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同僚が旅行に出かけたので、その間その方のペットを世話することになりました。で、家にいる間、「嫌韓流」という本(漫画です)をその方の本棚から勝手に拝借して読みました。
なんとも刺激的な漫画です。私はこの漫画で提示されている事実関係の真偽を判断するほどの知識を持ち合わせておらず、また、漫画という媒体を使った「過激」で「偏った」描写については他の方に議論をゆだねたいのですが、一点だけ不思議なことがあります。こういう風に、以前日本という国が何らかの被害を与えた国を責める人は、その国で被害にあったたくさんの人がかわいそうだとは思わないのでしょうか?
国際政治はシビアであり、何処の国もしたたかです。また、どこの国にも悪い人間はいるし、戦争という極限状態で、どこの国の人間でもやることはそれほど変わりはないのだと思います。しかし、そういったことは他国の人間からいきなり土足で踏み込まれ、被害にあった市井の人たちとは無関係なことにすぎません。そういった状況を引き起こしたほうの国には責任がありますし、国同士で決着をつけたからといって、あたかもそれがなかったかのように振舞われるのが、どれほど被害にあった人やその遺族を苦しめるかわからないのでしょうか。
個々の被害者に配慮していては、シビアな国際社会を乗り切れないということはいえるのかもしれません。しかし、それは別に国際社会のことに限らず、日本国内の社会にもいえることなのです。日本では、今死刑制度をどうするかで激しい議論がなされています。死刑賛成論を唱える人がかならず言うのは、「被害者の立場に立て」ということです。被害者の立場に立てば、死刑が必要であるというのはよくわかります。しかし、今まで私たちが歩んできた歴史を振り返ると、そもそも国家が無力な人間をどういう権利に基づいて殺せるのか、冤罪がなくならない今日において死刑制度は許されるのかなどの問題と向き合わざるを得ないことに気づきます。それらの問題の議論はまったく進まず、ただ被害者の立場に立ての一言で、反対論者を沈黙させているのが、今の死刑議論の現状ではないでしょうか。
何が言いたいかというと、国際的な犯罪と、国内の犯罪では、本質的には同じはずなのに、なぜか違う観点から議論されがちではないかということです。国内の犯罪に対しては、それが自分のことのように思えるから、その不安を除くために被害者の立場に立つのに対して、国際的な犯罪に対しては、それが外国人のことだから、自国の人間としての利益やプライドを優先しがちになっているのでは、ということです。そもそもそれが国際法上犯罪なのかという技術的な議論もあるかもしれませんが、殺人や強姦がOKという価値観は皆無なわけですから、それが処罰されないのなら、それこそ少年法と同じように立法論を議論すべきなのではないでしょうか。
国内犯罪と国際犯罪を別の視点で見ているようでは、内向きと言われても仕方がありません。国際社会に順応するということは、ある定まった価値観を持ち、国内問題も国際問題も、それを基準に議論できるということだと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。
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