死ぬまで生きよう!

秋の夜長は、長文ブログでも読んで・・・

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              美空ひばり公演興行時の佐々木哲彦(美空ひばりの右隣り)

生きていれば広島・呉の絵図が大きく変わったと、多くのヤクザ長老に言わしめるのが佐々木哲彦である。世に「三日天下」という言葉があるが、急激にのし上がってきた佐々木は実質四ヶ月の天下であった。粛清という強引さで地盤を広げ力をつけてきた佐々木だが、彼自身ヤクザ社会において正当な評価をされぬ筆頭である。佐々木をヤクザ失格とまで罵るものいる。彼が評価されぬ理由、ヤクザ社会における正当な評価とはなんなのか?

それは彼が己の私利私欲のために親分・山村辰雄を追放したことにある。ヤクザ社会において下克上は最大のタブーとなっている。組から他の組み移ることはあっても、我が親分を放遂するのは仁義が立たぬ。佐々木は山村親分の恐喝の罪の身代わりで4ヶ月入所していたことがあり、その時に山村が佐々木の愛人に手を出したことも、佐々木の強い怒りを買ったといわれている。「満子の恨みは怖ろしい…」山村にも十分非があるではないか。

石谷恒雄は佐々木を幼少時代から知っている。「哲っちゃんは、わしより三つ年上じゃったが、頭はええし、けんかも強かった。「人斬り」いうあだ名もあって、実際にわし、祭りのとき哲っちゃんが匕首で人をずたずたに斬ったのを見た。見とって怖ろしかったけど、大した男じゃのうとも思うた。石谷の家に佐々木が居候していた時代もあったというし、憧れの佐々木にあやかって石谷は長男に哲彦と名付けたくらいである。

門は佐々木の配下に襲撃された。しかし、佐々木を本来殺るべきなのは、山村組の者でなければならない。門も、樋上や美能が出所したら親分を追い出した佐々木を殺ると思っていたくらいだ。小原の跡目問題に口出ししたこと以上に、佐々木は山村組で粛清されるのがスジと門は思っていた。石谷は当時のことをこのように言っている。

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             石谷恒雄氏の顔に刻まれた年輪。消えぬ佐々木哲彦の思い出があろう

「門の兄貴が撃たれたあと、樋上がわしのところへきて、『恒、どうすんない?』と聞いた。わしは、『どうすんないって、やらした人間をやるよ』いうたら、『誰をやるんない?』ときくので、『誰いうて佐々木がやらしたのは分かっとるけえ、それをやるよ』実は樋上は山村親分らと佐々木をやる話は出来とったらしい。それをわしらがやるいう気になってるからこれ幸いと思うておったんじゃ。」

佐々木哲彦は、昭和34年10月7日の午後、呉市中通5丁目にあるビリヤード場「廣一」に入った。ここで数時間過ごし、ビリヤード場を出た直後凶弾に倒れたのである。当日はマヒナスターズの興行があり、佐々木の関係者はその準備に追われていた時を狙っての犯行だった。門がその襲撃計画の一部始終を説明している。

「わしは自分で佐々木を倒す覚悟じゃった。しかし、それを知った若いもんが実行役を買ってでた。三宅譲と平本義幸じゃ。佐々木の行動に関しては、山村組の樋上から逐一情報を受け取っていた。ほいで今日決行じゃいう日、わしらは小原組が経営する中通りの麻雀屋で待機しとった。佐々木がビリヤード場「廣一」へ入ったいう連絡を受けたのも麻雀屋よ。そこから「廣一」までは距離にして百メートルほどじゃ。

三宅と平本は呉の地理に詳しくなかったので、わしと石谷が実行犯二人をビリヤード場まで連れて行った。わしはその後麻雀屋に戻ったんじゃが、気になってもう一度裏道通って現場近くまで行ったところ、「パーン、パーン」という銃声が聞こえた。やりよった!そう思うてわしは引き返し、タクシーに乗って逃げたんじゃ。」

一方の石谷は実行犯の二人を「廣一」の前まで案内し、近くの路地から成り行きを見届けていた。以下は石谷が見た佐々木殺害の一部始終である。

イメージ 2「佐々木さんはビリヤード場からでてくると、数メートルほど離れたところに立っていた三宅と平本に気づいて手招きした。まさか二人が刺客とは夢にも思うておらんかったようじゃ。三宅はゆっくりと佐々木さんに近づいて、『こんにちわ』と頭を下げた。平本の方は、何を思うたか別の方面へ走って行った。あとで聞いたら、拳銃がうまく操作できるか心配になって、近くのデパートの便所で確かめよったそうじゃ。佐々木さんは平本が走り去っても、何の疑問ももたんかった。三宅も落ち着いとったしね。挨拶したあと、佐々木さんがタバコを取り出したんで、マッチを擦り、少し背をかがめるようにしてタバコに火をつけた。そこへ平本が走って戻り、三宅の肩越しに佐々木さんを撃った。どこに当たったかわからんが、ともかく最初の一発が命中し、佐々木さんは倒れた。(左の画像は当時の現場)
佐々木さんは、その後すぐに起き上がって平本らに後ろ見せながら走って逃げた。平本はその背中を狙って五、六発撃ち込んだ。佐々木さんはまた倒れ、動かなくなったのを見届けると、三宅が平本に何か囁いとる。わしはもう完全に命を奪ったと思い、三宅と平本に「早うこっちこい、逃げるんじゃ!」と怒鳴ったら、平本だけが逃げ出した。平本はあわてたのか、打ち合わせと違う方へ逃げよった。

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                   佐々木哲彦銃撃実行犯の三宅譲(左)と平本義幸(中)

ところが三宅は平本が逃げ出すのを確認すると、倒れてる佐々木さんの元へ行き、足で佐々木さんを転がした。それで佐々木さんの顔が上を向くと、その顔目がけて拳銃を一発撃ちよった。ああ、三宅はしっかりしとる。きちっととどめを射しおった。と思うて見とったら、今度は佐々木さんの側にかがみ込んで何か拾うとる。ほう、薬莢も拾いよったか、三宅はたいしたもんじゃ思うたら、違たんよ。

あとで聞いたら『自分がくわえとったタバコが落ちたから、それを拾いよった。』と言う。三宅のタバコ好きは知っちょったけど、さすがにわしも驚いたわ。銃声を聞いた「廣一」の女の子がでてきて、「人殺しィ〜、人殺しィ〜」と叫んでおったし、警察が駆けつけてきたらわしも危ない。三宅らが失敗した時のためにわしも拳銃持っちょったから、三宅が走って逃げるのを確認したあとはわしもあわてて逃げよった。」

イメージ 5弾丸は7発発射され、うち頭部と左胸部の弾傷が致命傷で絶滅。犯行後三宅は海生親分が経営する映画館まで行き、そこの便所に拳銃を捨てて逃げた。一足先に逃げた平本は、焦っていたのか拳銃を持ったまま指定の場所へ急いだ。焦っていたのは平本だけではない。人ごみに紛れてバスで逃走した石谷も、タクシーで裏道ばかり指定した門も可笑しな行動をとっていた。その後は佐々木の舎弟が報復しないよう脅したり色々手を打ったりしたのが功を奏してか、佐々木の舎弟連中はほとんど逃げた。三宅と平本が捕まったのは、事件からわずか三日後。門の証言などからチンコロがなければ絶対に不可能な逮捕劇だったようだ。「チンコロしたんは、あいつじゃ、こいつじゃと色々な名前がでよったが、証拠はない。わしが悪いのよ。わしが一人で殺っとればよかったことじゃしな。」「三宅も平本もわしらの事は一言もしゃべらんかった。山村親分がわしを呼んどるいうんで、海生親分のとこに行ったら、山村さん、わしの手を握って礼を言うた。広島の岡親分も『これで安心できるわ』と喜んじょった。それだけ佐々木の存在は大きかった。山村さんは、『ありがたいことじゃし、わしは一生門の面倒を見る』じゃの、『競艇場の売上げの何割かを、お前のために貯金しとく』とか言うええ親分じゃ思うとった。

ところが美能さんは、『山村に騙されるない』と言う。あとで分かったことじゃが、山村さんの口車、空手形はほんまじゃったということよ。三宅と平本は最高裁まで争ってそれぞれ懲役15年が確定したが、両者とも最後まで『門さんは関係ない』と言い張った。わしは石谷と共に出頭し、石谷は10年、わしは17年の刑をくらった。『わしは本件に一切関係ありません』と警察で言うた。

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                左から門、石谷、三宅、平本(昭和35年・吉浦拘置所)

そうしたら警察は拳銃の絵をかいて、『これ見たことあろうが』とか、『あんたは三宅らの親分じゃろうが』とか、うるさい。可笑しかったんは、小原の若いもんが警察に呼ばれて、『三宅らが拳銃持っちょるの見たじゃろうが』といわれたとき、『見とりゃあせんわ、あがいな大きい銃など』と言うてしもうた。警察は一瞬ポカ〜ンじゃったじゃろう。」

山村は佐々木が消えたことで息を吹き返す。佐々木の事業を引き継ぐ形で財力を蓄え、勢力圏を呉から広島一帯へと拡大して行った。昭和37年には、岡組の親分岡敏夫が幹部を含む子分全員を山村に譲って引退し、それまで60名ほどだった山村組も一挙に200名を超える一大組織となった。しかし、岡・山村の統合に反対したのが、打越信夫擁する打越組だった。打越組長は神戸の山口組と縁を結び、打越会と組名を改め、山村組との対立を深めていった。美能は山村を目の仇にしているが、門はさほどの利害がなかったのか、山村にこのような言葉を残している。

「運がええんかね、山村さんいう人は。一時は大きな借金抱えながら、人に泣きついたり騙したりするようなやり方で、うまいこと泳いどった。口幅ったいいい方じゃけど、わしらが男にしてカムバックさせたようなもんよ。美能さんは『ほんまに山村親分は悪かった』いうが、わしらも確かに騙された面はあるが、単細胞の性格なんか、山村さんがそんなに悪い人とは未だに思えんのよ。」

イメージ 6昭和39年5月、山村組が中心となり連合組織「共政会」が発足。山村は初代会長につくも一年でおりた。山村の経営する会社に7000万円の脱税が指摘され、山村は企業を維持するために昭和40年6月9日、弁護士を伴って広島東署を訪れ引退を表明した。しかし、引退後も隠然たる影響力を持ち続け、院政を引く腹積もりだったようだ。その山村が完全に身を引いたのは昭和42年、山口組本家である田岡邸にダイナマイトが投げ込まれる事件があった。当然ながら山村にも嫌疑がかけられ、起訴された時に、山村が依頼した藤堂弁護士が、「君が本当にヤクザを辞めてカタギになるなら引き受けてもよい。」との条件を出した。「引退します。」山村は答えた。「もう一つ条件がある。わしの知り合いの医者が、身体障害者の療養施設を経営する財団法人を作ろうと金を集めているが、君が1000万円出してやれ。そしたら弁護人になる。」藤堂弁護士に言われた山村は二つの条件を呑んだ。公判では藤堂弁護士らの活躍で、山村は有力なアリバイが成立して無罪。山村は残りの弁護料を未納のまま帰らぬ人となったが、山村が寄付した療養施設はこんにちも運営されている。梟雄・山村辰雄は最後の最後に善行を施し、昭和49年12月2日、71歳の年齢でその波乱の人生に幕を閉じた。

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佐々木さんが暗殺された本を読んだことがありその後のの「共政会とか 実に詳しい。。ううーん・

2009/10/2(金) 午後 5:13 あさ

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伝説のヤクザたち
世に伝説のヤクザと呼ばれる男たちがいる。

小原馨 悪魔のキュ-ピーに片腕を切り落とされた隻腕の親分、豪胆さが災いを呼ぶ
佐々木哲彦 親分山村を駆逐し呉ヤクザの支配者となるが過信のゆえにとどめの銃弾を撃たれる
大長健一 逆らう奴は斬る。闇に葬られた者数知れず。
西日本にヤクザを震え上がらせた必殺の鎧通し、恐れを知らぬ男
侠気と狂気に満ちたその最期
新城喜史 狙われたら最期、宿敵上原派の銃弾に沈む
http://blogs.yahoo.co.jp/asayama55/15057761.html

世の中に伝説のやくざと呼ばれる人たちがいますね
佐々木哲彦さんも その中にはいつていますね
上のアドレスは その伝説のやくざの 生き様を書いた本を読んだものです、

2009/10/2(金) 午後 5:21 あさ

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しかし まるで実況見分調書のように 正確iに書いてあります。
根気がないと申されていますが 根気なくしてかけませんよ 爆

2009/10/2(金) 午後 5:23 あさ

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本にされないのですか、、??

2009/10/2(金) 午後 5:24 あさ

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「出る杭は打たれる!」は、ヤクザの世界にも共通するんですね。三代目山田久氏も何度も襲われましたが、強運の一言に尽きます。佐々木哲彦にもう少し用心深さがあってもよかったの思うんですが、いきなり街中で「ズドン!」と殺られるのがヤクザの世界なんですね。

自分は思うんです、美能にしても、大西にしても、山中、佐々木、門、石谷らは皆戦争の体験者であり、生き残りです。当時のヤクザに共通する死を怖れぬ胆っ玉の大きさは、戦争(戦場)体験に負う所が大きいと思います。声色を変えて「振込み詐欺」などをして庶民を騙すこんにちの暴力団にはうんざりさせられます。侠客精神もないヤクザな生き方とは認められませんね。その意味で『仁義なき戦い』には男のロマニズムが凝縮されているのですね。

自分に知識があるわけではないですが、門さんの独白などの貴重な資料をあえて紹介することで、『仁義なき戦い』を知らぬ世代、親の過保護にある平和ボケしたひ弱な世代に「渇!」を入れたいとの思いはありますね。

2009/10/3(土) 午前 9:13 [ hanshirou ]

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暴力団にはうんざりさせられます。侠客精神もないヤクザな

いまは 本当の侠客 やくざっているのでしょうかね
全く縁のない わたしにとつては 関係ありませんが
やはり なんとなく 本当の男のいない世の中に対す
るなさけなさなんでしょうね 何でも金でころぶ。。 なにかへんな世の中ですがみなある意味生きていくために仕方ないのかな。。
でも 親がいてちゃん面倒見てくれた人は やっぱいいな、、 爆

2009/10/3(土) 午後 2:07 あさ

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昭和30年代 大阪布施にSさんという組長がいたらしい わたしはその人を全く知らないが その人の上のせこ さんという(やくざではないかたぎの人)と後年欲話していたら 「あのSは力もない弱い奴だった」 だから 生き延びたなんて よく言ってました 出る杭は打たれる まさに そのとおりなんでしょう。。 爆

2009/10/3(土) 午後 2:13 あさ

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「今の若いもんは・・・」という言葉は、自分が大人になったら絶対に使うまいと決めていたんですがね、今の若いもんに男はいませんね(笑 自分は母親に子どもの頃から金と嘘で踊らせられたので、金で自分を売るのが大嫌いになりました。

しかし、母性に飢えてたのか、女の優しさをトラウマ的に求める部分はあったです。女の嘘が見抜けるようになったのは50に届いてからだと思います。なにぶん現役バリバリでしたから・・・

「太く短く」という生き方に羨望は抱きますが、細く生きながらえる奴は、打つ杭にも値しない人間からでしょうね。でも出る杭は打たれるとはいうけど、打てないくらいに出すぎたらいい、とも言われますが、出すぎたとて、踏み台やら脚立を持ってきて打たれるかもしれませんしね〜(笑

2009/10/5(月) 午前 11:54 [ hanshirou ]


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