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三島事件〜天才と狂気

三島事件は晩秋、肌寒い11月25日であった。1970年だから43年前の来月で、当時45歳の三島が存命なら88歳の米寿の年齢となる。88歳の三島がどういう風貌なのか想像もつかないが、老いぼれる前に逝った人はその年で年齢が止まるし、特に女性にとっては視覚的に良い。三島の行動を、「何の役にも立っていない。今生きて行動しなきゃ意味はない」と批判した石原慎太郎。
 
三島は戦時中の学徒動員生や、神風特別攻撃隊士のように国家に身を奉じたのではない。国家を憂いて死んだことになっている。国家を憂いて死んだ三島に対し、石原は上記のことをいったのだ。石原は都知事を途中辞職してまで国家に奉じるといった。「国を憂える」という言葉をその当時よく使った石原に、記者が「三島由紀夫の言う『憂国』とあなたのそれは違うのか?」と問うた。
 
イメージ 1石原は間髪をいれずに、「違うよ!彼は本当の行動をしてないもの」とだけ言った。そして時間を置いてこう付け加えた。「でも彼は素晴らしい人だった。楽しい人だった。頭のいい人だった。あの人がいなくなって本当に日本は退屈になった。そのことは間違いのないことだが、あの人が今、生きていたら何をするかと。歴史に"たら、れば"を言ってもしょーがないことだが…」と彼一流の辛辣な批判は抑え、言葉を濁す。
 
三島が現在存命であったなら何をするかなど想像もつかないし、誰にも判らない。現在存命というより、1970年11月25日以降、こんにちまでの三島のことを予見できるはずもない。織田信長が本能寺で亡くなっていなければどうなっていたか、何をしたかと同じように判らないことだ。歴史はロマンだから誰がどう想像するのは一向に構わないが、だからこそロマンなのだろう。
 
もし三島が現在まで生きていたとするなら、この世はどうなっているか。正しいと自信をもって言えること一つだけある。それは、もし三島が現在まで生きていたら…、「世の中の人口が一人増えている」。と、まあ事実ではあってもこれはギャグだ。それにしても三島が決行の日を11月25日とした理由はなんだろうか?彼ほどのナルシストが何も考えず、たまたまという事もあるまい。
 
一説によれば『仮面の告白』を書き始めた日が11月25日といわれている。とにかく三島が市谷駐屯地を占拠してまで自衛隊に訴えたかったものが何かについては多くの人が述べてきた。だが、「自衛隊にクーデターを促したが、それに失敗したことで自決」、という論評だけは正しくない。幹部に決起を呼びかけたわけでもなく、末端の隊員を煽動できると読んでいたのだろうか。
 
上官の指揮・命令系統で動くよう教育をされた自衛隊員が、軍服らしきものを纏った一小説家の怒号で行動するなど常識的にあり得ない。「このままでは自衛隊はだめだ、憲法改正をして正式な軍隊にしなければ」、という三島の心底に長年横たわっていた熱き思いを行動で訴えれば、自衛隊員の耳を貫通できると正気で思ったなら、世間知らずのお坊ちゃまでしかない。
 
マイクを持たない演説は野次に消され、おまけに取材ヘリのけたたましいプロペラの音は、三島自身にも自ら発する声さえ聞こえなかったろう。どれだけ緻密な準備をしたかはともかく、ハンディトーキーを持たなかったのは解せない。演説は30分の予定だったらしいが、三島はものの7分程度で切り上げている。「楯の会」の行き詰まり状態からの自決覚悟の決起と見るのが相場だろう。
 
 
 「バカヤロー」、「何やってんだー」、「早く降りてこい」など隊員の怒号と批判の嵐の中、「 男一匹命をかけて諸君に訴えているんだぞ!」と声を荒げる三島の行為は学芸会にも劣る陳腐な行為に思える。高いところから拳を上げて怒鳴れば人は動くと、そんなことを三島は本気で考えていたとは到底思えない。45歳の天分ある作家が命を賭して成す行為にして、この稚拙さである。
 
「会議の席上で物事が決まることはない。すべては事前の酒席での根回し」というのが日本社会である。自衛隊員の野次には、「昼飯を食う時間がなくなるだろう」というのもあった。三島にはサラリーマン体験などあろうはずもなく、組織というものの実態を知る由もない。自衛隊員といえどもそれぞれが家庭も持ち、子どもの養育するなど生活を背負うサラリーマンと何ら変わりない。
 
そんな隊員が軍隊ゴッコ好きおっさんの口車にのって憲法改正蜂起など、どうして考えられる。人を動かすことがどれだけ大変か、三島は隊員たちの上官でも何でもない気の利いた一小説家に過ぎず、三島文学に傾倒した隊員がいたとしても、今バルコニー上から叫び狂う三島とはまったく異質の別人だろう。数日前に三島はクーデターを描いてたとの証言がある。
 
証言者は元「楯の会」会員で四期生の田村司。昭和45年夏、田村は森田必勝(三島と共に切腹死)らに連れられ伊豆大島にて武闘訓練の合宿をしたが、その時に森田より「近いうちに何か行動するかも知れない」といわれ、覚悟を決めたという。同年10月23日、楯の会会員は自衛隊駐屯地の横にある市谷会館に集められた。田村はその時のことを以下のように語っている。
 
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先生は無言のままに「Coup d'État(クーデター)」と書きました。それ以前から「都市機能を麻痺させるにはどうしたらいいか」などと先生が問題提起し、「都心につながる橋を爆破すればいい」、「変電所を破壊する」などと議論したことがあったので、「ついに来たか」と思いました。まず「楯の会」が動き、自衛隊の有志と呼応して都心を占拠、戒厳令を敷き、一気に天皇中心の国家体制への変革を図る。
 
というクーデターを起こすのだ、と。私たちは興奮して、来るべき日に備え、それぞれ予行演習を行いました。私は別の会員と二人で、有楽町の電気ビルの屋上にあった変電設備を襲撃するための下見をしました。バッグには小刀を隠し持っていたので、いつ警官に職務質問されるかと冷や冷やしたものです。しかし、このクーデター計画は幻に終わりました。」
 
三島がこのクーデターを中止した理由について田村の所感は、「クーデターという手段で私たち学生も含め多数の人命が失われるのは忍びないと諦めたのでしょう」と綴っている。事件当日「楯の会」は例会の日で、会員は市谷会館にいたが、朝10時30分の集合時間をとっくに過ぎても三島、森田は現れず、正午過ぎになってテレビをつけて田村らは三島が市谷駐屯地占拠を知ったという。
 
イメージ 6会員は機動隊に連行され新宿署で事情聴取を受ける。「あれから40年以上が経った今でも先生が最後に自衛隊員を前に訴えた「檄」の中にある、『今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君の目にみせてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国、日本だ』という言葉が聞こえてくるような気がするのです」と田村は言う。三島が本気でクーデター計画を発案したとはとても思えない。国家を敵に回すということは、天皇陛下を敵に回すことでもあり、三島にそこまでの度胸はないだろう。これらの一案は「楯の会」会員に対するポーズだったのではないか。「都市機能を麻痺させるにはどうしたらいいか」などと隊員に問いかけ、幾通りかの案を隊員が具申しても、そんな気はさらさらなかったろう三島である。
 
決起の失敗は誰もが認めるように演説の失敗である。「憲法改正に向けて共に起ちあがろう!」などといわれて、隊員のほとんどはキョトンどころか「バカヤロー」、「きちがい」、「ちんぴら、降りて来い」、「英雄気取りはやめろ」、「何をいってるのか分からん」などは野次というより、隊員の正直な反応だろう。これほどまでにバカにされる三島の姿は痛々しくも滑稽であった。
 
あれを茶番劇と見たのはテレビ画面の視聴者を含む聴衆で、三島自身は予見したことだったろう。三島と森田は、型通りに「天皇陛下万歳」を三唱し、総監室に消えた。三島は長靴を脱ぎ、上着のボタンを外し、ズボンを押し下げて床に坐った。鋭い短刀を腹に刺し込み、右へ向けて横一文字に引いた。介錯の森田は三島の背後に立ち、刀を振り上げて首を打ち落とす瞬間を待った。
 
内臓が床の上に溢れ出、三島の体は前方、あるいは後方のどちらかに傾いた。森田は二太刀打ち下ろしたがうまく首を落とせなかった。彼より大柄な隊員の一人が軍刀をもぎ取り、力をこめて正確に振り下ろすと首は胴体から離れた。あるいは「押し斬り」にしたのか、定かではない。いずれにしても、首を切り落とすのは生やさしいことではなく、それなりの鍛錬が必要だろう。
 
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ついで森田は、血まみれの三島の胴体の脇にひざまずき、三島が使った短刀で自分の腹を刺したが、切り口は浅く、筋肉と脂肪の層を切り裂くまでには至らなかった。手練の一太刀で、彼の首も落ちた。残った三人の会員は涙を流していた。総監の縄を解き、胴体と首をきちんと並べて深々と頭を垂れたのち、警官や警務隊におとなしく取り押えられ、予定された一切の行事は終った。
 
十一月二十六日付「朝日新聞」の報道によると、牛込署捜査本部は二十五日同夜二人の遺体を同署にて検視し、結果を次のように発表した。三島の短刀による腹部の傷はへソの下四㌢ぐらいで、左から右へ十三センチ、真一文字に切っていた。深さは約五センチで、腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所あった。  
 
森田は腹に十センチの浅い傷で、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。三島と森田は制服の下には下着をつけず、二人ともさらしの新しい六尺ふんどしをつけていた。検視に立会った東京大学医学部・内藤道興氏は、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べ、その意気込みのすさまじさがにじみでている」と話した。 
 
イメージ 5三島のように、あれほどの深さで真一文字に切った場合、肉体はどういう反応を示すか。刀を腹へ突き立てたとき二つの倒れ方が想定される。それは切腹の際の身体の角度による。瞬時に襲ってくる全身の痙攣と硬直により、膝の関節で折れ曲っていた両脚がぐっと一直線に伸びるためか、角度が深いときはのめるように前へ倒れ、角度の浅いときは後へのけぞる。三島がどちらの倒れ方をしたか不明だが、いずれにしても腹から短刀を抜く暇もなく失神状態に陥り、首は堅く肩にめりこみ、ひょっとしたら両眼はカッと見開かれ、歯は舌を堅く噛み、腹部の圧力で腸も一部はみ出すといった凄惨な場面が展開されたかもしれない。それはとても正規の介錯のできる状態ではなかったと思われる。最後は「押し斬り」に斬ったかもしれない。
 
三島由紀夫割腹事件から、何か学ぶものがあるのだろうか。人の自死から学ぶものがあるとするなら、それはなんであろうか。三島由紀夫の死について軽率なことを書いてはいけないと憚る者もいるだろうが、三島の意図や背景がどうであれ、「彼はすごい」、「彼は阿呆」、「彼を理解できない」など、誰でも思うこと。人の自殺についての「如是我見」。それが自分の考えなら言うのはただ。
 
が、「口は災いの元」。物言えば批判がなされるは当たり前。川端康成は三島の事実上の師であり、三島憤死の2年後に自殺した。川端がノーベル文学賞に決まった時、三島は真っ先に鎌倉の川端宅に駆けつけて祝辞を述べた。川端は、前二回にわたる三島のノーベル文学賞候補が、世界の目が日本文学界に注がれたとの意味で、「三島くんのおかげ」とコメントした。
 
三島の割腹自殺を知るや、いち早く市ヶ谷の現場に駆けつけたのは川端。築地本願寺で執り行われた盛大な葬儀も、自ら葬儀委員長を務めるなど、三島の死に一抹の「悔い」が川端にあったの。そうしたことで川端が三島の亡霊に悩まされてた?と世間は囃した。 死人に口はなく、川端の自死の陰に三島の存在を指摘するのは、近代日本文学史を語る上で定説となっている。
 
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が、川端のノーベル賞受賞が川端と三島二人を殺したというのは、「説」というに値しない俗論だろう。三島は虚栄心の強い人だ。しかし、日本の行末を熟考し続けていたあの三島の切腹を、たかだかノーベル賞を巡る内心の葛藤の問題に据えるのは余りの飛躍だろう。そんなことで果たして人(三島)が死ぬのだろうか。天才には凡人に分からぬ種々があるのだろう。
 
人の存在自体人から見れば偏見だ。だから人は書き、人は批判をする。そういうものだし、それでいいのかも知れない。人を、「バカ、アホ、間抜け」などと罵るのも、人を、「凄い、賢い、偉い」と敬意を評すのも、カネはいらないどちらもただ。ただは究極の安さであるが、「ただより高いものない」というほどに高くつく場合もあるので、そこは押さえておく必要もある。
 
 

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こんいちは。三島由紀夫では潮騒が一番好きですね。太宰治では走れメロスが一番好きです。青春文学みたいに分かり易く生きれないのでしょうかね。

2013/10/24(木) 午前 11:35 ロボット三等兵(rb)

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人はそれぞれに触発された本などがあって、それが今の自分に影響したり、してなかったりするのでしょう。「潮騒」は三島の代表作ですが、その著者と一連の思想的三島とが一致しません。

rbさんお仰せの青春文学みたいに分かり易く生きれないのでしょうかね。は同感ですが、彼の成長過程の何かであのようになったとしかいいようがないです。まるで「潮騒」が三島でないかのような…

2013/10/25(金) 午前 0:27 [ hanshirou ]


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