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高句麗の興亡
ファイル名 :H6aqLIB14M.doc
http://www.happycampus.jp/pages/data/2/D1986.html
目次
序論
本論
第一章:高句麗民族の起源
第二章:高句麗の建国
第三章:高句麗の攻守
第四章:高句麗の滅亡
結論
本文の内容一部
序論
最近、中国の文化部(日本の文部科学省相当)が中国の東北地方、主に中国の吉林省の高句麗王国の王城の遺跡を世界文化遺産として、国連の教科文組織に申請を出されたところ、認められた。ところが、それは北朝鮮や韓国の大きな反発を招かれた。北朝鮮、韓国は高句麗ガ朝鮮民族の歴史で、高句麗の遺跡も歴史も朝鮮の属すものだと主張され、高句麗王城を中国の歴史上の一部に位置づけるというのを強く批判すると。今やもう中国と北朝鮮・韓国との三国二方の政治外交の紛争となったという。
本論で、まず、高句麗を起こした高句麗民族の起源を考察し、そして、高句麗の建国の経緯を述べ、また、高句麗建国から、中国の中原王朝との戦いを回顧し、最後に高句麗の滅亡を書く。全体としては、高句麗その民族構成は確かに現在の朝鮮民族の先祖であるが、その歴史のほとんどは間違いなく中国の地で演じていたという観点を論じることにする。
本論
第一章:高句麗民族の起源
朝鮮の古代諸国としては、北の高句麗と、その南の百済と、またその東の新羅と、その南の加羅諸国と、常識に数え上げられよう。これらの国々を、種族の系統によって区別すれば、北の夫余系と、南の韓系とに別けられる。即ち、高句麗は夫余で、新羅は純なる韓系である。ここでは、高句麗民族について考察しよう。
高句麗民族は古代、現在の中国の遼東地方と朝鮮半島の西北地区の土着民族である。その生活地域の広さ、歴史の長さはその地域の国々でトップである。早くから、中国の東北地方などで活動していた。中国の古書籍「逸周古書籍・五会編」で、「北方台正東高夷」としるされる。それは、中国の早期の高句麗に対する認識である。
「三国志」により、高句麗民族は夫余族から分離された支系である。周知のように、夫余は古代中国の東北地方の少数民族である。長い歴史の発展につれて、だんだんいくつかの支系に分かれ、高句麗民族はつまりその中の一支系である。
キーワード
高句麗, 古代の朝鮮半島, 中国と高句麗, 加羅諸国, 朝鮮
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高句麗滅亡後
北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。剣牟岑など高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金に取り込まれていき、歴史から姿を消した。
一部の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。
また、遺民の一部には倭へ逃れた者もいる。例えば『続日本紀』によれば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちを移して設置したとされており。高麗神社・高麗川・日高市高麗本郷などの名にその名残を留めている。
朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。「高麗」は高句麗の時代に実際に用いられていた国号という。
2016/8/22(月) 午前 7:04 [ サイバーテロ防止 ]