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インド・パンジャブ州出身(カナダ・トロント出身説あり)。フェンシングのサーベルを振りかざす姿で一世を風靡した悪役レスラーのイメージが強いが、ここぞという場面では正統派のレスリングでアントニオ猪木を破る実績を残している。身長190cm、体重120kg。

1964年にシンガポールでデビューし、その後カナダに渡ったという説があるが定かではない。インドのプロレスラーダラ・シンにあやかって「シン」を名乗っているがインドと地縁・血縁はないとも言われている。フレッド・アトキンスに正統派レスリングを徹底的に叩き込まれ、1965年にトロントでデビュー(ここからのプロフィールははっきりしている)。翌年には早くもNWA世界王者ジン・キニスキーに1度、WWWF(現WWE)世界王者ブルーノ・サンマルチノに2度挑戦している。

1973年5月に新日本プロレスに参戦するため初来日。アントニオ猪木と因縁の抗争劇を繰り広げ悪役レスラーのトップとなった。1975年3月にアントニオ猪木を破りNWFヘビー級王座を獲得。1976年7月坂口征二を破り初代アジアヘビー級王座を獲得。1977年2月には上田馬之助とタッグチームを組み、坂口征二&ストロング小林組から北米タッグ王座を獲得。

1981年7月に全日本プロレスに移籍し、再び上田馬之助とのタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組からインタータッグ王座を獲得。しかし、ほぼ同時期に新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった

タイガー・ジェット・シンは来日中の1973年11月に、当時の猪木夫人である倍賞美津子と買い物中だったアントニオ猪木を新宿伊勢丹前で白昼堂々と襲撃し警察沙汰となる事件を起こした。

アントニオ猪木は全治6か月の重症を負い警察にも通報されたことから、この事件は各方面で報道され世間でも話題になり、タイガー・ジェット・シンは本当に狂っているのではないかという印象を与えた。以後アントニオ猪木はリング上で制裁を加えると公言し、アントニオ猪木対タイガー・ジェット・シンの試合は「因縁の闘い」として世間の注目を集める事となった。

アントニオ猪木が復帰し1974年6月26日に大阪府立体育館で遂に一騎打ちが実現した。シンのサーベル攻撃や反則攻撃に怒った猪木は、シンの右腕に狙いを定めると鉄柱攻撃などで集中的に攻め続け、最後は怒りの表情でショルダー・アームブリーカーを仕掛けた。シンは思わず飛び上がり右腕をおさえて苦しみ出すとそのままリングを後にした。猪木自身は「腕を折った」と明言しているが、実際に骨折していたかどうか真偽は不明である。

サーベル、ターバン、血、口ひげ、食いしばる歯と、彼は見た目が怖かったな。ブッチャー以上に。
今思えば 新日時代の彼の試合をまともに見たことがないが、幼稚園くらいの時にはもう彼の存在は知っていた。やっぱインパクトあるレスラーは、何も知らない子供にも記憶にとどめる力を持っている。

何時も反則ばかりのイメージをもっているが、彼の出場したリーグ戦では決勝に近いところまで進出しているし、猪木以外の日本人選手には完全な負けはしていない所からみると 実力はあったんだと思った。

必殺技 コブラ・クロー ブレーン・バスター アルゼンチン・バック・ブリーカー

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アメリカ合衆国ミネソタ州プリンストン出身。身長193センチ、体重115キロ。

ノースダコタ州立大学在学時の1971年、NCAAのアマチュアレスリング選手権で優勝。卒業後プロレスラーを目指しミネアポリスでトレーニングを積み、1973年にテキサス州アマリロに転じデビュー。そこではドリー・ファンク・ジュニアのコーチのもと、ジャンボ鶴田、スタン・ハンセンとともに練習に励んだ。その縁あって1974年7月全日本プロレスに参戦。これがバックランドの初来日になる。

その後NWA圏に入り、1976年にハーリー・レイスを下しミズーリ州ヘビー級王座を獲得。

1977年WWF(現・WWE)に入団。ビンス・マクマホン・シニアは、かつてのジャック・ブリスコを髣髴とさせるアスリート・タイプのバックランドを、怪力ブルーノ・サンマルチノ時代との差別化を図る上で最上の選手と判断し、バックランドは瞬く間にWWFのトップに駆け上がる。1978年2月20日、ビリー・グラハムを破りWWF世界ヘビー級王座を獲得。

新日本プロレスにも王者として来日し、たびたび防衛戦を行っている。1979年11月30日に徳島でアントニオ猪木に敗れ一時王座を失っているが、その後猪木が初防衛戦の内容を不満として王座を返上したため、ベルトはバックランドのもとに戻った。

またWWF王座であったこの間に他の全米三大王座であった、AWA王者ニック・ボックウィンクル(1979年3月25日、トロント)、NWA王者ハーリー・レイス(1980年9月22日、ニューヨーク・1980年11月7日、セントルイス)、NWA王者リック・フレアー(1982年7月4日、アトランタ)との王座統一戦を行っている(王者はいずれも当時)。

1980年には猪木とのタッグで第1回SGタッグリーグを制覇。

WWFがビンス・マクマホン(シニアの息子)の支配下になると、全米制覇のトップに華のないバックランドは不適格と判断され、1983年12月26日、アイアン・シークに敗れ王座転落。「ニューヨークの帝王」には5年10ヶ月の間君臨した格好となった。

70年代後半から80年代前半にかけてWWFの顔といえばバックランドだった。若いのに猪木に勝たせなかったということから 強いやつなんだなーと思っていた。

タイムリーにこの人の試合を見たのは一試合だけ。それは藤波の飛龍十番勝負の第一戦の相手を務めたときの試合だ。両者ダブルフォールのかたちとなって、辛くもボブに凱歌が上がったのだが、当のボブは自分が勝った事におどろいていたのが印象的だった。

よって印象に残る試合は藤波戦ってことになる。

炎の飛龍 藤波辰巳

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大分県出身。血液型はO型。身長186cm。体重104kg。

中学卒業後地元の自動車整備工場に就職したが、アントニオ猪木にあこがれ日本プロレスに入門し、その後アントニオ猪木の新日本プロレスに旗揚げより参加。

初の海外遠征で西ドイツへ、その後アメリカに渡って、カール・ゴッチの元で修行、メキシコを転戦し、1978年、WWWF(現WWE)ジュニアヘビー級タイトルを獲得し凱旋帰国。「ドラゴンブーム」を巻き起こす。

ビルドアップされた見事な体とドラゴンロケット等の飛び技、そしてゴッチ仕込みのテクニックで、従来のプロレスファンに加え、女性やこどものファンも獲得し、猪木、坂口征二に次ぐ新日No.3の座につく。木村健悟との戦いで日本のプロレスに「ジュニアヘビー級」を確立した。

1980年代前半にヘビー級転向を果たし、長州力ら維新軍団との抗争で新日本に黄金期をもたらす。その後、長州力ら維新軍団が離脱すると、猪木と共に新日本プロレスの低迷期を支えるが、長年に渡り酷使してきた腰を悪化させ、長期離脱を余儀なくされる。

藤波は日本人選手で好きな選手だった。やはり彼のスピード感に子供心を奪われた。でも!藤波をちゃんと見るようになった頃はジュニア・ヘビー級からヘビー級への転換期の頃だったので、ジュニア時代の名勝負、チャボ・ゲレロ戦、剛竜馬戦、阿修羅原戦、カネックとの試合も見ていない。
あと藤波の必殺技ドラゴン・スープレックスをみたことがなく。色々なプロレス雑誌を見ていてもなかなか掲載されていない幻の技であった。自分が藤波を見出した時には、禁じ技となっていた。

ヘビー級になってからは長州戦、猪木戦などいろいろな名勝負があったけれど、個人的に見たかったのは
やはりジャンボ鶴田戦・・・これはみたかったな。あと試合はしているんだけれど映像でみたことがなく、今でもどういう試合展開なのかわからない謎の坂口征二戦・・・これも今でも興味がある。

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父・ウォーレン・ボックウィンクルは1930年代から1950年代まで活躍した名ヒールレスラーであり、少年時代のニックは父の巡業に同行し、バディ・ロジャースなどの今では伝説となったレスラーたちの試合を間近で見る機会に恵まれた。この経験が後のレスラー人生で大きな財産となる。

15歳のとき、ルー・テーズ相手にデビュー。陸軍やオクラホマ大学(中退)に在籍しながらプロレスを続け、28歳でフルタイムのプロレスラーとなり、ハワイ、カリフォルニアなどのアメリカ各地を転戦。ローカル・タイトルを数多く獲得している。各地を転戦していく生活はニックの希望していたことであり、のちに「プロレスラーはスーツケース一つで旅ができる仕事」と述懐している。

30代後半頃からミネソタ州ミネアポリスの団体AWAに定着。レイ・スティーブンスとのタッグでAWA世界タッグ王座を獲得した後、1975年11月18日、ミネソタ州セントポールにおいてバーン・ガニアを下し、AWA世界ヘビー級王座を獲得。以後1988年5月2日にカート・ヘニングに敗れタイトル戦線から退くまでの13年間で同王座を合計4回獲得し延べ7年以上保持、北部の帝王として君臨する。

日本にも国際プロレス、全日本プロレスへの参戦でたびたび登場。特に有名なのが1984年2月23日、蔵前国技館におけるジャンボ鶴田戦に敗れ、AWA世界ヘビー級王座を奪われた試合だろう。

1987年8月の全日本プロレスへの参戦を最後にリングを降り、WWF(現WWE)のコメンテーターなどを務めた。また、UWFインターのリングでビル・ロビンソンとエキジビションマッチを行ったこともある。

リック・フレアーと並び、バディ・ロジャースの流れを汲む「ヒール・チャンピオン」のスタイルを貫いた。劣勢になるとわざと凶器攻撃を見舞ったり、セコンドを乱入させて反則負けを選ぶことがほとんどだった(反則負けでは王座は移動しない)。伸び盛りのハルク・ホーガンを相手にしても、このやり方で寄せ付けなかった。当初AWAでトップを取ることを目指していたホーガンだったが、こういったニックのやり方に失望し、AWAを離れ、WWEへ移籍することになる。そういった意味で、「古き良き時代」と「新時代」の狭間にいたチャンピオンということができよう。

評価
非常に理詰めのレスリングをし、投げ技はほとんど使わなかった。「相手がワルツを踊れば私もワルツを踊り、ジルバを踊れば私もジルバを踊る(相手のスタイルに合わせてレスリングをする、つまり相手の持ち味を十分に引き出すのが私の役目、という意)」という言葉は、プロレスの本質を余すところなく表現した名言。ただし、これはもともとは父親ウォーレンから教えられた言葉であることを知っている人は少ない。

以上ウィキペディアより

NWA王者と二分する王者がAWA。そのAWAを象徴する人物はバーン・ガニアなんだけれど、私たちの頃はこのボックウインクルがイメージされる。

彼の試合というのは対鶴田戦しか印象がない。顔は結構ダンディーなのに「ずるい試合運び」をする人というイメージが強くて、小さい頃は大して好きではなかったな。今になって思えば、この「ずるい試合運び」というものを堪能してみたかったな。

必殺技
足四の字固め

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テキサス州ワックスハイチ出身。身長186cm、体重120kg。

父のフランキー・マードックもプロレスラーだったことから、幼少期からレスリングの英才教育を受け1965年テキサス州アマリロの「ファンク道場」に入門しプロレス入り。そのほかにもウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボールの選手として活動し、ボクシングの心得もあった。ドリー・ファンク・ジュニアとは幼なじみである。

キャリア開始直後はキラー・カール・コックスとタッグを組み、垂直落下式ブレーンバスターを伝授されている。

1968年2月に日本プロレスに参戦するため初来日。同年10月にダスティ・ローデスとタッグチーム「テキサス・アウトローズ」を結成し、全米各地区を転戦し活躍した。

1973年6月国際プロレスに参戦し、同年10月には全日本プロレスにも参戦し、ジャンボ鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。

1980年に新日本プロレスに移籍すると以降常連レスラーとなり、アントニオ猪木や藤波辰巳(現藤波辰爾)らと激闘を展開した。1984年にWWF(現WWE)入りし、同年4月17日にアドリアン・アドニスとのタッグでWWF世界タッグ王座を獲得した。

1989年にFMWに参戦し、以降1990年代の日本での活動はインディー団体を中心に転戦した。アメリカではWCWでディック・スレーターと「ハード・ライナーズ」を結成した。

晩年はテキサスのプロレス復興に取り組んでいたが、その矢先の1996年6月15日に心臓麻痺により急死。

日本プロレス・国際プロレス・全日本プロレス・新日本プロレスといった昭和のメジャー団体からFMWなどのインディー団体まで、日本の各プロレス団体を渡り歩いた数少ないプロレスラーの一人。通算来日回数は54回を数え、銀座の裏通りに行きつけの焼き鳥屋を持つほどの日本通となった。

垂直落下式ブレーンバスターやカーフ・ブランディングといった必殺技で日本のプロレス界に与えた影響は大きい。喧嘩っ早い性格である一方で、どこか抜けた所があり、ファンから愛された。ゆるめのレスリングパンツを履いていたので、場外乱闘からリングインする時にうしろから藤波にパンツをつかまれ「半ケツ状態」になるのがお約束のムーブだった。

本気になればNWA世界ヘビー級王座も夢ではないといわれ続けながら、本人はあくまでマイペースな活動を続けた。酒、特にビールをこよなく愛していた。

必殺技 ブレーン・バスター エルボー・ドロップ 子牛の焼印押し

個人的にマードックの顔といえば「歯抜け」の「ギョロ目」をイメージしてしまう。小さい頃 本で彼のことを読んだ時に挿絵に 三歳児の彼が、父、フランキーから凶器の使い方をおしえてもらっているのを見て、すごいやつだと思った記憶がある。

新日時代のファイトしか見たことがなかったなく、馬場、鶴田との試合をテレビで見てみたかったなー。彼らをブレーンバスターで投げつけたのだろうか・・。

そういえば生では彼を見たことがあるなS57年の夏に石川の産業展示館で 藤波とのシングルマッチでメインをはってたなー。そのとき子牛の焼印押しを炸裂させていた。

彼のベスト・バウトは思いだせれないが、ダスティー・ローデス、スタン・ハンセン、アドリアン・アドニスと、あ マスクド・スーパースターとコンビを組んだ時にすごく魅力的に感じたなー。

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