは単なる芸者とお客ではなくて親戚関係であったそうです。
東亜子の方は大東亜共栄圏からとったようです。
私の洋三は太平洋、大西洋、インド洋の三洋でしょう。
このいわれをラッキーは自分が考えたようにいつも話していましたが、そいういうことの思いつくような男ではなかった。
東亜子は亡き後、この事を知りました。東亜子の写真にもかなり残されています。東亜子もこの父の友人たちのおかげで、世に知られるところとなったのでしょう。
しかしながら、当時、母は日本人と言えば大概の方が知っていると言わる方の後沿いになっておりました。その方にご迷惑をかけてはとの思いから、辛らかったでしょう。
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東と洋と
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このブログで、学生服姿の私の写真を掲示してあります。あれは空手部の先輩が空手を広めるためにイギリスに行きました。何年か行っておられました。
無事に帰国した時の帰朝祝いです。
私は大学四年間、アルバイトと空手に明け暮れました。私の行った学校は空手が盛んでしたし、空手家の先輩は多数おりました。
なかでも海外にまで知られている名人もおられましたし、その先輩方も時々は後輩の指導にいらしておりました。
東亜子が殺害された後、成城の本宅にあった厖大な写真を整理していたら、胴衣姿の東亜子と並んで座っている世界を股にかけた先輩であり。空手の名人の写真を発見しました。
明らかに護身術として、空手を習っている様子でした。
私などその他大勢として、教えていただいているのに、藤田小女姫として、個人教授で、教えていただいている様子です。
殺害現場となったハワイの自宅に行くとき、不安があったのかさるジャーナリストに同道を頼んでいたそうです。
そんな危険な環境にいて、絶えず不安であったのだろうに、警備で糊口をしのいでいる私が何もしてあげられなかったのは辛いです。
体力があると言っても女性の身で、空手で護身を考えたのですね。
ラッキーとちょうちんが姉弟の仲を分断して、苦しかったのか、両人とも最後は自殺でしたが、こんな鬼畜のような人間がいるのですね。
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ちょうちんが精神病院から抜け出してきてからどのくらいたっただろうか、ちょうちんがなにかしているのはわかっていたが、あまり興味もなかった。
ちょうちんの弟(もちろん戸籍上のことだ)が、私の学校にきて、私を呼び出したりしていた。
そんな日が続いていたある日、学校から帰ると、使用していなかった風呂場に大量の家財道具が置かれている。
見るとどこかで、見たような気がする。
そうだ。いつか無断で入り込んで、ちょうちんとMさんが、日記のようなものを読み、、「はがいか」と言って、びりびり破いた、あの家にあった荷物だ。つまり、ラッキーの三番目の妻の家の家財道具だ。
タンスから食器、鏡台、などあの家にあった全部だ。そっくり、引っ越したように運び込まれている。
朝、学校に行く前には何にもなかったのに、学校から帰った午後3時頃に、ここにあるということは・・・あの家の主が出かけた間に運び込んだと言うことだ。
その晩、夜も遅くなった頃、ラッキーはちょうちんのところ(つまり、自分の家)に、向かおうと、駅をおりて、自宅への道を急ごうとしたところ、
突然、駅裏の人通りの少ないところに連れ込まれた。
三番衛の妻の荷物がなくなったその日その晩、ラッキーはネクタイで首を締め上げられ、殴られ眼鏡が飛んだそうである。
このことをちょうちんは楽しげに我々に話したのであった。
後日(私が大学に入ってから)、ラッキーは、まるで、他人事のように、こういった。
「人間というのは、靴で頭を踏んづけられると、まいってしまうものだ」と、
ラッキーはなにかを約束させられて、その場から、解放されたのだ。もちろん、ちょうちんがその場にいたであろう。でなければ、リアルのその場の状況をとくとくとして、私などに話せないはずだから…
後日、別のところからもこのことを聞いた。
ラッキーが約束させられたのは大金を用意することだった。
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「陰々滅々」と言う言葉が一番ふさわしい日々を送っていた。私は中学、一番下の三女は小学校に入学した。
私は知らなかったが、あとで、伝え聞くと、三女は学校には行っていなかったそうだ。朝、みんなと一緒に出かけていって、暫くして、家に帰ってきていたらしい。
たまにちょうちんに見つかったらしいが、ほとんど、ちょうちんは何処かに出かけていたから、何事もなく、家にいた日々であったそうだ。
そんなる日、学校から帰るとラッキーが珍しくいた。
「かあちゃんは、駅の近くの病院に入院した」という。
そして、例のMさんが、一緒に暮らすことになった。
その病院は駅裏の精神病院であった。現在でも同じ場所に営業している。別に見舞いに行ったわけでもないが、思い出す。
そういえば、不登校していた三女はMさんと一緒に錦糸町のラッキーが借りていた事務所に出かけていた。
「小岩、新小岩、・・・錦糸町」と、三女が錦糸町までの駅名を言うと、Mさんは「はい、よくできました」と、言って三女をほめる。
そんな雰囲気で、楽しい日々であった。
楽しい日々というのは長くは続かない。
ある日、学校から帰ってくると、ちょうちんが座っていた。
私も二女も三女もがっかりした。
このことを、後で、あの親切なおばさん(東亜子を買った家の人)に、ちょうちんはこう言ったそうだ。
「別にあの病院にいなくてもいいのだから、こどもたちを盗られてしまうので、、勝手に抜け出してきた」と言ったそうだ。
昨今、中国で、人さらいが横行して、多数のこどもを押し込んでいたのが手入れされた事件がありましたが、私どもはこの女にとって、物だったのですね。よく、『金づる』という言葉を使っていましたが、人質だったのですね。
もちろん、ラッキーとMさんは、この日から、帰ってこなかった。
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失業者であるラッキーとちょうちんの争いの中でも月日は容赦なく過ぎていきました。小学校に通い始めた私どもは昭和331年を迎えました。ラッキーは何処かに行っていて江戸川の自宅には帰ってきません。
この年出された経済白書はもはや戦後ではないと書かれていたそうです。失業者であるラッキーはどこからか金を工面して、送ってきたようでした。偽名でした。
そんなある日、突然、ラッキーが私が中学に入るのだから、学生服を買おうと言って帰ってきました。これは私がうかつだったのでしょうが、ラッキーとちょうちんを親だと信じていたからです。
生きて子別れした女性は、即座に別れた子の年齢を言えるそうです。そして、一緒に生きているつもりなのだそうです。
私は何人もの子と生き別れた女性にそのことを聞きました。みなさん、「忘れられるわけがないでしょう。こんな酷いことはないんです」と言います。
私の親も例外ではなかったのでしょう。ラッキーに金を渡したと考えるのが自然でしょう。それより、これを見たちょうちんはラッキーの先にいる私の親や東亜子に金を取る照準を合わせたのでした。
我が母も女性なら、ちょうちんのも同じ女性なのに、金づるにしたのです。こうして、収入が皆無なのに餓死しないで今日まで生きました。
そして、私は金のために働き始めました。
実の母がラッキーに渡した金は私の学ラン代になったのはわすかでしょうが・・・
大学生になるまで着用しました。
中学に入ったときに袖口を幾重かに折り曲げていました。袖口を見て下さい。まだ、長かったです。
そして、この後、ちょうちんは家に放火はするし包丁は投げるし、大変荒れ狂ったのです。マッチや包丁を隠していたラッキーを見て、なんにも感じませんでした。
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