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秋の夜長は、長文ブログでも読んで・・・

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                   広島のドン山村辰雄組長と山村家のドン邦香

呉・山村組が結成されたのは昭和21年3月。終戦後に稼動した新興組織である。その山村組に発足当時からいた重要人物が若頭佐々木哲彦である。美能の手記には佐々木が山村組発足と同時に若頭就任した経緯が佐々木自身の言葉で語られている。映画『仁義なき戦い』は、実は佐々木哲彦(坂井鉄也=松方弘樹)を主人公として描かれている。殺害場面などの虚実は多いが、多くは事実に基づいている。

「わしがおやじ(山村辰雄)を知ったのは兵隊から戻ってからじゃ。ブラブラしとったらある日よ、Aの妹と会うたんじゃ。これがよ、うちがやっとる仕事を手伝うてくれんか言うんじゃ。行って見たら進駐軍の材木運搬よ。Aの妹がうちと言うんがおやじだったんじゃ。そのころおやじはAの妹と一緒だった。(中略) おやじは事務所の女を突ついたり、阿賀のうどん屋の娘を突ついたり、そうこうしよったら問題の浅田の姐さんとできた。

この姐の叔父になるんが魚市場理事の谷岡千代松さんよ。おやじと姐が一緒になりゃ、谷岡さんにしてみりゃおやじは自分の姪の婿になることになろうが。そんで谷岡さんがわしを呼ばれて言ったんじゃ。一つ、あんたぁ若者頭になってやってくれんか言うて。それで、ま、わしはなったんじゃ。」 

谷岡とは山村の兄貴分に当たる人間である。こういう経緯からして、最初から佐々木は山村組長に情が薄いのも仕方がない。組内に団結力もなく、佐々木にすれば雇われた感覚で、山村組長を軽くあしらっていたのだろう。映画でも坂井(佐々木)が山守組長(山村組長)に爆裂啖呵を切る場面がある。後に名セリフの記事で紹介するが、この言葉でもって親分に愛想をつかし反旗を翻したことになってはいるが、佐々木は元より野心家であった。ただし、山村と佐々木の利害は土岡組壊滅で一致をしていた。

土岡対山村・佐々木・小原連合対決の口火を切ったのは小原組だった。昭和27年3月23日に土岡組員が小原馨・光男に銃を乱射した報復に、小原組員が25日に土岡組事務所に発砲した。土岡は刑務所にいたが3ヵ月後の6月26日、出所して2日後に佐々木の若い者に射殺された。親分を失った土岡は解散、暴れん坊の村上組村上正明も逮捕され、佐々木、小原をうまく操って山村はのし上がるが、抗争が一段落すると、山村組の内紛が頭をもたげることになる。

イメージ 2当初から山村組内を仕切っていた佐々木は、反佐々木派を粛清しながら利権を拡大、パチンコの景品買い、キャバレーのカスリ銭だけで6000万円の収入があった。なおも、「太陽恒産」を設立、会社ゴロ、地あげ師、手配師、銃器の販売、パンパンの管理、手形のパクリ、プロレスや歌謡ショーなどの興行、エロショーなど、裏社会の利権ほとんどを佐々木が独占した。このあたりから山村と佐々木の力関係は逆転したとみる。佐々木によって強引に引退させられていた山村は、美能のいる岐阜刑務所に赴き、佐々木への不満をぶち上げる。昭和33年8月、山村の妻邦香が面会に訪れ、2週間後には山村自身が訪れている。美能は昭和34年3月に出所すると、山村は佐々木の暗殺は組のための大義と出所早々美能の親元にまで手紙を書く。         佐々木哲彦⇒
しかし、仮出所の身でもある美能は山村に愛想をつかしていたこともあって、この話に乗らなかった。美能が入所中佐々木に粛清された野間範男(矢野修司=曽根晴美)、大段茂(山方新一=高宮敬二)の件もあり、美能は佐々木に舎弟の盃を返し山村組からも距離をおく。

映画では広能が山方の仏壇に手を合わせるところに坂井(佐々木役)が現れ、山方の妻の子を自分の子と言う。完全制覇を狙った佐々木の命運がここで尽きるとは誰も予測できなかった。それは小原馨亡き後の跡目問題に、佐々木が強引に介入したことで始まった。初代小原組長の兄弟分であり、小原組員の叔父貴にあたる佐々木にとって、小原組の占領など容易との判断があった。

馨亡き後は妻の光子が跡目となっていたが、女は正式な組長にはなれない。佐々木は自分が経営する遊郭に小原組組員を招集して言った。「岡崎義之を小原組二代目とする。」岡崎は佐々木のところの若頭である。その案に一人敢然と反対する門広を一蹴、岡崎の襲名披露の日取りまで決めてしまった。門は小原馨組長の実弟小原光男を推したが無駄であった。そればかりか昭和34年7月14日、佐々木は造反分子の門を岡崎の二代目襲名式の前日、配下に襲撃させた。

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        プロレス興行で力道山と。少女を抱く佐々木哲彦、帽子を斜めにかぶった門広

呉市・広町大新開の路上で門は岡崎配下の3人に銃撃された。銃弾を腹部に負い銃弾は貫通したものの、急所を外れて奇跡的に一命を取り留める。門はその時の様子を語っている。

「突然背中にパーンと衝撃が走った。痛いというより熱い感じじゃな。ほいでも撃たれたとは思わんで、どうしたんかな?車がバックしてきてぶつかったかなくらいじゃった。後ろを振り返ったら脇(脇武=実行犯)が拳銃を構えて立っとるじゃない。ああ、わしやられたんじゃなと、それでわかった(笑)とっさに脇の拳銃を取っちゃろう思うて前へ出ようとしたら、足がもつれて倒れてしもうた。

すぐに立ち上がって傷口を見ると、脇腹のところから脱肛みたいにドーンと肌が出とって、穴まであいちょった。その日わし、着物姿で総絞りの帯を締めてたんじゃけど、血が出てることに気づいてあわてて帯をほどいたわ。高価な帯じゃから汚しちゃいけん思うて(笑)。わしを囲んどった相手は4人ぐらいおったんじゃが、脇が一発撃っただけじゃったんで、わしは傷口を押さえながら、近くの映画館まで歩いていき、そこの電話でタクシーを呼んだ。貫通したようじゃが大丈夫、こりゃ死なんわ。

そう思うたのは電話をかけよるときよ。意識が遠のくこともなかったし、出血もそう多くなかったけん、急所ははずれとる思うた。ほいじゃけどおかしなもんよのう。タクシー待ちよる間、走馬灯のように自分の人生が浮かぶんよ。時間にすればほんの数分じゃったと思うが、あれが「邯鄲の夢」いうやつじゃろうか、最後には自分の葬式の場面まで浮かびよった。タクシーで病院へ直行したんじゃが、そこでわしは見栄を張りおって、麻酔もかけず立ったまま手術してもろうた。

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                          昭和30年代の門広と組の若衆

当時わしは29歳。男いうんはこういうもんじゃいうところを見してやろうと思うたんじゃけど、今かんがえれば、バカみたいな話よのう(笑)。痛さ?手術の時は気が張っちょったからじゃろうか、さほど感じんかったが、後が往生したわ。熱も出よったけんね。岡崎一人の考えでわしを襲えるはずはない。わしは最初からそう睨んじょった。裏には佐々木哲彦がおるなと・・・。その佐々木さんは、元中敏之を連れて堂々とわしの見舞いにやってきた。それも襲撃の当日よ。

『助かってよかったのう。』佐々木さんはシレッとこう言いよった。その瞬間、フッと元中の方を見たら、わしに向かって目をパチパチさせて合図しよる。ああ、やっぱり佐々木さんが絵を描いたんじゃ、ほいでもこの場は辛抱しちょくれ、と元中が合図しよるんじゃのうとわしは思うた。佐々木さんが来たとこは、面会謝絶よ。ドアの前に書いてあるが誰も守りゃせん。わしも精一杯見栄を張り通して、ベッドの上に座って面会客を出迎えとった。

幸い銃弾は背中から心臓の下を抜けて貫通し、骨にも当たらんかったから大事には至らんかったよ。見舞いには小原組の磯本も来よったが、顔見た瞬間、『お前は入んな!』と言うた。こいつは怪しい、これを入れたらやられる思うたんじゃ、第六感で。実際その勘は当たっちょったしね。」

門を襲撃した脇は、その場で逮捕された。広署の刑事がたまたま近くで事件を目撃していたため、事態はすぐに収拾した。事件を知った小原組からは、石谷がすぐに病院にかけつけた。「先生、兄貴を殺さんでくださいよ。」「何言うんない。この人は今からチャンバラしても死にゃあせんわ。」この言葉で門の命に別状はないと知った石谷は、事務所にかえってすぐに報復の準備に取りかかる。岡崎の仕業であるのはとっくに知れていた。石谷は平本義幸に米軍流出コルト45を持たせ岡崎を追わせたが、その間岡崎は佐々木の家に逃げ込み、仇討ちは叶わなかった。

イメージ 6門の入院後、海生親分に呼び出された石谷が海生邸へ行くと、そこには佐々木がいた。岡崎は佐々木の家に潜んでいるとの情報を得ていた石谷が、「岡崎が佐々木さんの家へ逃げ込んどるいうんじゃが?」と水を向けると、「おぅ?わしの家へ?そりゃええこと考えたわ。わしの家におったら一番安全じゃけんのう。」と佐々木は答えた。佐々木のこの言葉に石谷は腹が煮え繰り返る思いだったが、何はともあれ海生親分の前ではうかつな発言もできず、「とにかく岡崎に会うて話を聞いてみますけん。」と言って海生邸をあとにした。

このとき岡崎はもう松山へと逃走した後だった。門の独白は続く。「石谷たちは岡崎を追って松山まで行ってくれたらしいが、わしとしては岡崎より佐々木を殺っちゃる、いう気持の方が強かった。病院では『佐々木を殺る』と何度もうわ言のように言っとったらしい。20日くらい入院で、退院後は見舞いの礼に行った。海生親分が紅白の餅を用意してくれよったんで、それを持って佐々木のところにも出向いた。

『おう、元気になったんか。傷はようなったんか?』と佐々木はいたわりの言葉をかけてくれよった。それに答えてわしが、『身体の傷は治っても心の傷は一生治らんわ。』言うたもんで、佐々木はちょっと驚いたように、『そがいな奥歯にものがはさまったような言い回しはすなや。』と言うちょった。わしはなにも言わず佐々木と別れたわ。」

門の退院後、佐々木殺害の準備が始まる。佐々木もそれまでの門とのやり取りで気配は十分感じ取っているようで、石谷を呼んでこう釘を刺している。「恒(石谷)よう、われなんじゃ、門をわしが撃たしたように言いよるらしいのう。他のもんが言うたらなんじゃが、われは言いたいことを言いよってもええわ。ほうじゃけどわれ、これからはもう言うなよ。」石谷と幼馴染の佐々木だから、こういう言い方になったのだろう。

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                  戦友でもあり盟友でもあった舎弟の石谷恒雄氏と

しかし、裏を返せば石谷や門が、本気で自分を狙うとは夢にも思っていなかったのだろう。ただ、佐々木を消したいと思っていたのは、門の一派に限らない。山村親分の舎弟であった松永・清水春日親分なども、山村が佐々木からひどい仕打ちを受けていると知り、「なんとかせにゃあいかん!」と広島・岡組に進言したし、山村は山村で配下の樋上と佐々木暗殺を画策していた。映画で樋上実役は田中邦衛が槙原政吉として演じている。

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仁義なき戦いを見たのは何時ごろだったのだろう

うろ覚えに覚えているが 細かいところは全く記憶にない。。
けれど これほど細かい描写を読んでいけば
ううーんとうなづけるところもほんの少し、、

美納組長役の 菅原文太さんの言い回しは絶妙だった、、 田中邦衛さんのいたな。。榊原 役だった、、かな と 遠い昔のような気もする。
映画とあわせて読めば よくわかるようなきがする。。

2009/10/3(土) 午後 2:35 あさ

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門さんつて 男だったんだな、、と 改めて。。

でもやつぱ やくざの根性って 半端じゃないね 。。

2009/10/3(土) 午後 2:37 あさ

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山村さん役は 確か金子信雄さんだっな、、

2009/10/3(土) 午後 2:38 あさ

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映画『仁義なき戦い』は封切られた当日かまもなくか忘れましたが、同郷の同僚と新宿東映で観ました。当時はかれこれ数年は東京にいたし、「今じゃいっちょ前の東京人」という気持ちもあってか、使うこともない広島弁が懐かしてくてね、映画の内容よりもそっちの方に感動してました。

菅原文太よりもちょい役で出るエキストラの役者の方が広島弁が上手くて、「ありゃぁ、絶対に広島の人間じゃ〜、間違いあるまぁ!」とか友人といいあってました。千葉眞一も、北大路欣也も広島弁一応合格点ですが、最高点は木村俊恵が扮する山守親分の妻(利香)でしょう。県警の動きを察知した山守親分が入院作戦に出るも、病室にホステスをはべらせる有り様。そこへ県警の刑事が逮捕状もって来るときに利香が山守にブチかます。

「あんたぁ!新聞社も見えとってじゃけん、男らしくしんさいよ!」

この場面、好きですね〜!

金子信雄の山守の広島弁は自分的には第4位、第5位あたりでしょうかね。なかなかちょぼくれて面白いです。

2009/10/5(月) 午前 11:24 [ hanshirou ]

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三人の写真、左上は三宅さんじゃありませんよ。

2010/5/6(木) 午後 5:53 [ him*ock*9*8 ]

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him*ock*9*8さん、ご指摘ありがとうございました。早速訂正しておきます。

2010/5/6(木) 午後 6:02 [ hanshirou ]


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