平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に

1994年2月23日(ハワイ時間)姉・藤田小女姫(フジタコトトメと読みます)こと藤田東亜子はホノルルの自宅コンドミニアムで惨殺さ

わが子のようにとうそをつく

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

 2度目のロスでは、ガーディナーのボスになって、自分でお得意を獲得して、アシスタントを連れて、仕事

をした。

 しかし、アメリカ全体では、不景気であった。古くからの日系人などは「景気がいいのは教会だけだ」と

いうようになっていた。私どもと同じようにアメリカで仕事をしていた日本人も兵役に就くものが出てきた

りしていた。兵役に就くとアメリカ市民権がとれるので、私の知り合いでも何人か兵役についた。

 私はそんな気がなかった。

 そして、≫突然、帰国を決意した。

 帰国すると決めたら、できるだけ早くした方がよかったので、持っていた車や作業用の道具を売ったり、

得意を誰かに委譲しなければならなかった。

 それらすべてを終えるとすぐに帰国した。

 連絡なしであった。

 羽田に着いてそのまま江戸川の自宅に帰った。当時、ちょうちんと三女がいるだけであった。二女は結婚

して、夫の社宅に移っていた。

 自宅に着いたのは、昼過ぎであった。三女は学校は終わっていたが、仕事を持っていなかったし、ちょ

うちんは化粧品を売っていると言っていたが、その実、無職であったがいつも出かけていた。

 自宅に着くと、誰か中にいる様子であったが、ベルを押しても出てこない。

 隣家の方が、「あら、お兄ちゃん、帰ってきたの…○子ちゃん(二女の名前)中にいたわよ」という。

 仕方がないので、間をおいて、ベルを鳴らしていた。


 何度目かだった。中から、鍵を開ける様子があって、戸が開いた。

 二女が上がり框に、裸同然の姿で、「いつ帰ってきたの?」と・・・

 「2,30分前に…」言うと、困ったような顔をしている。続けて「おふくろは?」というと「旅行に行っ

ている」と、そんな話をしていると、二階から、見知らぬ若い男が洋服を着ながら出てきて、上がり框の

二人の横をすり抜けて出て行った。

 

 

 先の東京オリンピックの翌年、私は片道切符で渡米した。別に何の目的もなく、ただ、行ってみたかっ

たのだが、帰国の旅費がなかった。当時、飛行機による渡米は高くて、貧乏学生には手が出なかったし、旅

費を得るためにアルバイトに継ぐアルバイトでやっと横浜からサンフランシスコまで行くことができた。

 同級生2人と都合3人でサンフランシスコに着いたときは不安いっぱいであった。

 
 日系の方お世話で。ガーディナーをしながら、生活することができた。そんな私にちょうちんは金を送っ

てくれと、矢の催促であった。私はこの時もちょうちんのことを母親だと思っていたから、送った。

 幼いころから、飢えていたので、ボウディングのまずい飯も私だけは美味いと思っていたのです。友達た

ちは「こんなまずい飯食えるか!」と言って、チャイナタウンに出かけて行っていたが、私は何でもな

かった。

 酒もたばこもやらないので、多少の金を持つようになった。

 そんなところにラッキーまで、金の無心をしてきた。このとき、送金先として、さる銀行の福岡支店で

あった。東京に住んでいるはずなのに福岡支店とは?と、思ったが送った。

 これも東亜子が殺害されてから知ったのだが、ラッキーの戸籍に載らなかった子供たちが沢山いた。

 当時、アメリカでの1週間の稼ぎは日本での1か月の稼ぎであった。

 二人とも、こうして、私を攫った目的である金の巻き上げをしていた。おまけに、東亜子のところから

は、「洋三が留学するから、金をやらんか」と言って、東亜子からもとっていたようだった。

 私も彼らに12歳に始めた豆腐売りから、搾取され始めたのだった。東亜子はもちろん学校にも行かせら

れないで、米兵の客引きをさせられたり、占いをさせられたのだった。

 

1, 2、 3、

 四女が亡くなった時にちょうちんに伝えたのは私だった。
 
 ラッキーの第一妻はラッキーより一回り上で、ちょうちんとは面識があるというよりはどこで一緒に生活したのか、一緒にいた時期があって、ちょうちんは第一妻の性格や癖などを私どもによく話していた。
 第一妻の長女はちょうちんとは同い年であった。それぞれラッキーを挟んで、一回りしたと一回り上であった。 
 
 つまり、第一妻と第二妻であるちょうちんとは24歳の差があった。
 戸籍上、ラッキーとの間には第一妻は東亜子だけである。第二妻のちょうちんは私が最初で、二番目が二女で、三番目が三女といた。
 そして、第三妻とラッキーとの間には四女だけであった。

 このことは東亜子の事件後知ったのだが、ラッキーと各々の妻たちの間の子は誰もいなかった。

 しかし、第二妻であるちょうちんの子である三女はラッキーと極めて近い血縁者とちょうちんの子であった。

 ところが、ちょうちんは他の二人と同じところで時期を違えて働いていたようだった。
 東京に来て、ラッキーが第三妻のところにいるをの知った時に、第一妻のことはいろいろ癖などを普通に話していたが、第三妻のことは「××子!!  ××子!…」と、歯ぎしりするように、叫ぶというか、震えるというか…

 こんな中、私だけが、第三妻と四女とのところに出かけていたので、四女の死をちょうちんに伝えた。

 その時のちょうちんの反応は別の驚きもせず「そう…」と。

森永ヒ素ミルク事件

 私が小学校5年か6年ののころだった。

 西日本を中心に森永ドライミルクにヒ素が混入していて、多くの子供たちが被害を受けた。

 その頃、私どもの家族となっていたラッキー、ちょうちん、私、二女、三女が住んでいた明治鉱業・高田鉱業所社宅にも、牛の模様がついた森永ドライミルクの缶がおけれていた。
 私は小学校5年、二女は小学校1年であった。前にも紹介したようにラッキーの実子は誰もいなくて、ちょうちんの実子に三女がいた。

 で、私と二女はがりがりに痩せていたのであるが、このドライミルクを飲ませてはもらえなかった。というより、お湯に溶いて飲むということも知らなかった。
 でも、誰もいない時を見計らって、指に唾をつけて缶の中に入れると粉がついてきた。それをなめると旨いので、たまに指につけてなめた。でも、缶はすぐに空になっていた。
 つまり、三女だけがお湯に溶いて、飲んでいたので、ミルクの缶は空になったのだ。

 ちょうちんは三女だけに森永ドライミルクを飲ませていたのだ。

 世間で、森永ヒ素ミルクとして騒がれても、三女に被害があったにもかかわらず、申し出なかった。私と二女に飲ませなかったので、二女と私には被害がなことを不審に思われるのがいやだったようだ。

 二女はヒ素中毒の後遺症が出たのか、体が弱かったし、皮膚にできものができて、後年、ちょうちんに、「どうしてくれるのだ」と迫っていた。

 私はこのブログの初めの方の写真にあるビアフラの子のように腹が出て、骨と皮ばかりになっていたのにミルクを飲むことはなかったし、二女も同じであった。幸か不幸かこのようなヒ素中毒の被害はなかった。

 私は、戸籍上、ラッキーとちょうちんの長男として、ほとんど、赤の他人の子として育ってきた。
 
 ラッキーを筆頭者として、長女・東亞子(母親はラッキーの一番妻となっている)次が私、次に二女(ラッキーにもちょうちんにも無関係)、次が三女(これはラッキーの子ではないが、ちょうちんの子である)そして、四女(母親を違えてラッキーの子として記載されているが、全く、違うところから連れてきた)
 
 私と一緒に生活したのは、私、二女、三女である。
 
 ここで、血縁があるのはちょうちんは三女の母親である。そして、二女と私は無関係です。
 しかし、三女はラッキーの子ではないが、ラッキーとは近い血縁関係です。
 
 この書庫では、よく、血縁のない親子関係で、親となっていた方が、「我が子のように育てた」と、言われるが、はたして、そういうことがあるのか?
 
 私が成長した過程では親子関係は先に書いたようにいろいろあるので、解ると思う。
 はたして、人は自分の子と他人の子を同じように扱えるのでしょうか?
 
 私はこの書庫名は彼らの偽善を示そうと・・・

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
hannreinakinisimo
hannreinakinisimo
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事