死ぬまで生きよう!

秋の夜長は、長文ブログでも読んで・・・

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めぐり逢いとは何とも不思議な人間ドラマであろうか。滝の白糸と村越欣也が出逢うことがなかったら、二人は死ぬことはなかった。二人の馴れ初めからの一連の流れの中、白糸の自決にはいろいろ考えさせられるものがある。物語の圧巻は最後の法廷場面にある。尽くしてきた愛する男の手で裁かれるという不条理にあって、自らを保つことがどれほど苦しく酷であるかが伝わる。

これほどの極限状態にありながらも、凛とした姿を崩さぬ白糸の芯の強さは、ほとばしる愛情からいずるものであろう。さらには欣弥との金網ごしのけなげなまでの言葉のやりとりに涙を誘われぬ者はいない。先ずは裁判が始まり、証人として出廷する白糸は、検事席にいる欣弥を目にし驚くところから始まるが、白糸を尋問する欣弥との二人の経緯を知る者などいない。

裁判長はこのように質問をする。「証人は被害者上林から受け取った二百円を東京に送ったと言っておるが、それに相違ないか」、「はい」、「寅五郎に金を奪われなかったのだな」、「はい」。「嘘をつくな!」と脇から怒鳴る寅五郎。裁判長は続ける。「その金は東京のどこに送った」、「それは言えません」、「隠していては、金を送ったのは嘘ということになるぞ」。

そして欣弥が白糸を尋問をすることになる。欣弥にとっては白糸への感謝と愛情を隠すことなどできない。欣弥は誠実に心を込めて白糸に語り掛けるが、周囲の誰にもそれはありがちな検事の被告へのは尋問でしかないない。「送り先の名前を言いなさい」、「どんなことがあっても申し上げられません」、「証人が言えぬというその名を本官は知っている」。これは驚くべき発言である。

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欣弥は法廷の場で自分の名を白糸にいわせようとするのは、そのことが真実であるからだが、白糸は相手の名をいおうとしない。欣弥はそんな白糸の心を慮りながらこう諭す。「証人は偽りを言ってはならぬ。証人は滝の白糸と呼ばれる立派な芸人ではないか。濁りなく澄み渡ればこそ白糸と申すのであろう」。白糸には欣弥がこの場で自分への敬愛心をひしひし感じたであろう。

つづけていう。「その白糸が罪もない人に罪を着せたとしたら、多くの贔屓はどう考える。もし本官があなたの贔屓であったら、愛想を尽かして道で会っても見向きもしないであろう。真の幸せを得るなら心が正しくなくてはならぬ。わかったな」欣弥の言葉に心洗われた白糸は事実を申し立て、寅五郎に金を盗られ、上林に借金を申し込むも上林に体を要求され、抵抗の結果に殺害したと告白する。

欣弥は正当防衛でなく殺意があったものと懲役八年を求刑する。閉廷後、欣弥は獄舎の白糸と面会する。「元気ですか」、「はい」、「それはよかった。とても心配してたんだ。僕のためにこんなことになって」、「いいえ。そんなこと」、「君を検事の立場で厳正に求刑しなければならないとは」、「あたしがこんなことをしなければ、あなたをこんなに苦しめなくて済んだのに」。

検事と被告ではない、人と人の会話である。恩人を法廷で裁くような巡りあわせとなったが、これも白糸と欣弥のめぐり逢いが生じさせた。欣弥は自分の辛い思いを打ち明ける。「恩人を鞭にあてるような自分の立場がつくづく嫌になった。この事件が終わったら僕は辞職するつもりだ」。仕事とはいえ、割り切れないやるせなさが法律家に向かぬ自身を悟っていた。

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そんな欣弥に白糸はこう言い含めた。「それはいけない。そんな気の弱いことでどうします」、「わたしはあなたに裁かれて嬉しいのです」、「僕を許してくれますか」、「許すなんて」、「僕はあなたに妻になってもらいたい。母とも相談の上だ。この婚姻届に判を押してください」。といいながら用紙を出して白糸に判を押させる。この上ない喜びと悲しみが入り混じって涙する白糸。

法廷内で舌を噛み切って死ぬ白糸、後に拳銃自殺をする欣弥という原作と変わって、判決は正当防衛を認めて白糸を無罪とした。あくまでおそらくであるが、日本人的な心情として、8割方がこの結末を望むだろう。欣弥が白糸に述べた、「もし本官があなたの贔屓であったら、愛想を尽かして道で会っても見向きもしないであろう」と、これは是は是とし非を非とする男の愛の形である。

「真の幸せを得るなら心が正しくなくてはならぬ」と、これは自身の妻としてあるべく女の正しい姿を述べている。信頼に値する人間というのは、何より正直であるべきであり、人は利害でなく真実の中で生きるべきとの考えにある。都合のいい事は表に出し、悪いことは隠すではなく、善いも悪いも真実なら受け入れるべきというのは、自分の理想とする生き方でもある。

白糸の像は金沢市浅野川左岸の、「鏡花の道」にある。子どもの頃、どさ周り劇団の人気の出し物だった水芸は子ども心に本当に不思議だった。あれこそが手品(昔はマジックといわなかった)の原型であった。大人になった今、その仕掛けを知りつつも不思議さは変わらない。女性が主役の水芸は女性の凛とした美しさを醸すが、当時23歳の若尾文子の白糸の美貌は絶世の感があった。

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泉鏡花(本名は鏡太郎。1873年11月4日 - 1939年9月7日)は金沢市下新町に生まれた。尾崎紅葉に師事し、怪奇趣味と特有のロマンティシズムは近代における幻想文学の先駆者としても評価されている。代表作として『高野聖』、『婦系図』、『歌行燈』などがあるが、『滝の白糸』の原作となった『義血侠血』は、鏡花の21歳時の作品である。舞台は彼の生地金沢となっている。

白糸が南京出刃包丁の芸人寅五郎と反目し合う原因は、北陸路を旅回りをする滝の白糸一座の世話役お安に、寅五郎が一緒に興行しないかと申し出をした。「俺たちが手を組めばもっと客を集めることができる」という寅五郎に対し、「人様の力を借りたんでは、御贔屓筋に申し訳ありません」と滝の白糸は断ると、「なんだと。覚えていろよ。今に見ていろ」と寅五郎は怒る。

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滝の白糸一座は金沢行きの乗合馬車に乗り込むが、先に金沢に行って良い興行場所を目論む寅五郎は、白糸一座の馬車の車輪に出刃包丁を投げつけて、馬車を壊す。悔しがるお安は何としても白糸を寅五郎より先に金沢に着かせたい。そのとき乗合馬車の御者は、「どんな辛いことも我慢できますか?」と問い、「先に金沢に着くならどんなことも我慢します」と応える白糸だった。

御車は白糸を馬に乗せて一路金沢へ。白糸は必至で御者にしがみついていた。これが白糸と欣弥の馴れ初めである。金沢に着いた白糸は見事な水芸で観客の喝采を浴びるが、御者のことが気になっていた。「初めて会った人にこんなに気がひかれるなんて…これが初恋なのかしら」とお安に打ち明ける。ふと夕涼みに川岸を歩いた白糸は、小舟で寝そべる御者を見かける。

「あの、あたしを覚えてます?」、「どっかで見たような気もするけど」、「あたしを抱いたくせに。しっかりと馬の上で」、「ああ、そうか。月の光で見ると、前よりよっぽど綺麗だな」、「まあ嬉しい!」。白糸は御者から煙管を借りて一服する。「あなた独り者?」、「働き手のない者に嫁の来てはあるもんか」「でも、あんたは馬車会社に」、「クビになりました」。

客をほったらかして歩かせたからという。「まあ。それじゃあたしのために。で、あんた、これからは?」「馬方じゃどうせ勉強もできない。僕は法律を勉強したいんだ。母が僕の成功を待っている」、「学問ならこんな田舎より、東京のほうがいいでんしょう?どうして行かないの?」「行けないんだ。親父さえ生きていてくれたら…」。白糸は御者の事情が呑み込めた。

イメージ 3「それでは」と立ち去る御者に白糸は、「東京へおいでなさい」、「何だって」、「お金があればいいんでしょう?」、「ないからここにいるんだ」、「お金なら私が持っています」、「僕は乞食じゃないよ」、「人間に生まれて一度はためになることをしてみたい。そう思っただけ。お願い、学校出られるまで仕送りさせてください。あんたを立派な人にしたんです」。

「わからん。どうして君がそうしてくれるのか」と訝る御者に、「訳も何もありません。私の気持ちです」と白糸。「君は誰なんだ」、「名前なんかどうでも馬の上で抱いた女でいいじゃありませんか」、「そうはいかん。見も知らぬ人から情けを受けるのは嫌だ。僕は村越欣弥。君は」「水島友。またの名を滝の白糸」、「滝の白糸。そうか、君が今評判の水芸の太夫か」。

援助の申し出を計りかねていた欣弥に白糸は、「私はあなたが好きです」と打ち明ける。「ただ好きなんです」、「そうですか」、「ここに三十円あります。これですぐ東京に行ってください」、「恩に着ます」。立ち去る欣弥を見送る白糸は返し忘れた煙管を胸に抱く。それから二年。人気の外国のマジックに押されながらも滝の白糸一座はなんとか興行を続けていた。

白糸は苦しい中から欣弥に送金を続けた。「あと一年だけ我慢して」、とお安に詫びる白糸。二人は文を交わし心が通い合っていた。そんな中、富豪の上林は興行主になりたいと寅五郎に持ちかけるが、条件は滝の白糸一座と一緒になることだった。白糸は一座の窮状を救うため寅五郎一座と一緒になり、上林の資金援助を受け入れを了承する。前金三百円を貰った白糸は二百円を欣弥に送る。

欣弥の母は、欣弥が卒業して金沢に戻ってきたら息子と結婚してくれと白糸に頼む。「そんなこと言われても、欣弥さんがどう思っているか」、「いいえ。息子は自分の嫁はあなたしかないと書いています」。母は手紙を母は白糸に見せた。欣弥の手紙にこう書かれていた。「一度しか会ったことのない友さんにこれほどの愛情を感じるのが不思議ですが、想いは日々募るばかりです。

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今では友さんと結婚したい想いだけで勉強に励む毎日です。しかし友さんの気持ちはわかりません。それとなく母上から打診してくれませんか」。欣弥の手紙を胸に抱く白糸。「興行で儲けようと思ってない」。上林の目的は白糸だった。一座を東北巡業させるが寒い地方で水芸など誰も観にこない。そこで白糸はお金を求めて自分になびくという思惑だった。

客の不入りで進退窮まった一座に上林は寅五郎に命じて欣弥に送る二百円を盗ませた。困った白糸は上林の元に駆け込み借金を願う。上林は金を貸す代わりに身体を求めるが、「私は芸は売っても身は売らない」と拒み抵抗するが、勢い余って上林を刺し殺してしまう。白糸はお安に上林殺しを打ち明けるが、お安は二度と欣弥に会えなくなるからと自首を止める。

これが前半のあらすじ。1956年製作の若尾文子主演の映画はDVDにもなっていず、なかなか見る機会がない。1973年には岡田茉莉子主演でテレビドラマ化されたが、新派看板女優で人気演目『滝の白糸』も水谷八重子の年齢から望めない。最近は現代風にアレンジされた唐版に人気が集中しているが、この名作が50年近く映画・ドラマで製作されないのが腑に落ちない。

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     『滝の白糸』昭和47年の国立劇場公演。初代水谷八重子は66歳。欣弥役の吉右衛門は28歳だった

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13日にWOWOWで舞台中継『滝の白糸』があった。同作品は泉鏡花の『義血侠血』を原作とする新派劇で、映画やオペラ、テレビドラマなどに脚色されている。映画では1915年に第一作がつくられ、計6作品が製作された。今回の放送は2013年に舞台中継された唐十郎書下ろしの『唐版 滝の白糸』で、蜷川幸雄演出、大空ゆうひ、窪田正孝、平幹二朗らの出演で話題となった作品。

1975年に蜷川幸雄の演出にて初演された『唐版 滝の白糸』は、大掛かりな舞台装置を必要とすることもあって、大映・東京撮影所で行なわれた。1989年には日生劇場、2000年のシアターコクーンを経て、今回が4度目の上演となる。蜷川が死ぬ前に何としても再演したかった作品と述べていたという。その蜷川は2016年5月他界し、唐作品は初出演だった平も同年10月に他界した。

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2012年に宝塚歌劇団を退団後、女優として初舞台に立つ元宙組トップスター・大空ゆうひの主演に加えて若手の注目俳優窪田正孝も話題となる。唐版ということもあって、従来の『滝の白糸』とは内容がガラリと変わっているが、さすが唐十郎といえるほどに独自の世界をみせる。『滝の白糸』といえば新派、新派といえば水谷八重子だが、劇団新派のサイトには以下の紹介がある。

『滝の白糸』は新派劇作家の花房柳外が脚色したもので、明治28年川上一座が駒形浅草座にて初演、翌年の暮れに喜多村緑郎の白糸役が賞賛を博した。昭和になり花柳章太郎、そして初代水谷八重子へと引き継がれ新派の当り狂言となった。劇中の水芸の華やかさ、卯辰橋の見染めの場、そして大詰の法廷の場面に観客は心を打たれる。八重子の初演は昭和15年3月東宝劇場だった。

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芝居は一言でいうなら純愛ものである。水芸を出し物とする寄席芸人一座の座長滝の白糸は、偶然にも経済的な苦境から東京で法学を勉強することを諦めかけていた青年村越欣弥とめぐり逢う。白糸は欣弥に惹かれ、彼のために学費を出すパトロンとなるも、教養も身分も違う欣弥と結婚は願ってはいない。そんなことは欣弥の出世の妨げであるのを白糸は知っていた。

夏場に人気の水芸も冬場は見向きもされず、白糸は欣弥の学費の工面に苦労する。商売敵の南京出刃打の寅吉一座に刃物で脅され、欣弥に送る最後の金を奪われた白糸は、高利貸しに助けを求めるも、はずみで老夫婦を刺殺して金を奪う。現場に寅吉所有の出刃が残されていたことで寅吉は犯人と疑われた。見せ場は、晴れて検事代理として着任した欣弥と白糸が法廷での対峙場面。

寅吉は逮捕されるが、事件のことを一切知らないといい、金をとられたこともないと言い張る白糸が怪しいと供述し、自分の嫌疑を晴らそうとする。証人として出廷した白糸は金沢の法廷で欣弥と対面するのだった。白糸は法廷で3年前に浅野川の河原、卯辰橋の下で生涯を誓った或る男(実は欣弥のこと)に学費を送り続けているなどを話すが、男の名を断固秘す白糸のいじらしさ。

裁判長の尋問に白糸は、将来を約束もし、男も他人じゃないといい、手を取り合うも、「それは、あんまりお月様が綺麗だった上での浮かれた酔狂でした。だからあの時の言葉きりと思っております」という。それなら、「なぜに三百円を超える送金を続けたのかと裁判長に問われた白糸は、「ですから幾度も申し上げております。すべては私の酔狂でございます」と…。

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欣弥に真実の大切さを説かれた白糸は、凶行を自白した後に法廷内で舌を噛み切って自決し、後日欣弥も銃で彼女の後を追った。愛する男を一人前の検事にするための最後の仕送金を得るために殺人を犯した白糸は、愛した男によって至福の裁きを受け、死刑判決を受ける。彼女は愛する男に金も命も差し出すが、悔いなき僅かばかりの人生と、後を追った欣弥の心は白糸と一つであった。

被告の援助で法を学んだ検事が、その被告を裁くという不条理を運命の悪戯というのか。男女の清くも美しき関係が観客の涙を誘わずにいられない。『滝の白糸』の人気の秘密は斯くも古びた純愛であるが、『唐版 滝の白糸』には別次元の面白さがあった。映画では若尾文子が白糸役の1956年版が人気で、無罪となった白糸が欣弥と結ばれる設定も好評だった。

水芸芸人と法律家をめざす苦学生の悲恋の結末か、観客に至福感を与えるハッピーエンドか、鏡花もさすがにビックリの後者の脚色である。原作の『義血侠血』は短編であるため、映画化するに当たって創作部分の挿入は是非もないが、これほどのどんでん返しも可能となる。あまりに悲惨に終えるのは、夢を描く映画として観る側の感情が昇華されることはない。

どちらの結末も甲乙つけがたいが、いずれにせよ白糸と欣弥の人間として芯の通ったところは魅力的である。自分を守るためなら嘘もつき、見境なくべらべら喋る女にあって、「お月様があまりに綺麗だったので、つい浮かされての酔狂だったんです」などと、たばかった物言いに秘された愛情、それを「酔狂」といってのける白糸…、女の情念の美しさはこういうものか。

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幸福者には不幸も必要


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ビル・ゲイツは2013年から毎年、レディット(英語圏のwebサイト)のAMA(Ask Me Anything:何でも聞いて)に登場し、世界中の誰からの質問に応えている。最近彼は、「ビリオネアでいることはミドルクラスの人より自分を幸せにする」と応えた理由を、「医療費や大学の費用について考えずに済むからね。お金に関する心配をせずに済むことは、本当にありがたいことだ」という。

ビリオネア (billionaire) とは、1,000,000,000 =one billionで10億長者となるが、そんな日本語はないので「億万長者」。かつてはmillionaire (百万長者)といったが、それでは足りない金持ちが存在し始めたということから、billionaire という造語が生まれた。我々が子どもだったころの「百万長者」は大金持ちのことだった。西日本宝くじの一等賞金が100万円だった時代である。

こんにち、「百万長者」は自分も含めそこら中にいる。ゲイツに、「お金持ちで幸せか?」と聞いても、「不幸だ」と答えないが、彼は上記の理由を述べた後に、「もちろん、そのために10億ドルを手に入れる必要はない」とも答え、さらには、「(このサイトに) 誰もがアクセスできるよう、わたしたちは医療や教育にかかる費用がこれ以上、上がらないようにする必要がある」とも答えている。

お金はある面人を幸せにするが、巷いわれるように、お金があれば絶対幸せということはない。生活できるだけのお金でとりあえず幸せな人はいるし、生き甲斐とか人生の楽しさにウェイトをおく人も少なくない。噛み砕いていうなら、「(お金は) ないならないなりに暮らせる」というのは実感する。かつてこんな風にいわれていた。「一人口は食えなくとも二人口なら食える」。

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なかなか良い言葉である。「お金もない預金もない給与も少ないが、独りでいるより二人が経済的にも得」との意味だが、「二人は何かと幸せ」という意味も隠されている。この言葉に推されて結婚に踏み切った者も少なくなかろう。ところが、今時の独身男は、「お金がないから結婚は無理」などと腰砕けで、いろいろ聞くと今の時代はお金がかかるらしい。さらには…

「こんな安月給の男と結婚したいという女はいないですよ」などとしょげた夢もロマンもない若者。「同情するなら金をくれ」といわれそうだが、なぜに時代は若者から夢やロマンを奪ってしまったのか?「糟糠の妻」という言葉も耳にしない昨今だ。「貧しいときから連れ添って苦労をともにしてきた妻」をいうが、「お金なんかなくとも愛情があれば幸せ!」を信じて疑わない女である。

昔はこういう女が溢れていたが、昨今は少なくなった。だからか、贅沢志向や物欲の強い女、見栄っぱり女は結婚相手に考えなかった自分だ。もともと地味タイプが好みだったが、結婚を考えていた女のある言葉で気持ちが醒めたのを覚えている。「2〜3週間に一度は美容院に行きたい」といったからである。彼女は美容師だったこともあるが、それにしても贅沢である。

彼女が勤務する美容室は、麻布にあって芸能人が来店していた。それもあってか、フェイシャルや爪の手入れなどが女の楽しみという。想いが醒めた理由はいわないままに少しづつ距離をおく自分に彼女も気づいていたかも知れない。自分が結婚した1年後に、病院経営を父に持つサラリーマンとお見合い結婚をしたが、恋人は終えたが友人として続いていたので、そういう情報は知ることになる。

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結婚前には相手との種々の相談事にのったが、「子どもをお父さんに取り出してもらわなきゃいけないのかな?それはイヤだ」などの心配がユニークだった。結婚後は交流を止めたのでどうなったか知らない。何処にいるか分かっているが、会えばやはり40数年ぶりである。会いたい気持ちがない事もないが、懐かしさだけを満喫の出会いに意味はなく、会わぬがよいとの判断。

45年ぶりに逢った恋人の悔いもある。変な終わり方をしていないので逢えない状況ではないが、「あの日のことはあの日のこと」を確信する昨今だ。レディットの別のユーザーはゲイツに、「自分を幸せにしてくれるものは何か」と尋ねた。ゲイツは、「自分の子どもが元気なら、それはとても特別なことだと誰かが言っていた。1人の親として、わたしも全く同感だ」と回答している。

確かに、人間の目的の一つに子孫を残すことがある。が、それはあくまで婚姻経験者で、婚姻経験のない人や子どもに恵まれない人には別の思いがあろう。価値観を限定すべきでなく、ゲイツは自分の思いを述べたに過ぎない。イギリスの学術誌『Nature Human Behaviour』で、2018年に発表されたある最新の研究によると、人生の満足度は9万5000ドル(約1050万円)前後と試算された。

精神的な健康は6万〜7万5000ドル(約660万〜830万円)でピークに達することが分かった(これらの金額は世帯年収ではなく個人の年収である)。これを超えると人生の満足度も精神的な健康も逆に低下する傾向にあるという。これから、お金が必要以上にあっても何かと問題もあるのだろうか。具体的な人生の満足度が何に合致するのか分からぬが、超えると低下する何がしか理由があるのだろう。

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ゲイツはこんなこともいう。「もっと運動をするといった自分との約束を守ることも幸福度を上げてくれる」と、運動が常態化しない悩みが伺える。「人間には幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である」という言葉に頷かされる。幸福ばかりの人はむしろ不幸であり、「苦しみと悩みは、偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって常に必然的なもの」にも納得する。

物事を幅広く考えることで納得させられることは多いが、「納得できない」、「つまらない」、「楽しくない」、「不幸である」が口癖の人がいる。不満をいうのが気晴らしだろうし、他人からみれば愚痴であっても、本人の満足感が優先する。「運命」という口実を捨て、自分の前で起こる一切は自分が作る。すべての責任を自らが負う。これこそが真に「生きた」といえる我が人生哉。

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教養と健康の関係

表題に何をもってくるか、気まぐれで決めている。小説のタイトルに思うは、タイトルとは目的でも結果でもなく、膨大なストーリーの中から両手ですくいあげたオアシスの水のようだ。山ほど存在するタイトル候補から、すくいあげた水を最終決定とするのだろう。最近、タイトルで騙された書籍があった。加藤諦三の『自分に執着しない生き方』(1988年:大和書房)である。

中身は『かしこい生き方』(1985年:大和文庫)そのまま。『かしこい生き方』は『体当たり人生論』(1970年:読売新書)そのままだ。『自分に執着しない生き方』、『かしこい生き方』、『体当たり人生論』は同じ本である。同じ中身でタイトルバラバラなら、タイトルなんかどうでもよいことになる。『自分に執着しない生き方』に何が書かれているかと買ってはみたものの騙された恰好だ。

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『幸福論』にお金持ちになるのはどうすればよいかと書いてあるようなもの。加藤諦三の名にあやかった小賢しい手法である。加藤の新装丁書籍はすべて過去に出版されたもので、今回を機に買うのは止める。同じタイトルで新装版と明記されているのは、装丁が新しくなったと感じとれるが、タイトルを改題して中身が同じというのは、しつこく同じ本で儲けようとする汚い商法である。

加藤に罪はなく出版社の言い分は、「中身を読んで購入して欲しい」であった。こんなことでは近年のネット通販時代に対応していない。ネット通販の特定商取引には、「誇大広告などの禁止」、「前払い式通信販売の承諾などの通知」、「契約解除に伴う債務不履行の禁止」などの規制がかけられているが、タイトル改題で中身が同じという著書の法的規制はどうやらなさそうだ。

通販を開始するにあたって許認可はないので誰でもできるが、かつては詐欺取引の温床でもあった。業者もいろいろ、顧客もいろいろ、人間社会に問題の発生しないことはない。それはブログをやった人なら判ろう。狭い社会でも人のいろいろなら、ネットはその比どころではない。人の被害もあれば商品の被害もあり、中でも笑ってしまうのは健康食品による健康被害の実態。

健康食品に、医薬品に該当する成分を配合したり、医薬品と紛らわしい効能を表示したり広告などは薬事法で禁止されているが、各メーカーはギリギリのところで上手い表現方法を用いてCMなどをやっている。もっとも顕著なのがサプリメントで、この用語に行政的な定義はなく、通常の食材から菓子や飲料、医薬品と酷似した錠剤・カプセルまで多岐に渡っている。

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ビタミン、ミネラル、アミノ酸という語句は使用されるが米国ではこれらを、dietary supplementsと定義し、ヨーロッパでは、food supplementsとする。どちらも意味は、「栄養補助食品」。日本も含めてサプリメントは、「健康食品」と考えて問題ない。誰もが自身の身体の健康を重視する時代にあって、健康食品市場は拡大の一途だが、「健康にいいですよ」というCMを信じる人は多い。

何のためらいもなく購入する前に教養を発揮せねばならない。この場合は教養というより知識となるが、「健康食品で病気が治る」わけないし、「健康食品は病気の治療に使えない」という知識に加えて、「薬を一緒に使うとダメ」は重要なこと。健康食品に添加されている成分と医薬品の相互作用の組み合わせから、様々な疾患や副作用があらわれることがある。

あるサプリメントや健康食品が、本当に自分に必要かどうかをどうやって知るかは難しい。それならと安易に健康食品に飛びつく前に、本当の健康とは何かを考えてみたとき、自分の場合は過食防止と運動が身体によいと結論した。「健康に勝るものなし」というが、「歩くに勝るものなし」ともいう。血流が促進され、脳にも酸素を含んだよい血が届くことになる。

脳の衰えは人さまざまだが、せめて脳卒中や痴呆で他人に迷惑をかけたくないものだが、つまりは自分の健康=他者の心の健康となろう。脳は人間の司令塔であるから、脳が元気になることは体にもいいばかりか、ウォーキングにはそれ以外にも、景色や空気との触れ合い、道ですれ違うべっぴんさんが目を刺激し、さらには脳への刺激となって神経細胞を活性化してくれる。

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「どうすれば痩せられるか」など理屈満載本が多い。ボクサーを見ればわかろう、体重を減らすのは食べるのを減らすが理に適っている。ジョギングやウォーキングなどの運動による消費カロリーなど微々たるものだから、食事制限すれば確実に痩せられる。ところが横着で欲な現代人は、生活を変えずに魔法の言葉や方法を求める。努力しない方法を模索する。

一事が万事の時代である。理屈を記した書籍は山ほどあるが、理屈どうりに行かない。食べなきゃ痩せる実践はしないで理屈に頼るのは、食べる欲求を変えることなく、何かいい方法はないかを模索する。現代人は家事や交通その他とにかく楽をしたい。「苦痛を伴わぬ悦びはない」という教えは過去のもの。現代人は、「苦痛を伴う悦びなんか冗談じゃない」となる。

宗教も手っ取り早い幸福願望に映るのは、「入信したら幸福になりますよ」と言い含められらた信者は多い。宗教がどう人間をどのように幸福にするかを知らないが、神仏に助命嘆願を祈りて戦場に赴き、人を殺して生きて帰れば、神仏の前にて感謝の祈りを捧ぐ。なんとも穢れた行為であろうか。宗教が人間を汚すのか、それとも人間が宗教を汚しているのか?

宗教は教養か?宗教についての知識は教養であれ、信仰を教養といわない。キリスト教を止めてマルクス思想に傾倒した亀井勝一郎は、結局マルクス思想から脱した。「自分の信仰や思想の危険性について常に疑いの目を持つべき」と、遠回りながらも辿り着いた境地。信じたものの否定は自己否定と思わない。人間は過ちを犯すもの、過ちに気づくのは勇気である。

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