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音楽(classic)

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クララと生きたクララ

 
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クララ・ハスキルというピアニストの名を知ったのは娘のピアノ教師O先生に教わったからで、長女はその教室で「バイエル上下二巻」と「ブルグミュラー24の練習曲」を済ませた。「モーツァルトを聴くならハスキルを聴いてみてください。ヘブラーは普通のおばさんでしょ?」といわれた言葉は頭から離れない。当時自分はイングリット・ヘブラーのモーツァルトを聴いていた。  
 
「ヘブラーは普通のおばさん」といわれればどこが、何が普通なのか気になるし、ガッカリもした。いわれるままにハスキルのレコードを探し求めたが種類が少ない。ピアノ・ソナタは発売されておらず、求めたものは20番と24番の協奏曲だった。協奏曲ではヘブラーと聴き比べもできず、ハスキルの何が良いのか判らない。先生に良いといわれたからきっと良いのだろう的な先入観で聴いていた。
 
イメージ 8クララ・ハスキル(Clara Haskil, 1895年1月7日 - 1960年12月7日)は、ルーマニア王国 (現:ルーマニア)出身のピアニストで、古典派と初期ロマン派のレパートリーで名高く、とりわけモーツァルト作品の録音と演奏で著名。当時の最も秀でたモーツァルト弾きとの異名もとる。ほかにスカルラッティやベートーヴェン、シューマンの解釈にも卓越したものがある。(wikipedia)
 
娘のピアノ学習を契機にそれまで全く縁のなかったクラシック音楽を聴き始めた超ビギナーゆえに、誰の何の演奏が良いとか悪いとか、そんなものはさっぱりわからない。クラシックというのは大作曲家の残した作品を再現する芸術であり、同じ作曲家の作品を様々な演奏家が弾き、録音をし、レコードにしているが、「良い」とは何をいうのか?すら判らない。ビギナーというのは、とにもかくにもまず曲を知ることが先決である。
 
いくらビギナーといえ、音大卒の町のピアノ教師に「モーツァルトはハスキルがいいよ」、「ヘブラーは普通のおばさん」などといわれたら悔しいんだね。大体において自分の学習の動機はそういう悔しさで始まる。人が知っていて自分が知らないのが面白くない。それだと相手と対等に話ができない、そういう悔しさだ。ピアノ教師は音大出ているんだからしょうがないの気休めなども思わない。
 
先生は物の言い方に刺があるから余計に悔しさが増した。素人が何も分からずに買ったレコードを、「普通のおばさんでしょ?」と問われて判るはずがないだろに。それをさも自分は判ってるみたいにいわれたら悔しいよ。実際あの時は、(あなたにもそれくらいはわかるでしょ?)と責められてるような感じがした。まだそんな良い悪いなどわかるわきゃないんだって。
 
クラシック音楽にのめり込んだきっかけは、子どもがピアノをやっているからではなく、その先生の刺々しい言葉が火をつけるきっかけになったかも知れん。なんでこの女に判って、自分にはわからないんだ?ならば判って見せる!と、まあこういう経緯でクラシック熱が始まった。当時のことはブログにいろいろ書いているが、クラシックという権威の世界に埋没していった。
 
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世間知らずのO先生も悪気はないんだし、クラシック音楽が権威の象徴であり、そういう世界にいれば人の見下しなど朝飯前。が、言い方もあるだろう。とうとうブチんと切れたのは、前の記事の再現になるが、自分必死でさらったモーツァルトを「先生、一曲聴いてもらえませんか」と披露したときだった。黙って聴いてた先生、弾き終わるや否、皮肉を込めて次のようにいった。
 
「そんなモーツァルトをナオちゃん(子どもの名)前で弾かないでくださいね」
 
瞬間意味が判らなかった。まあ、自分としては注意なりの批評をもらえると思っていたが、上の言葉は予想だにしなかった。数秒の間があって意味を理解した。"あなたはそれがモーツァルトでも思ってるんですか?まあよいでしょう、ただし子どもの前では弾かないでくださいね"といっているのだ。いかに素人とはいえ、そんな言い方ってあるか?そこまでいえるものなのか?
 
これほどの侮辱はないという言葉と思った。音大卒をプロとは言わないが、比べるまもなく自分はまだピアノ歴1年にも満たないど素人だ。批評ならどんなことでも受け入れるが、弾くの止めた方がいいって言い方だからな。人間の許容量が判るというものだが、その時はまだ自分も若いし熱いし、だから相当頭にきた。「音大卒がそんなに偉いんか!」と返しても許されるだろう侮辱。
 
子どもを預けてる教師にそんなことはいえるはずもない。性分として陰でゴチャゴチャいうのは嫌いだから言葉は喉まででかかった。世の中にはいっていいことと悪いことがある。だから自分はいわなかった。それは先生にもいえること。クソマジメで世間知らずの町のピアノ教師だから、そういう言葉が出るんだろうし、彼女にはいっていいことと悪い事の判断がつかないのよ。
 
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ということで、クララ・ハスキルにまつわるエピソードでありやした。『ピアニストという蛮族がいる』の著者でピアニストの中村紘子が、「ピアニストといえばホモかユダヤ人」といってるように、確かにユダヤ人が多い。ホモかどうかは音楽雑誌に書いてないので情報収集しなければならない。クララも両親はユダヤ人である。それが原因で活動先、居住地とかに制約があった。
 
ハスキルは3人姉妹の2番目で、姉のリリーもピアノを、妹のジャンヌはバイオリンを弾いた。クララは姉の弾くピアノを聴いていただけで自然に弾けるようになった神童の逸話が残っている。伯父はクララの才能に驚き、8歳の彼女をウィーンに連れて著名な教師に託した。あれよあれよと才能を伸ばしたクララは、わずか10歳で初リサイタルをウィーンで開き、大成功を収めている。
 
その勢いで11歳でパリ音楽院を受験して合格した。当時の院長はあのガブリエル・フォーレで、彼女の才能に惚れ込んでいきなり上級クラスに編入させている。翌年はコルトーのクラスで研鑽した。コルトーはハスキルについて次の言葉を残している。「年長の学生が5時間かけて学びとるものを、彼女はわずか1時間であげるのは並々ならぬ才能の証明である」
 
イメージ 515歳にして一等賞を得てパリ音楽院を卒業したハスキルはただちに音楽活動に入った。そんな中ブゾーニが彼女を気に入り、ベルリンに呼んだが家庭の事情で実現せず、世紀の巨匠に師事できなかったことを後々まで悔やんでいる。パデレフスキーもクララの才能に驚き、アメリカ旅行に推薦してくれたが、今度は健康上の理由で実現しなかった。彼女は硬化症で数年間の療養生活を強いられる。1921年にカムバックしたクララは1924年にアメリカとカナダへ、1926にはイギリスデビューを果たす。1927年から1940年まではパリを本拠地に演奏活動をしたが、パリがドイツ軍に占領されたために南フランスからスイスへと移り、1949年にはスイス国籍を取得する。ハスキル研究家ペーター・フォイヒトヴァンガーによれば、ハスキルの真の名声は最後の10年であったという。
 
「モーツァルトの生まれ変わりのような演奏」。これがハスキルに与えられた賞賛だし、バイオリニストのグリュミオーとの共演のバイオリンソナタは当時の最大の演目だった。1960年12月1日、パリのシャンゼリゼ劇場におけるグリュミオーとの共演が彼女の最後のステージとなった。次の公演地ブリュッセルに向かったクララは、心臓発作に見舞われ12月7日早朝、息をひきとった。
 
彼女の死後1963年にハスキルを記念し「クララ・ハスキル・コンクールがスイスのレマン湖のほとり、モントルーとヴヴェイという二つの町を中心に行われる「モントルー=ヴヴェイ音楽祭」の一環として開催されている。ヴヴェイはクララが長らく住んでいた町。人はその時代にしか生きられないし、だからその時代を生きるのだが、当時はともかく65歳は今なら短命である。
 
19世紀の音楽家にはロマンチストが多い。例えばホロビッツなんかのモーツァルトは、こんなに弾いていいんか?と思えるくらい古典という香りがロマン派に押されている。ところがハスキルのモーツァルトを一言でいうなら、しっかりとソリッドのある音が根底にある。柔軟性にとみ、自由な情緒を弄んでいるように見え、情緒に流されない優美なモーツァルトが彼女の特徴である。
 
 
思索からもたらされた、考え抜かれたモーツァルトではないかと。そんな気がしてならない。音楽は右脳領域、感性の領域だが、情緒に流される音楽が最良とはならない。いつも思うのは小澤征爾の言葉。「棒振りは情緒に溺れてはいけない」は、作曲家の意図を冷静に感じ取れと言い聞かせているようだ。再現芸術とは何もつけたさず作品明示に全霊をかけることだろう。
 
クララ・ハスキルとクララ・シューマンは1年4ヶ月の短きだが同時代を生きた。表題の意味はそういうことだ。シューマンの時代もハスキルの時代も女流が目立つことはなかったが、そんな中で両クララの才媛ぶりが目立っっている。ハスキルの名づけ親は、クララ・シューマンを頭に描いていたのかもしれない。音楽に触れたハスキル三姉妹でクララだけが音楽界に名を残した。
 
日本人にもくららがいる。最近姿をみることはないが、元宝塚歌劇団出身の遙くらら。彼女は大河ドラマ『真田太平記』の好演が印象に残っている。宝塚星組・雪組トップ娘役を務めたあどけない少女顔の彼女が、髪を短く切り込んで男まさりの忍び役で登場したが、宝塚当時の活躍を知らない自分などにはそれで何ら違和感もなく、この忍び役一本で彼女のファンになった。
 
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「真田十勇士」といえば、猿飛佐助、霧隠才蔵という架空の人物が忍者、忍術として広く子どもにも大人にも愛された。彼らを束ねる真田幸村の生き方も日本人の心を揺さぶる点で人気の高い武将である。判官贔屓の源義経も人気が高いが、真田幸村と赤穂浪士の生きざまが日本人の心といえば日本人なら判る。遙くららの女忍びお江も古き時代の献身的な女性観を描いている。
 
『真田太平記』の遙くららの魅力はなんとも言葉にできない色っぽさ。ケバい顔、ど派手メーク全盛の昨今に、彼女のつぶらで愛くるしい面立ちも人気の要因だろう。主役は彼女といっていいほどの存在感を示していた。遙のお江役は彼女のファンを増やしたに違いない。クララ・シューマン、クララ・ハスキルと同様に、クララ・ハルカ(遙くらら)もあげておく。彼女の一ファンとして…
 
イメージ 3遥 くらら(1955年11月9日 - )は元宝塚歌劇団星組・雪組トップ娘役で元女優、現在は主婦。本名:山崎久美子(やまさき くみこ、山崎は旧姓)。神奈川県横浜市出身。宝塚歌劇団時代の愛称はモック(フジテレビアニメ『樫の木モック』のタイトルロールに顔立ちが似ていたからという)。当時花組トップスターであった甲にしきに憧憬し宝塚を志す。宝塚音楽学校受験当初からスターとしての華があり、面接担当者らが一目見て合格を決定したと言う。1972年、宝塚音楽学校に入学。第60期生1977年5月、『風と共に去りぬ』でスカーレット・オハラ役より娘役に転向し、鳳蘭の相手役として星組のトップ娘役に就任。1984年7月29日、再演『風と共に去りぬ』東京公演千秋楽を最後に退団する。

クララに生きた女

 
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ルソーの『エミール』に触発されたカントは、学者としての自惚れを根本からへし折られ、すべての人間を尊敬することを教えられた。批判は批判として、人の人格を尊重しないような人間はどんな人間よりも劣った恥ずべき人間であることを悟った。カントは知識の多さが人間の価値を決めるのではなく、物知りは人を恥ずべき者にすることもあると述べている。
 
だとするなら人間は何であるのか。人間の目的、人間の本質は何であるのか。に行き着く。人間の価値や「善」の問題について思索したカントは、この世の幸福を追うのではなく、その幸福を受けるに値する道徳的義務の命令(純粋理性の要求)に従うことを人間の尊さの根源とした。理性と欲求、義務と快楽、正義と愛、すべきこととしたいこと、これら二者間の葛藤に苦悩した。
 
カントに影響を与えたルソーの『エミール』は、1762年に刊行されるや否や禁書に指定され、逮捕状が出たルソーはスイスに亡命した。パリ大学神学部から断罪された理由は、第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」の内容である。カトリック教義に反する自然宗教を主張したルソーは迫害を怖れ、『エミール』を外国で出版したが、反響の大きさ故に逮捕状が発布された。
 
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クララ・シューマンについて書く前に大思想家ルソーの『エミール』に触れたのは、十八世紀以降の市民社会における女性観が『エミール』に表されており、その一文を引用するためにである。ヨーロッパにおいても男中心の社会背景は紛れもなく存在したし、女性権利拡張運動を主導する小説家ジョルジュ・サンドも、一時期男装を余儀なくされたのはそういう理由による。

しかし、男性中心社会であるが故にひときわ鮮やかに浮かび上がるのも女流の存在である。クララ・シューマン(1819年9月13日 - 1896年5月20日)はドイツのピアニスト、作曲家である。サンドが女流小説家の代名詞であるように、クララも女流音楽家の代名詞であり、サンドやクララを熱心に研究する音楽大学女子学生は一様に彼女たちの愛の行方に興味を抱いている。
 
サンドやクララを卒論のテーマに選ぶ女子音大生は、作曲家の作品と女性との関連に関心があるのだろう。いうまでもなくサンドは一時期ショパンの恋人であった。ショパンの多くの曲が彼女のインスピレーションによって作られた。クララも夫ロベルトやリスト、ブラームスの作品や動向に大きな影響を与えている。その前に『エミール』の女性に関する一文を引用する。
 
「抽象的、理論的な真理の探求、諸科学の原理、公理の探求、観念を一般化するようなことはすべて女性の領分にはない。女性が勉強することはすべて実用に結びついていなければならない。男性の発見した原理を適用することが女性の仕事であり、また男性を原理の確立に導く観察を行うのが女性の仕事である。(中略)女性にはいっそう多くの才気があり、男性にはいっそう多くの天才がある。」
 
イメージ 3保守的な女性観が当時の社会背景である。かつての日本も女に学問は無用、生活に必要な料理・裁縫を身につければよいと、田嶋陽子女史あたりから唾が飛んできそうだが、料理・裁縫の習得は女性差別なのか。「絶対領域人間」という言葉で性向を表現した人がいたが、おそらく田嶋のような人物をいうのだろう。そういう女性には社会のことをあれこれ教えるより、包容力や女性らしさを教えたほうがいいとの進言。確かに田嶋のような女性にはそちらがいいのは判るが、田嶋に何かを教えられる者がいる?三宅久之氏の硬軟混じった尽力が功を奏した部分もあるが、三宅氏は常々「私が死ぬまでには女らしく変わって欲しい」と言って憚らず、「絶対」なる人間には困ったものだ。
 
男のすることなすこと一切が憤怒の対象で、例え地の果てにたどり着いても自らの正義に一点も疑いを持たない田嶋のような女性は、幸いにしてお一人様の老後が似合うということ。そこを自覚してる彼女は明晰である。自覚というより必然の産物だろう。そういえば我が娘(三女)の守り役の妻がいうには、「あの子は結婚しない」。彼女もお一人様の老後が似合うのか?
 
田嶋はその著書で自虐的にか、「私のような結婚を拒否した女は"逃亡の奴隷"」と表現した。続いてお色気で男を支配しているかのような女の子たちは"快楽の奴隷"という。どちらも男の奴隷だといっている。結局田嶋は逃げているのかと…、結婚という形態が自分に合わないという主義・主張・信念かと思えば逃避とは意外である。何も逃げなくても男はそんなに怖い動物じゃないよ。
 
絶対者だから他人と歩調や思考を合わすのが苦痛、ストレスを感じるのだろう。娘をみてるとそんな気がする。自分が必要なときだけ他人は存在し、不要なときは一人がいいって、幼児がオモチャを気まぐれで寄せたり投げたりするような、そんな独善で他人が利用できると思ったら大間違いだ。自分が他人にどう関わるかを人は習得しなければ社会の片隅のゴミでしかない。
 
「男のパンツは洗わない」と拘る田嶋宅には洗濯機がないのだろうか?洗濯は手ではなく洗濯機がするものだろ?「結婚が、主婦でいることが"女の幸せ"などと勝手なコピーをばらまかないで欲しい。"女の幸せ"などは存在しない。"私の幸せ"があるだけ」と、卑屈な表現で他人の幸せにちょっかい出す田嶋はだから同性にも嫌われる。男中心社会にあって輝かないのが田嶋のような女。
 
イメージ 1「自分を持っている女性は、自分で自分を評価できる。自己評価できない女性は常に他者からの承認・認知を求めている」という田嶋は嘘つきババァである。彼女が周囲からお世辞をいわれた時の豹変顔を知ってる人間にはお笑いだ。意地を張って生きる人間、見栄はり人間は、それがアイデンティティだろうし、それなくして自己はない。困った自己だが、それも人の自己だ。
 
田口ランディという女性の正直な心は彼女の一文に出る。「私の心はいまでも恋するように"私という価値"を求めている。卑下することはない、誰だって"私という価値"を求めている」。田口は母性愛の充実した女性のようだ。母性愛もあり、女としての芯の強さもある。田嶋のような意地張り女の嘘っぽい強さではなく、素直で正直さを隠そうとしない強さを持った女性である。
 
『馬鹿な男ほど愛おしい』との母性愛と、男はもっとしっかりしてよと依存を排した姉ごの強さである。田嶋のように「男に依存はしない」、「されるのもイヤ」という虚言はいわず、人は誰も依存を欲し、だから依存については慎重であるべきとの本音を見せる。「1000日の国会審議より、1冊の田口ランディ」と彼女を評すコピーがあるが、彼女の素直な文章には女性らしい瑞々さがほとばしっている。
 
田嶋や田口の話はさて、今日は男性至上社会に生きたクララのことを書く予定。彼女のピアノの腕前は相当であり、それが夫の作曲意欲をかきたてた。夫を精神病で亡くし、残された7人の子を女手一人で育て上げ、よき妻、よき母のイメージが残されている。日本語で読める唯一の伝記が「真実なる女性 クララ・シューマン」(原田光子著・ダヴィット社刊)の前書きを抜粋する。
 
「芸術家としてのクララが、常に真実で、勇敢で、そして忍耐をもっていたように、女性としてのクララも常に信ずるところに真実で、勇敢で、夫を愛し、子を愛し、生活を愛して、あたかも親鳥が雛鳥をかばうように、身をもってささやかな家庭の幸福を守りました。まことにクララ・シューマンこそは芸術と家庭生活を両立さすべく、才豊かな女性に課せられた困難なし、しかし光栄ある道、ひたむきに実践した最初の女性でございました。」(以下略)
 
イメージ 2英雄を理想化した伝記は児童文学に多く見るが、大人になれば見えてくる真実もあろう。クララの伝記にも女性の理想像が描かれている箇所が多い。そんなクララについて書かれたこれまでの伝記の嘘を暴いた記事も欧州では珍しくないようで、書籍にする必要性はないだけに記事で終わっている。1982年5月15日付の「フランクフルト・アルゲマイネ・ツァイトゥンク」紙も一例だ。
「一人の天才の子どもたち」と題された記事は話題になった。これによると、1856年の夫と死別後のクララは子どもたちに極度に冷淡であったようだ。第5子ルードヴィヒは夫の生前から寄宿舎に入れられ、そのルードヴィヒが精神病院に入れられた30年間でたったの二度しか病院を訪れていない。第6子フェルディナントも寄宿舎に入れられ、その後クララと絶縁した。
 
託児所・保育施設のない時代、寄宿舎に預けるのは妥当だろう。ましてピアニストはレパートリーを広げるため、それに要する練習や勉強時間を子どもが寝静まった夜中にやるわけにもいかない。現在のような防音完備のピアノ室がある時代ではない。クララの仕事と養育は我々の想像をはるかに超えたものだったろう。それがクララの諸刃であったことは間違いない。
 
彼女の伝記を元にした映画はキャサリン・ヘップバーン主演の『愛の調べ』(1947年・米)が有名だが、2008年にドイツで制作された『クララ・シューマン 愛の協奏曲』(日本公開2009年7月25日)がある。キャサリンのクララは印象深く、夫の作品になる歌曲『献呈』をリストがピアノ用に編曲したシーンに苦言を呈する。「リストの音楽には技巧はあっても愛がないと」。曲の最後、「アベ・マリア」の繰り返しが優しく響く…
 
 
キャサリンはアカデミー賞主演女優賞を4度も取った名女優でこの記録は今なお破られていない。ノミネートも史上2位の12回(1位はメリル・ストリープの18回)でありながら公の場を嫌い、自身がノミネートされた年度の授賞式に出席したことはただの1度もない。彼女が唯一出席したのは1973年度第46回授賞式のみで、友人のローレンス・ワインガーテンに贈呈するゲストとしてである。
 
2003年6月29日、96歳の天寿を全うしたクララ・シューマンといえば誰もが夫の死後、14歳年下のブラームスとの恋愛が気になるところだが、残されているブラームスの書簡の書き出しは、「尊敬する奥様」から「最も大切な友人」と変わり、続いて「最も愛する人」、遂には、「愛するクララ」というふうに進展する。クララも人目を気にながらもこの若々しい情熱に心動かされる。

熱烈な手紙を交わすようになるも、ロベルトの死が二人を自制させ、以後は「心から愛する友」として距離を置いて付き合うようになったといわれている。二人とも、最も情熱的な時期に交わした手紙は破棄してしまっており、はたして二人が生涯プラトニック・ラブを貫いたのか、あるいはそうでないのか。後の世の研究者たちは、いまだこの音楽史最大の謎を解明できずにいる。

ブラームスの晩年の小品はクララへの愛に満ち溢れている。中でもインテルメッツォ作品118-2の美しさ、叙情性はただならぬ想いが込められている。ピアニストの多くはこの曲を舐めるように弾く。ためらいがちに一音一音鍵盤から指が離れるのを慈しむかのように。この曲はいうまでもなくクララに献げたもの。クララはこの曲の2年後に世を去り、後を追うようにブラームスも逝った。
 
 
 
ブラームスはクララの危篤の報を受け取り、取るものも取らず汽車に飛び乗ったが、間違えて各駅停車の列車に乗ったために遠回りとなり葬儀に立ち会えなかった。ボンにある夫ロベルトの墓へ埋葬される直前にやっと間に合い、閉じられた棺を垣間見ただけであったという。この曲が献呈された当時ブラームス61歳、クララ75歳であり、今でいう老いらくの恋か。
 
二人は愛し合いながら別々に居を構え、共に暮らすことはしなかった。なぜと聞かれてもすべての人はその答えを想像で描くしかない。この曲を表現の甘さでいうならポゴレリチとグールドが双璧だろうし、ポゴレリチの幾分遅めのテンポに合わせてうまく馴染ませないと、楽想を感じ取るのがやや大変かも。
 
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消え行く時間…

 
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東京から故郷に帰るときに部下のYが「是非これを聴いて下さい」といって一枚のレコードをくれた。新品だが包装紙にリボンのないレコード店の紙袋に無造作にあったのは、ジョン・コルトレーンの『バラード』という名盤だった。当時持っていたジャズレコードはデイブ・ブルーベック、ズート・シムス、ソニー・ロリンズ、ビル・エバンスなど数枚。
 
彼は仕事が終わってJBLの4343などが置いてあるジャズ喫茶で、頬杖など付いて深刻な顔でジャズに浸る男。大口径(38cm)ウーファーとミッドウーファー及びコンプレッション・ドライバーから繰り出されるJBLサウンドは豪快で躍動感が溢れ出んとする、まさにジャズ・サウンドを愛するリスナーに極めつけのスピーカーであった。
 
ジャズを聴くならJBL、クラシックはTANNOI、演歌はDIATONEというのが定番で、JBLやTANNOIのドデカ容積スピーカーは外国の広〜いお家ならいいが、襖に障子や床の間や低い天井の木造日本家屋には不似合い。似合わないだけでなく音的にデッドでどうにもならない。日本家屋ではDIATONEで三味線を聴くのが最高の贅沢かも。
 
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それはともかく、日本のスピーカーの代名詞というべくDIATONEは、1999年を最後に民生用スピーカーから撤退した。業績不振とはいえ、寝耳に水の突然の撤退はオーディオ評論家さえ驚かせた。「昔を知る者には、とても信じられない思い。なくなる前に1000ZXか2000ZXのどちらかを買おうと心に決めました。ショックで言葉もありません」(S氏)
 
「え〜つ、そ〜んなバナナ…ショックで言葉が出ない」(E氏)、「ちょっと待ってください。この2月、私はオーディオフェスタin九州に行って来たんですけどダイアトーンのブースはちゃんとありましたよ。件のDS-20000Bの試聴会もやってて,とてもマニアとは言えない私とその友人でさえびっくりするような音を聞かせてくれました」(ZZ氏)
 
などの反応がオーディオ雑誌を賑わせていた。DIATONEはスピーカーをNHKと共同開発していたことで知られるが、DIATONEの名を決定的にしたのが1958年に開発された2ウェイバスレス方式フロア型の2S-305で、当時NHKへの納入価格は1台47000円であった。1958年(昭和33年)といえば、岩戸景気と呼ばれるものが始まった年でもある。
 
イメージ 3東京タワーが完成し、日清食品からは待望のお湯を注ぐだけのチキンラーメンが発売され、2年後に1日120万食の大ヒット商品となる。価格は10年間変わらずの30円だった。フラフープが大流行し、50ccで最高時速70kmのホンダのスーパーカブ号も発売された。以下は当時の主な物価の値段。はがき5円、バス15円、ふろ代16円、理髪料金150円で、大卒の初任給1万3467円であった。
 
景気もよくなれば所得も増え、物価も上昇する。DIATONEの2S-305のNHK納入価格をみれば一目両全だ。56000円(昭和43年)、250000円(昭和54年)、350000円(昭和61年)とウナギのぼりで、受信料収入で金満NHKさんはよい商売相手だったろう。当時はプロ用モニターとして、商品1台ごとに無響室での測定データを添付するものだった。
 
その後も同方式小型2S-208や、DS-301、DS-251、DS-251MKⅡなどの名器がオーディオファンを虜にした。1992年には受注生産限定300セットでDS-20000(500000円/台)を発売、撤退一年前の1998年には限定200セットのDS-20000B(550000円/台)を最後に輝かしい「DS」の称号は終焉した。良いモノは金をかければ作れるが、時代は軽薄短小安に突入した。
 
バブル崩壊後、消費者の購買意欲が著しく低下している経済状況が、100円均一ショップや廉価衣料品が時代をリードして行くことになり、ダイソーやユニクロが安価な商品を求める当時の消費者のニーズに見事に応える結果となった。50万円のスピーカーを作っても、一部のマニア相手の限定品では薄利多売に敵いっこない。平成不況時代を「失われた10年」という。
 
「失われた10年」とは世界的用語で、ある国、あるいは地域の経済が約10年以上の長期にわたって不況と停滞に襲われた時代を指し、アメリカ文学におけるロストジェネレーションが、第一次大戦後の1920年代から1930年代から急転落の世界恐慌時代にかけて活躍した経緯から、冷笑的で厭世的な世界観を寓喩して用いられることが多い。
 
イメージ 41920年代パリに滞在していたアーネスト・ヘミングウェイに対しガートルード・スタインが投げかけた言葉(You are all a lost generation. あなたたちは皆、失われた世代なのよ。)に由来し、酒や享楽に溺れる「自堕落な世代」を意味していた。ヘミングウェイはこれを「日はまた昇る」のエピグラフに引用し広く知られるようになった。表題の「消え行く時間」とは、失われた時間のことを指すのではない。決して意義のない時間ではなく、時間の流れの中で通り過ぎていく時間のことだ。大いに意義ある時間もすべて過去になるのは仕方がない。ジョン・コルトレーンも、グレン・グールドもこの世にはいないし、「人はいつか消えてしまう」と考えると、それが定めと思いつつもいいようのない無力感に包まれることになる。
 
自分だけではなく、人間が最も怖れているのはこのことだ。親や肉親の死、友人の死、その他最愛のペットの死、楽壇、文壇その他自分を楽しませてくれた多くの周囲の人の死を乗り越えて人は生きていく。生きていくことは乗り越えることだ。ジョンと反りがあわず、ジョージを見下げていたポールも、彼らが居なくなると淋しいという。
 
そんなものかもしれない。嫌な奴も生きてるからこそで、居なくなればせいせいしたとはいっても、消え行く時間の中には淋しさも同居する。コルトレーンのライブ盤には、彼がステージに昇るときの靴の音、観客のざわめきと拍手、そして演奏が始るが、この世にいない彼の息吹が今伝わってくる。消え行く時間の中で、彼らの「その時」を、自分は手にできる。
 
コンサートを止めたグールドのモスクワ音楽院でのライブ(1957年5月12日)、ザルツブルグ音楽祭でのライブ(1959年8月25日)の歴史的録音盤を手に入れたときは圧巻だった。グールドのライブ音源があったとは…。ただしこれはブート盤で、2枚6400円の両盤も正式な版権としてソニーから発売された値段は2枚分で1000円。確かに著作権の切れたCDは安くなった。
 
饒舌家のグールドのライブは、解説付きで、それをロシア語などへの訳者付きも、いかにもグールドらしいライブといえる。グールドは自分のやる音楽の詳細を聴衆に伝えたいのだろう。それは聴衆の音楽の無知をグールドが知っているからで、ならば伝えて進ぜようという優しさに他ならない。解説を聴いて音楽が分かるものではないが、聴かないよりはとのグールドの自己満足か。
 
 
グールドの残された映像を見て思うのは、彼ほど楽曲について詳細な説明をし、思いを語る音楽家も珍しい。演奏会の舞台に袖から現れ、一礼をくれてピアノの前に無言で座り、無言で弾いて、無言で去って行く。これがクラシックコンサートの流儀であり、演者が語るときはアンコールの曲名をいう時くらいだが、それさえいわずにいきなり弾く演者が多い。
 
グールドは演奏中もひたすら声を出している。それはしゃべるというものではないが、映像記録にあるCBSスタジオ内でのバッハ「イタリア協奏曲」のレコーディング・ディレクターが、「バッハイタリアンコンチェルト、Take1、ただしボーカルなしでだ!」とミキサー室から叫ぶ。演奏中のグールドのハミング癖は録音エンジニアの悩みの種だ。
 
1982年に脳卒中によって死去したグールド、煌めく光芒を残しつつ音楽空間から逝いて本年で丁度30年の時間が経過した。彼の純粋・孤高の天才ぶりが今更ながら懐かしく蘇ってくる。グールドファンなら誰もが一聴すれば判る彼の硬質な音と、粒立ちの揃った真珠のネックレスのような均質な音もグールドの特色だろう。グールドの前にも後にもグールドは現れていない。
 
日本のある音楽大学の講師がボストンに留学中にクラスメートから、「面白いカナダのピアニスト演奏会に行こう」と誘われ、たまたま聴いたのがグールドだったという。まだ知名度もない無名のピアニストは、チャップリンのようなよれよれのズボンのステージ衣装に、脚の低い椅子に腰をかけた姿勢は、肘も手首も鍵盤よりも低く、「こんな姿勢で弾けるのか?」と思ったそうだ。
 
イメージ 5おまけにピアノの上のコップの水を楽章間に飲むという、およそ他のピアニストにはあり得ない行為をする。彼の奇行はそれをまとめただけで一冊の本になるといわれている。彼の長電話癖も特筆もので、レナード・バーンスタインとコンチェルトの打ち合わせをするのに、トロントからニューヨークに電話をし、自分の解釈を説明するためにスコアの最初から歌い始めた。延々と続けるグールドに嫌気がさしたバーンスタインが受話器をおいて中座し、再び戻って受話器をとったらグールドはまだ歌っていたという。
 
数々の奇行のなかで、グールドの最大の奇行は演奏会場から姿を消し、レコード録音のみに自らの演奏を限ったことだ。ピアニストが公衆の面前で弾かなくなるのは「隠退」とみなされるが、それでいうならグールドは若くして「隠退」ということになる。1964年3月のシカゴにおける演奏会を最後に、彼は二度と演奏会場には姿を現さなかった。
 
が、「隠退」した多くの演奏家のように忘れられるとか、過去の懐かしさが募るどころか、退いてますます有名になり、彼の演奏に期待するファンは増えるばかりであった。「コンサートは死んだ」と迷言を残したグールドだが、コンサートドロップアウト彼の言い分にこういう例がある。1957年にソ連とヨーロッパに初めて演奏旅行をしたグールド。
 
そこで取り上げたバッハのパルティータ五番だが、演奏旅行後にアメリカでそれをすぐに録音した。ところがこの録音はグールドによると、数多くのピアニストのバッハ演奏の悪い所を全部一まとめにした見本のようなものだという。バッハの音楽ではなく、大衆に合わせて仕立てられ、大衆受けを狙った演奏だとグールドは嫌悪感を抱いた。ここで犠牲にされたのは音楽の背骨と、音楽の本来的性格だという。
 
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グールドは音楽家であるが、片面思索家であり、求道者であり、哲学者でもあるのは知られている。何事も徹底せずにはいれない彼は、テープをつぎはぎし、映画の編集のように音楽を作り上げた。舞台の良さも、映画の良さもあるし、それは異質の良さである。連続する空間の流れよりも、つぎはぎのいいとこ取り演奏による音楽こそグールドの目ざすもの。
 
テクノロジーの進化を音楽に取り入れた彼は、出来の良し悪しのない均質な音楽を望んだ。それほどにコンサートは出来・不出来に左右される。レコードもコンサートと同じであるべき、コンサートもレコードと同じであるべきと、ビートルズのジョンの言葉を聞いたことがある。スタジオミュージシャン・グールドにピアニストとしての極北を見た気がする。そんな思いで自分はグールドを聴いている。

消え行く時間…

 
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ピアニストのグレン・グールドはコンサートを止めた理由をさまざまに語っている。多少の脚色や付け足しはあっても、嘘はいわない、カッコよくもいわない彼の性格だが、判りにくい表現で説明するところは思索家としてのグールドの一面でもある。アーチストがコンサートをやる理由はレコードを売るためで、コンサートにこさせるためにレコードを出すのではない。
 
コンサート・ホールで100万人を集めるのは容易でないが、レコード売り上げ100万枚はザラにある。グールド自身「私のレコードを買ってくれるファンを作るためにコンサートをやった」という。グールドがコンサートをドロップアウトした4年後、ジョン・マックルーアは、こうグールドに語りかける。「多くの音楽マネージャーたちが君をコンサートに出したくてたまらないのをボクは知っている。
 
場所は君まかせ、出演料も君の要求どおりなのになぜ断る?」に対してグールドは、「人を嬉しがらせる言葉だが、自身にとって見通しは暗い」といい、さらに、「私はコンサートを信じない。コンサートへ通う大部分の人たちも信じてないと私には思える。人々は思い出に燃え立たせるためにコンサートへ行く。そういう思い出を燃え立たせると、ある程度音楽に近づいたと思えるために、コンサートへ行きたがる。
 
もちろん、音楽に近づくことなんかなく、全くの自己欺瞞です。コンサートへ通う大部分の人たちは音楽家ではないし、音楽についてはほとんど無頓着だと私は思う。」と、これはグールドが聴衆を見下しているわけでなく、聴衆は音楽を知らないというのはある意味正しい。音楽が何かといえば多くの人は聴くものというだろうが、それは聴衆の立場であって、演奏する側にとっては演るものである。
 
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奏者も音楽を聴いている。聴くだけの聴衆もいれば聴きながら仮想演奏する聴衆もいる。聴くだけの聴衆よりは多くの体験を得ているはずだ。グールドは聴衆に音楽は判らないといったが、そこは音楽を再現する専門家としての苦労や努力があるし、演る側の視点で捉えた音楽と、感じるだけの音楽という視点の相違。クラシック音楽の芸術性は天才的作曲家の楽譜から多大なる洞察力を必要とする。
 
聴衆が無頓着であるとのグールド的表現は、演奏家が多大な頓着を要しているということ。となると演奏家は聴衆のためというより自らのために音楽を深く掘り下げていることになる。芸術体験とは、その芸術の成り立ちや奥深さが判らなくとも、とりあえず芸術体験である。視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚などの五感芸術は嗜好的要素が強いものだから、各自の好みが反映される。
 
芸術とはいえ、アーチストも商売であるからレコードが売れればいいし、コンサートに聴衆が足を運んでくれればいいわけだ。音楽の判らない聴衆にはレコードなんか買ってもらわなくてもいいとは決して思わない。自己満足で録音したものでも聴衆にはそれなりの共感はある。ただ、アーチストは聴衆なんかに音楽は判らないだろうというのは本心だろ。それだけアーチスト自身にも苦労が多いと思う。
 
イメージ 3ピカソが判らない、ベートーベンが判らないのは無理もない。グールドは、「ベートーベンが本当にどんなものであったか、バッハが本当はどんな風であったかを正確に決めることによって音楽を考えるのでなく、楽器のもっている表現手段によって音楽を考える。楽器によって私はその決定を聴衆に翻訳して聴かせることになるんですからね」と、これはおそらくバッハの音楽についてだろう。バッハ時代のクラビアと現代のピアノとではまるで表現の幅が異なる。ワンダ・ランドフスカはバッハのクラビア曲を現代のピアノで演奏すべきでないと拒んだ。グールドがバッハの「ゴルトベルク変奏曲」でピアノデビューしたとき、多くの評論家が「あれはバッハではない」と非難した。バッハのクラビア曲に一石を投じたグールドの考えは、斬新というより正しい。
 
正しいとはバッハのクラビア音楽はバッハが音楽の表現手段としてクラビアを使用しただけであって、バッハの頭の中でクラビアに限定された音楽があったわけでない。それを看破し、そこに行き着いたグールドが正しかったということ。同じようにベートーベンのピアノ曲も、ピアノという単調な音色を越え、オーケストラの様々な音色や音の厚みを意図して書かれている。
 
ショパンのようにピアノだけをイメージして曲を書いた音楽家もいるから、押しなべてショパンの音楽は当然にしてピアノスティックである。ベートーベンはシンフォニック的、モーツァルトはオペラ的といわれる。音楽を表現する手段が楽器であり、オーケストラの指揮者はオーケストラに編曲して音楽を表現するし、ピアニストグールドはピアノでバッハやベートーベンを表現する。
 
バッハやベートーベンの音楽を表現することは、バッハ、ベートーベン自身を表現するものではない。黒澤明の『七人の侍』を見て黒澤を理解できても、それは黒澤の一部分でしかない。作品と作者は別だが、作品に作者の何かは反映される。もしラフマニノフ自身がこんにちのコンクールで自作曲を演奏したらまず入賞しないだろう。ラフマニノフ自身の弾くラフマニノフが現代ではラフマニノフ的でないという事実。
 
作品が勝手に一人歩きしてしまっている。ユーミンの曲は誰が歌おうとユーミンの曲だが、真の芸術には多元的な解釈がある。何をもってラフマニノフ的といい、何をもってベートーベン的というのか。ラフマニノフの交響曲第一番についての逸話がある。作曲家としても著名だった若きラフマニノフのこの自信作を、グラズノフ指揮の初演が大失敗に終わって失意のどん底に突き落とされた。
 
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ピアノ協奏曲第2番で名声を取り戻すまでノイローゼ状態に陥っていた。グラズノフにはラフマニノフの交響曲のスコアが複雑過ぎたのだ。第一番交響曲のつづけさまに炸裂する不協和音の連続は、ラフマニノフ自身にも理解できないほどで、汗だくで必死で棒を振り続けるグラズノフは自らコントロール不能に陥った。翌朝の新聞記事も最悪の批評であった。
 
グラズノフは自身の理解不足を反省しなかった。すべてはオーケストラ団員の無神経さが初演を失敗に終わらせたもので、作品自体は決して失敗作ではないと強調し、ラフマニノフを擁護した。が、そんなことでは癒せないほどラフマニノフの受けた傷は大きく、以後4年間、1901年にピアノ協奏曲第2番を作曲、自らの手で初演するまで彼は自己の作曲能力と、世間の理解の無さに失望した。

その間数曲の私的な歌曲・合唱曲・ピアノ作品を4つまとめた程度の活動をしただけで、ラフマニノフはまた死ぬまで第1交響曲の自筆スコアを公表しなかった。詳しい経緯は知らないが、巷でいわれるように確かに1番は前衛的な作品であるらしい。天才のナイーブさが天才の天才たる所以だろう。偉大な作曲家の自らの一曲に対する思い入れは、現代のポップミュージックとは同列に扱えない。

イメージ 6大作曲家について書かれた伝記に触れ、彼らの自作に対する愛着の深さにしみじみ感じ入る。当時クラシック音楽とは芸術というより庶民の娯楽であって、現代のような多種多様な娯楽のない時代にあっては、音楽も絵画も芝居も凝縮された名作が多く排出された。子どもの出る幕など無いとはいっても、モーツァルトは5歳で交響曲を、11歳でオペラを書いたが…

それを天才という。昨今はAKBやHKTの就学学童の学芸会風の歌や踊りに魅了される人間が多く、多勢の彼女らを管理しきれず、不祥事でメンバー脱退がマスコミで大々的に報じられたりするご時世である。未成年を商売に利用してるなら、いい加減大人が責任取れよ。昨日も大量メンバー脱退についての説明がないとかファンが苦情をいうが、中学生ごときにに振り回されている我が身を省察したらどうなんだ?
 

おいおいおいおいおい・・・

Yahoo!ニュース見て 地獄に突き落とされた気分だぞ
HKT48のメンバー5人も脱退だって? ふざけるな~~~~~~~~~ っ
一体何があったんだ?

HKT48の数人が 男の部屋でお泊りして、
酒やたばこをやったという 噂が流れていた。
それって ホントの事実の現実の リアルの間違いなく確定した
不祥事なのか?

その中にゆ・・・ゆうこす(菅本裕子)がいたって?
嘘だ~~~~~~~~~ っ 、ゆうこす好きなのに~~~~~~~~~っ
ゆうこす公演終了後に、 わしを見て「わしズム」と
叫んでいたんだよ。
 
ああ、わしのこと 覚えてくれてたんだ、
いい子だなあと思って 一発で釣られていたさ。
それが わし以外の男の部屋に 行ってたの?
ぐ・・・ぐやじい やっぱり18歳で お○ぱい大きすぎるんだよなあ。
 
くっそ~~~、 もうおっ○いの大きな子は 絶対好きにならないぞ
大島優子は大きいって? だよね?
確かにそーだよね?

それも魅力の重要かつ貴重な 母性を象徴する個性と
言えなくもないと思うんだ。
 

と、これが小林よしのりという60前のおっさんのブログ記述。自分のブログに何を書くのは自由だし、これだけ正直に書けば怖いものなしの立派なおじさんだ。もともとおじさん、おばさんという存在自体が怖いもの知らずであるから、自分も「死ぬまで生きよう」ブログに何を書き、何をいわれようと怖いものナシ。であるから小林よしのりのロリコン賛歌も問題ナシのO.K。
 
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芸能界が芸能を売らない時代、学童の学芸会芸が100万枚売れる時代。クラシックのCDは5万枚売れたら大ヒット。難解な音楽よりは平易なものが好まれるのは理解できるが、クラシックに教養があり、ロックやポップスに教養がないというなら、教養とは何かと訊ねるしかない。ただし、学芸会芸の良さなどちーとも判らず、学童少女なんかに振り回されない自分であるのは事実だし。

小林よしのりは、「AKBは日本の至宝。彼女たちの良さが判らないのは日本人ではない」と戯言をいうが、ロリヲタは認めるけれども、そういうバカな発言はするなよな。ここまでいう小林は日本人の種類を知らず、価値をAKBだけに集約するただのバカ。AKB嫌い=日本人に非ずと見境なしに吠えるのも勝手だが、AKBが消滅したら小林は一体ナニ人だい?そこんとこも考えておけ。
 
人は経年とともに時間が消えていく。「10代が暴走してる」、「親が悪い」、「学校が悪い」、「社会が悪い」といわれるが、人が生きるという事はどういうことなのか?自分で考え、判断し、理解する力をつけない限り、周囲が何をいっても無駄。人はみな一人で生き、死んでいく。死があるからこそ生を大事にすべきだし、生の大切さを伝えていくのが教育ではないのか。
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こんにちのCD全盛時代、レコードはADと表記されている。CD(コンパクト・ディスク)に対抗したAD(アナログ・デスク)という訳だが、別段対抗しているのでもなく、多くの面においてCDの優位性は認められる。ノイズのないきれいで澄み切った音だが、それイコール良い音というのは違う。日本でCDが発売されたのが1982年10月1日、自分が始めて購入したCDは、グレン・グールドの「ゴルトベルク変奏曲」だった。
 
とにかく利便性という点においてCDは革新的である。カセットテープも後年、無音信号を自動感知した頭出しを可能にしたが、任意のトラック(無信号場所)まで走行する待ち時間が煩わしい。それに比べトラック内をインデックスで分割されたCDの頭出しは瞬間といっていい。ところが、グールドのゴルトベルク初期版は、51分18秒のワントラックという珍品である。
 
最初から最後まで通して聴かなければならず超不便。その理由はCD開発過程で、曲の分割・頭出しはトラック(上位)・インデックス(下位)という2段階方式で 、トラック 内をインデックスで分割している 。CD開発メーカーSONY傘下CBSは、初期には積極的にインデックスをつけたディスクを出したし、 グールドのゴルトベ ルク初期版もワントラックとはいえ、インデックスで全変奏の頭出しは可能である。
 
ところがインデックスの普及が芳しくなく 、ハードメーカーではインデックスを省略するプレーヤーが多く出 現し、 CD開発メーカーのユニバーサル( フィリップス、デッカ 、グラモフォン)が最初からインデックスに熱心でなく、連続の長 い曲をトラック分けで出すようになったことで、他社もトラック分け方式に追従したものの、便利なものは圧倒的にその便利さを追求すればいい。
 
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グールドはゴルトベルクのデジタル録音を1981年に完成させ、CDが初めて発売された1982年10月1日の3日後10月4日に亡くなった。彼の演奏家としてのデビューがこの「ゴルトベルク変奏曲」(1955年録音)であったことを思うと、この曲とグールドの深い因縁を感じる。謎の多かったグールドは、多くの文献で大方解明されたが、今後現れることもない不世出のピアニストであるのは間違いない。
 
初めて購入したCD、「ゴルトベルク変奏曲」の第一音、左右ユニゾンG音の輪郭のあるクリアーな音の余韻はいまだに残っているし、演奏中に不気味な唸り声をあげるグールド盤の特長は、分離のいいデジタル録音でより鮮明に浮きあがることとなった。エンジニアたちは演奏中歌い癖のグールドに困り果てたろうし、進言もしただろうし、それでも彼の唸り声は止む事はなかった。
 
デジタル録音がどれだけ音楽界に革新を与えたか、それはクラシック音楽のような弱音に富み、アコースティックな自然音楽器のジャンルでは効果が大きい。ロックなどの大音量出っぱなしのうるさい音楽にそれほどにメリットはない。ただし、デジタル録音だからといってもアナログ盤では、必須のスクラッチノイズが減少することはないが、そのノイズを超えたクリアな音に聞き惚れる。
 
アナログ盤はカートリッジを換えることで音の変化を楽しめる利点があった。アンプやスピーカーは早々換えられるものではないが、カートリッジ、つまり音の入り口を買えるだけで、音の出口(スピーカー)に影響する。Ortofon、Shure、Audio-Technica、Denonなどのカートリッジが懐かしい。オーディオマニアは過度特性の優れたカートリッジが、音盤のスクラッチノイズを軽減させることを知っていた。
 
イメージ 1アナログ録音の終焉から、やがてデジタル録音主流に変わるだろうCDメディアに先駆け、デジタル録音機によるADも話題になった。菅野沖彦氏といえば知る人ぞ知る録音技術の達人だが、彼は朝日ソノラマ退社後フリーの録音技師を経て、1971年オーディオラボというレコード制作会社を設立した。自分の所有する彼の手になるピアニスト宮沢明子のディスクは、アナログ録音でありながらも実に奥行きのある、ワイドレンジの素晴らしい録音である。60年代のアメリカンポップスに多重録音手法でヴォーカルに厚みや立体感を出した名プロデューサー、フィル・スペクターのクラシック版といったところだろう。 ここに二枚のレコードがある。二枚というより二セットというべきだろう。マリア・ジョア・ピリスの「モーツァルト・ピアノソナタ全集」と、ダニエル・バレンボイムの「モーツァルト・ピアノ協奏曲全集」だ。オーディオ装置に拘る「音派」という道楽は卒業したが、それでも高性能管球式アンプと、タンノイの同軸フルレンジスピーカーで、ゆったりこのレコードを聴きたいとの願望は捨てきれないでいる。
 
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思っていることと出来ることは別だが、思っていてもしないことは、「出来ない」というより、「しない」のだと思っている。思ったことを即実行する情熱、若さが廃れたのだろう。CD全盛の時代でもアナログレコードに対する評価は強く残っているし、それは懐古主義的なものではない。やはりアナログレコードは音があたたかく、それが有機的空間を醸し出すからだろう。人は有機体である。
 
ピリスは最近の表記ではピリシュとされ、マリア・ジョアン・ピリシュで統一されているが、1974年当時の表記はマリア・ジョアオ・ピリスとなっている。デンオンがデジタル録音機を開発し、それで当時無名の29歳のピリスがソナタ全集録音に抜擢された経緯の詳細を知らない。が、このレコードに初めて針を落とした時の驚き、感動は今でもハッキリ覚えている。
 
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既存ディスクでモーツァルト弾きとして、ギーゼキング、ヘブラー、クラウス、クリーンらとは違う、正統的というよりは、自由な、いかにも少年モーツァルトの作品を奏でる29歳女性の音楽は少女のようであった。コンクールのような丁寧で端正な演奏でありながら、グルダに匹敵する奔放さがある。彼女はモーツァルトを手中にしているのか、長年の間弾いて弾いて、弾きまくったような、そんな我がモノの自由さである。全集のブックレットには吉田秀和氏がピリスのモーツァルトをこう述べている。
 
「要するに、どこにも「うつろな」、ただ音をころがしているようなところがない、また、折衷的で、いろいろなスタイルが混ざって、結局、灰色になってしまったような、そういう演奏は、たとえまちがってもしまいと決意した人の姿が、私にはみえるような気がする。この人のモーツァルトは、実に生きている。生きて、動いているモーツァルトであって、仮面をかぶった、自己を殺したモーツァルトではない。」
 
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何よりもデジタル録音(PCM録音)による、音のリアルさには所有する普通のアナログレコードとはまったく異質であったこと。キーのこつこつとした雑音までもが聴こえてくるようだった。当時は音楽を楽しむというより、学習していた時期もあって、全集すべてをカセットに録音した意外は針を落とした記憶がない。持っていても仕方がないので、お宝ではあるが、オークションに出品しようかと思案中だ。
 
手放せば二度と手に出来ないが、持っていても使わないなら聴きたいファンには喜ばれるだろう。この全集はCD化もされているが、CD特有の倍音感のない冷たい音に変わっていた。一本の弦をハンマーで叩く時の、88鍵ピアノに張られた全ての弦が共振する複雑な音やダイナミズムはCDでは無理だし、優れた録音であっても、再生音楽のトランジェント特性が生よりよくなることはあり得ない。
 
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ダニエル・バレンボイムの協奏曲全集は、ECO(イギリス室内管弦楽団)を自ら弾き振りしたもので、これも針は一回落としただけ。音楽を聴いて楽しむ、音のリアル感を追求するという姿勢はなく、ピアノの学習という命題が当時の実情であった。が、今は純粋に音楽を聴いている。いるけれども、熱い聴き方は今も変わらない。
 
バレンボイムはこの協奏曲全集の後も、モーツァルト・ソナタ全集のCD化と映像化、ベートーベン・ピアノソナタ全集のCD化及び映像化、そして指揮者として交響曲に、オペラに獅子奮迅の多忙さに頭の髪の毛が日増しに薄くなっている。まあハゲと多忙は関係あるまい。彼のオヤジのキンカン頭に近づいていってるだけだろう。他にも沢山レコードはあるが、この二枚はなぜか宝物って気がするのだ。
 
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花瓶にあふれるような花もいいが、モーツァルトは一輪挿しの花瓶である。彼の音楽が心地いいのは一輪挿しの良さだろう。ベートーベンのような、いかつい厚みのある音楽は、ソナタ一曲聴くだけで疲れてしまうのは自分だけではないと思うが・・・
 

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