平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に

1994年2月23日(ハワイ時間)姉・藤田小女姫(フジタコトトメと読みます)こと藤田東亜子はホノルルの自宅コンドミニアムで惨殺さ

東と洋と

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

十月十日

 私が小倉・明治鉱業社宅に連れてこられたのは、昭和23年暮れだったと思う。父違いの兄(戸籍上は伯父になって居る)の証言と一致するので、間違いない。
 
 昭和20年・ラッキーは最初の妻と攫ってあった東亜子を連れて篠栗・明治鉱業高田工業所の社宅からこの小倉に転勤になった。
 ここから、最初の妻は東亜子を売り渡すために東京・江戸川に行って、東亜子を借金の形に引き渡した。東亜子を引き渡した後、横浜や江戸川にいたようだ。
 
 最初の妻が上京した後、ラッキーは別の女と小倉の社宅に住んでいた。だが、私を攫ってきた後、ラッキーは戸籍を最初の妻とは別れたこととして、ちょうちんとの間に長男として私を入籍した。
 ちょうちんも私も小倉の社宅には初めて来た。
 
 小倉の社宅には何ヶ月もいなかったが、祖母が餓死させられたり、いろいろなことがあった。
 この間、祖母逃の餓死以外にも色々酷いことがありました。
 
 昭和23年の暮れか昭和24年お正月かに、一緒になって、昭和24年3月に篠栗に転勤になりました。そこで、三ヶ月後に、三女が生まれています。
 
 前にも書いたようにラッキーは会社の保養所を管轄する庶務課にいたのです。そういう男が三女を自分の子だと思ったようです。
 
 東京に来てから、そのことを他の人に教えて貰ったようで、・・・死ぬの生きるのの騒ぎになりました。
 私の家族として、一緒に過ごしたのは、【父親…ラッキー、 母親・・・ちょうちん、 長男・・・私 次女、三女】の5人でした。
 
 ラッキーは三女が孫でした。ちょうちんは三女だけが実子でした。ラッキーと私は半分だけの伯父、甥の関係です。次女と私は少しだけの血縁(1/32)があります。
 
 我が子とそうでない子を同じように扱えるか、検証してみようと思います。空々しい言葉ですね。

拉致、誘拐とは、

 「私は戸籍にのっていた親が実は違っていました。2歳のときにさらわれました」というと、
 「育ててくれたんだから・・・」という方が居ります。
 
 それについて、私の思いを書きます。
 
 「育ててくれた?」・・・冗談ではない!私どもはペットではないのだから、自分はどこから来たか知る権利はあるのです。
 よしんばペットだとしたとしても犬でさえ、血統書がある。
 まして、戸籍をさらったものの実子として記載したならば、そこに犯意がある。まず、そこで公正証書原本不実記載です。これだけで大いなる犯罪です。
 
  「育ててくれた云々」の方にはこう答えます。
 「できるだけ早い段階で、実はこういうことです。申し訳ありませんでした」と、誘拐の事情を説明してどこからつれてきたかを言ったなら、
 「いままで、ありがとう」とだけいうでしょう。
 しかしながら、私の実親や兄弟を秘匿し、分断した犯罪は消えるものではありません。よく言うんですよ。
 「アメリカの奴隷は自分が奴隷であることを知っているが、私は奴隷扱いされていながら、まったく知らなかった。ひどい人攫いだね」と、
 
 日本の戸籍制度は人攫いや人身売買に加担しているように感じます。
 
 

戸籍とは

 東亜子が藤田小乙姫(最初はこの名前だった)として、マスコミに登場するようになってラッキーは大人のくせに少女雑誌を買ってきたりしていた。
 昭和25年、炭鉱の景気はよく黒ダイヤととよばれていた。ラッキーは小倉から篠栗へと転勤になった。というのは、戦後、保養所が閉鎖されていたが名前を変えて、「クラブ」として、戦前からの場所で再開した。
 
 当時の炭鉱は、社員への福祉として、生活用品の店や映画館や幼稚園も明治鉱業がやっていた。診療所もあった。
 
 前の記事で書いたように私とラッキーは人種が違うように容姿がまったく似ていなかった。それにちょうちんもまったく似ていない。
 篠栗の明治鉱業関係者は全部(といっていい)、私とラッキーと提灯の子ではないと言うことを知っていたし、東亜子が小倉に連れて行かれる前に篠栗にいたので、ラッキーは色々こどもをを連れてくるのだと言うことを知っていた。
 知らぬは私だけであった。でwも、私が拉致されてきたと言うことを知らないと言うことを私の友達も含めて知らなかった。
 私が所帯を持ったとき、篠栗の友人が所用で、我が家に泊まった。
 そのとき、
 「おやじが・・・」というと、
 「えっ 藤田君、おとうさんいたのぉ?・・・」とびっくりした。
 誰が見ても、私とラッキーや提灯が親子であるというのは非科学的である。それなのに私は国家の作った戸籍を信用していました。
 自分の愚かさを嘆くとともに戸籍への不信感は拭うことは出来ません。
 
 わが子が法学生になって、「裁判では、戸籍の真偽からはじまるのは当たり前なんだよ」と教わってきたようだ。
 だったら、一行で良いから、戸籍謄本の但し書きに「この謄本は申告のされたものです。真偽の程は不知」とでも付け加えておくべきです。
 
 それにそんなでたらめな物を作るなと言いたい。いわば物語を仰々しく作るほどのこともないでしょう。
 

維新

 最近、維新と言う言葉が流行っていますね。
 
 明治維新のころからの話をします。小倉で餓死した私の祖母の父(私のとって祖祖父)は婿養子でした。何でも、寺の関係から、婿養子に入ったとのことでした。大変な遊び人で、京都(彼の故郷でしょう)方面によく行っていたそうです。
 何人も他所に子を作ったようです。それをみんな戸籍に入れました。認知ではありません。本妻(婿養子ですから、本妻は家付き娘と言うことになります)の子として、戸籍に記載されています。まぁ、こんなところからも私の戸籍に対する不信感があります。
 
 私の祖母には兄がいました。一人は家督相続した。もう一人(もちろん腹違いだと思います)の兄は、若い頃、北海道から、ロシアの方まで出かけていって、女性を沢山連れてきたようです。
 
 祖父と祖母の実家は、同じ徳島で、徒歩で40分くらいのところにあります。祖父の家は東山〇川、祖母の家は西山〇〇〇(祖母の家の苗字が入ります)でした。
 
 東亜子の事件の後、祖父の家の方は「なんで、〇叔父は〇〇〇のものと一緒になったのかとふしぎでした」という、どうも、藤田と〇〇〇はずーっと軋轢があったようでした。
 そして、祖母は私の母を西山〇〇〇の実家で産みました。まだ、祖父母は九州に出てきてはいませんでした。祖父の父(私の祖祖父)は若松の洞海湾の浚渫をしていました。それで、若松に出てきたようです。
 
 私の母は東亜子が鳥も通わぬと形容した阿波で、祖母の二番目の兄に攫われて、長崎に売られたのでしょう。
 
 後に、祖母のこの兄は博多で川筋者を多数集めた親分になりました。ラッキーにとって、伯父です。
 祖母には姉や妹が数人おりました。いずれもこの兄に売られたのでしょう。
 
 ラッキーはこの伯父を尊敬していました。
 
 ラッキーを始め東亜子や私の周りにはロシア人のような容姿をしたものが多いのはこのせいだと思っています。
 
 現在の暴力団も人身売買などしているのでしょうね。いつまでも続くのですね。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
hannreinakinisimo
hannreinakinisimo
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事