平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に

1994年2月23日(ハワイ時間)姉・藤田小女姫(フジタコトトメと読みます)こと藤田東亜子はホノルルの自宅コンドミニアムで惨殺さ

祖父母のこと

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

蹴り

 東亜子が殺害されるまでに、接した肉親は、小倉でラッキーとちょうちんにより、餓死させられた祖母です。

 裏日本気候の小倉の冬は寒く、暗かったです。5歳だった私は祖母と一緒に寝ていました。子供でしたから、その時は、わかりませんdねしたが、確認すると、昭和23年です。餓死させたことはちょうちんが気になっていたらしく、私どもが結婚した直後、妻に 「××(ラッキーのこと)さんは、,『働くものが食べるんだ』と、言って、食べていた」と、弁解がましく、祖母の配給を盗って食べたことを言っていたそうです。

 この祖母は、東亜子が殺害されて、実の母に会うまでに接した肉親です。
 
 アルバムを見ながら長崎・眼鏡橋の写真を指さし「五日、ここへ連れて行ってあげるからね」と言う言葉が忘れられません。

 これから程なく祖母は息絶えました。幼児と言ってもいいくらいの私はこの言葉から何日後であったからわかりませんでした。寒い冬でした。小倉の社宅には火鉢が一つで、寒かったことが記憶に残っています。

 四国の本家や祖母の実家ではラッキーの存在を知りませんでした。というのは、祖母は阿波の田舎から、福岡の都会に出てきて、祖母の兄だったヤクザのところに出かけて、そこで、襲われたのです。
 ですから、ラッキーは祖父の子ではないのです。
 
 ラッキーはこの祖母のことを私に何度も何度も愚痴めような、言い訳めいたように話しました。

 「ばあさんには、よく、蹴られた! おれを見ると、ものも言わずに蹴るんだよ。見るたびにそうなんだから・・・横になっているものなら、そりゃ・・やってらんかったよ」と、・・・
 つまり、祖母は、ラッキーを最初から嫌悪していた。

 このことを妻に話すと、先の戦争で、外地から引き揚げてきた話として、女性が襲われて、引き揚げてきてからの様子を聞いた話として、引き上げの途中で襲われて生まれた子のことを話した。
 「おばあちゃん、かわいそうだったわね。『女性は悲しくて、襲われて生まれた子が、憎むべき男の面影を写しのが生まれるんだよ』って、言っていたのよ。まさにその通りだわね」と、

 ラッキーは自分が蹴られたのを恨みに思ったのだろう。で、配給を奪ったのか?

 祖母は美人の里に生まれて、そんこでも評判の美人であったそうだ。田舎から出てきて何もわkらない祖母が物珍しくふらふらしていたら、人さらいを生業にしていたブン(ラッキーの父)が襲うのは成り行きだったのだろう。

 これが藤田小女姫殺害に至る最初の出来事だったような気がする。

 
 昭和21年2月、私の記憶の始まりは、遠賀川沿いの権蔵小屋の中であった。
 
 権蔵小屋とは、川筋者が住んでいる小屋で、若松にある観光権蔵小屋は6畳ほどの広さで、床がない掘っ立て小屋である。
 そこで、私は後で知ったのだが、祖母と一緒の記憶がある。もちろん、その人が祖母であったと知るのは、後年のことである。
 冬の福岡は寒さ厳しく、床のない掘っ立て小屋で3歳の幼児と60歳(推定)の老女がいた。
 外では、「馬糞紙では駄目だ。トタンにしろ・・・」の叫び声がしていた。
 つまり、風が吹き込むので、馬糞紙(いまでいう下ボール紙)で塞ごうとしていたが、トタンにしろと言っていたのである。
 ここへ、叔父になっている(実際には私にとって父違いの兄)が台湾から帰還して、この権蔵小屋にいる祖母と私は見付けたのである。
 この時、祖母だけを彼の勤めていた国鉄の官舎に連れ帰った。
 なぜ、私は連れて行ってくれなかったと言えば、衛生兵だった彼が見て、どうせ、私は助かるまいと思ったようだ。なぜなら、このブログの最初にあるような姿をした私だったからだ。到底、助かるまいと思ったようだ。
 それからの記憶がなかったのだが、数えてみると、2年後の昭和23年だと思うが、小倉の明治鉱業の社宅に、連れていかれていた。そこに祖母がいた。
 やはり、2月の寒い頃だった。
 私は祖母と同じ布団で、寝ていた。いろいろ、話しかけてくれた。アルバムを一緒に実て、長崎の眼鏡橋が映っていると「この足がよくなったら、ここに連れて行ってやるからな・・・」と、言っていた。
 もちろん、この言葉をラッキーが聞かないわけはなかった。ちょうちんもそうだと思うが。私に実親を知らせないようにするには邪魔であったのだろう。

 彼らは祖母に死を与えた。
 祖母の配給があったにもかかわらず、祖母は餓死した。
 祖母は私の最後の肉親である。

 ちょうちんは、この事、心にひっかるものがあると見えて、私が結婚して、妻に「お父さん(ラッキーのこと)が、「働くものが食べるのだというから・・・そうした」と、言い訳のように話していた。
 つまり、祖母の配給はラッキーが食べたということでしょうが、私は二人で食べたと思っている。

 こうして、私は最後の肉親と別れた。
 

クラブ

 「戸畑生まれ」様のコメントにもありましたように私の祖父母がやっておりました倶楽部と称した遊

郭は、私どもの祖祖父が八幡製鉄所の創立に関係したからだと思います。

 明治維新は、土佐をはじめ四国は、いわゆる勝ち組であったと思います。

 祖祖父は、早くから、四国を出ていろいろ出かけていたようです。八幡製鉄所の創立に関係したようで

す。どういういきさつかわかりませんが、八幡製鉄所で、社員の保養施設として、「クラブ」を作ることに

なって、長女と次男である祖父の姉を若松に呼び寄せて、慰安所としての「クラブ」の営業をさせたようで

す。

 これが太平洋戦争が終わって、売春防止法ができるまで続いたようです。

 山口 瞳氏が言われるように「この商売をしたものは子孫が滅びる」のでしょう。

 なにしろ、付き合う人間は人さらいとか女衒とかが多かったのは必然であります。そして、福岡には筑

豊炭田がありますから、川筋者との接触もあります。

 私がラッキーに攫われて。監禁されたのが遠賀川添いの権蔵小屋です。若松で観光用の権蔵小屋を見て

何とも言えませんでした。裏日本気候の2月、祖母と二人で床なしの3畳ほどの馬糞紙でできた権蔵小屋で

の記憶は、私の記憶の始まりです。


 それと、東亜子や私の周りには白人様の面容をしたものが多いことも明治維新にさかのぼるのでしょ

う。それもこれらに関係あるのでしょう。この項で書きますのでよろしく…

 

祖母(母方の)

 終戦後、私が小倉で祖母と一緒にいたのは、昭和24年の寒い頃だ。
 
 小学校に入る一年前である。いつの間にか、明治鉱業・小倉の社宅にいた。この祖母は肉親の温もりを私に与えて、自分は餓死して果てた。
 
 東亞子がハワイでの惨殺された後、祖父母の里に出かけて、親戚など、この二人と関係者を知る人々を訪ね歩いて、お話を伺った。
 
 二人の故郷は、徳島県・剣山系の山奥だった。
 
 祖父は東山、祖母は西山で、各々、そこで、名主のようだった。特に祖母の方は祖母の家の名字とその村落の名前が同じである。
 
 その昔、平家の落人が住み着いたという言い伝えがある。祖父と祖母の家のは徒歩で40分ほど離れていた。
 ところが両家は仲が良いかというとそうではなくて、敵対していたようだ。
 祖父の親戚の物は「なんで、「○○叔父は△△△(祖母の家の名字)のもの一緒になったのか・・・」と、不思議がっていた。
 
 祖母は美人であったとはラッキーもよく言っていた。そして、この里でも、みなさん、「きれいな人やったわ!」と、おっしゃる。
 「鄙には稀な」という言葉があるが、この鄙は平家の女官が落ち延びてきて、古くから美人の里で、「秋田美人」などと言うようにここの地名を付けた美人の呼称があるそうです。
 
 そんなわけで、祖父と祖母はみんなに不思議がられるのに一緒になり、九州に向かった。
 
 
 母に会ったときに、最初に聞かれたのは「成城の自宅はどんなようすでしたか?」ということです。
 
 続いて「なんにもなかったでしょう?」と、まるで、そういう事例を知っているかのようでした。
 
 昭和21年2月、祖父が戸畑の自宅に帰着して、送っていった甥の栄一が四国に帰って、すぐ、祖父が消えて、祖母が私が監禁されていた飯塚のゴンゾウ小屋に押し込められたのは、そのすぐ後だった。
 
 そして、秀夫が台湾から帰還して、戸畑の家に行ったときのことを回想して、
・・・びっくりしたなぁ〜、もう、 なーんにもなかった・・・と、
 
 東亞子の殺害現場であるハワイ・ホノルルのコンドミニアムでの、写真を見ると、ものらしいものはなんにもなく、クローゼットに遺体が放り込まれていたにも拘わらず、
衣類がなんにもなかった。
 クローゼットに東亞子の衣類があったはずなのに皆無ということだった。
 
 祖父の死と東亞子の死には共通するものがあることを漠然と感じた。
 
 祖父のことをラッキーは貧乏であったと口癖のように言っていた。
 おまけに、私が結婚したときに若かった妻に問わず語りに祖父母のことを話していた。私も隣で聞いていたら・・・
 
 ラッキーは得意になって話していた。
「じいさんは醜男であったが、ばあさんは、美人であった。・・・それに貧乏であった」と、したり顔で話している。
 私にはいつも祖父が貧乏だったと言っていたから、何の不思議もなかったが、妻はその頃若い女性だったから、
 後で、私にこう言う。
 「なんだか、変よね。おばあちゃんは超美人だったっていうのに、おじいちゃんは醜男で貧乏なんでしょう?今はね、家付き、カー付き、ばばあ抜きっていうのよ。100%に近い女性はそんな男のところには、行かないよ」と、
 
 ちょうちんが亡くなって、若い頃の写真が出てきた。
 京都で撮影されたようで、昭和12年と裏に書いてあった。
 その写真は鞍替えの時のらしく、多くの若い女性と引率する人たちが写っていた。私はそれを持って、四国の祖父を知っている人を訪ねた。
 
 「こんなに抱えとったぁ〜!!」
 「これは源さんですか?」と、私は自分に似た男を指すと
 「源叔父は、よう、あんたに似とるわぁ〜」と、祖父の年代に近くなっていた私に言った。
 
 ラッキーがいつも貧乏だと言っていた祖父は昭和12年、ベンツに乗っていた。
 
 このブログに写真を載せている私が醜男だと言えばそうかもしれないが、昭和12年にベンツに乗っていた男が貧乏とは・・・よく言えた!!
 
 
 

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.
hannreinakinisimo
hannreinakinisimo
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事