YOSHIHITO DIARY

映画監督・舞台演出家 秀嶋賢人の日記

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失ったアルバム

昭和46年。沖縄返還の年だった。

新聞には新左翼の文字が躍り、テレビからは角材で武装した学生のデモ隊とそれを遮る機動隊の波のようなジュラルミン盾が映し出されていた。

熊本地裁の正面玄関から勝訴と毛筆で書き殴った紙を掲げて、水俣病被害者の会の関係者が駆け出してくる。

山田太一や倉本聰、向田邦子の連続ドラマが茶の間を占領し、木枯らし紋次郎と必殺仕置き人が高視聴率を競っていた。

ぼくはその頃、福岡市郊外の下大利という場所にある県立高校に通っていた。ぼくは、その高校で、同じ演劇部の同級生の女の子と恋をし、演劇部の部長になり、シンガーソングライターをやって地元の大学の学園祭やラジオに出演していた。

高校にフォークサークルをつくり、定期演奏会をやった。念願だった文化祭の実行委員長をやり、全学集会で制帽を廃止させ、生活指導教師の張り紙検閲を無効にし、威圧的な体育科教師の暴力を仲間と糾弾した。

沖縄返還の問題と矛盾を全生徒にアピールし、政治に無関心だった人間がある日、目覚める風景に出くわした。そして、反帝高評の連中と連帯し、ノンセクトラジカルとして黒ヘルを被り、10.21国際反戦デーのデモの中にいた。

週末はぼくの家に親友の男友だちや女友だちが面子を変えながら宿泊し、ぼくの部屋はみんなのたまり場だった。

そんなある日の、浪人を決め込んだ高校3年には暑く、長すぎる夏休みのことだった。

ぼくは父が丹念に撮った子どもの頃のアルバムをベランダのゴミ袋の中に投げ捨てた。

そのアルバムには父とぼくの二人で写っているものが特に多かったように思う。写真好きの父は、ぼくがまだ生まれたばかりの頃から息子の成長をスナップに記録して大事に保管していた。

どの家庭にもあった家族の肖像だが、その量は膨大で、ぼくが幼稚園の頃にはまだ珍しかったカラー現像の写真も数点混じっていた。

父の職業は警察官だ。

職業柄、犯罪や事故の現場、解剖の記録など写真が一般の人以上に身近なものだったのだろう。そのため、カメラ機材や現像技術に人より明るかったのだと思う。

思春期を過ぎて青春期に差し掛かる頃、わが家の押入れには昭和30年代当時、父が使っていたカメラ道具や周辺機器が、まるで古道具屋の展示品のように大切にしまってあった。そのアンテックなひとつひとつの品々を久しぶりに目にしたとき、奇妙に感動したのをいまでも覚えている。

父は、使わなくなったジュッポーやプリンスのオイルラーターやペリカンの万年筆、動かなくなった腕時計もまるで宝物のように押入れの抽斗にしまいこんでいた。

「この時代に天然色の写真は珍しかったとよ」と子どもの頃、アルバムを開く度に母に聞かされた。

ビデオなどない時代だ。8ミリフィルムは高価過ぎた。ぼくの家だけではない。あの頃、どの家庭でも人が訪れると必ずと言っていいほど、埃を被ったアルバムを開き、赤ん坊の頃の自分たちの姿や若かりし両親の姿に笑いや驚嘆の声が上がったものだ。

ぼくも姉も引越し先や転校先で友人ができると、みすぼらしい警察官舎のわが家へ彼らを招き、トランプや百人一首などに遊び飽きると父の撮ったアルバムを囲み、彼らと大笑いしていた。

そんなとき、ちょっと自慢できたのは、やはり、天然色のスナップであり、写真の量の多さだった。

当時は世の中のテンポものんびりしていた。これはぼくの推測だが、父は警察官という職業の特権で署内の現像機器をこっそり借用していたのだと思う。

ただ、そうやって父が丹念に記録した貴重な一冊を、ぼくは高校3年の夏、ゴミにしてしまった。

父と何か諍いがあったからではない。アルバムの若い父と2歳ほどの自分の姿を見ている内に、なぜかとてもいたたまれない気持ちになってそうしてしまったのだ。

そこには何枚か綴りになっているものがあった。福岡市の中心部にある赤坂門にあった木造平屋の警察官舎の前で撮ったものだ。

雨上がりの明るい日差しの下、三輪車を挟んで父とぼくが楽しそうにニコニコ笑っている。服はみすぼらしく、撮影した場所もアスファルト舗装などされていない、ぬかった道の上だ。ぼくは小さなゴム長靴を履いている。

満面に笑みをたたえた父の顔は幼いわが子と戯れることの喜び、息子への愛情にあふれている。そして、それを証明するように、写真の下に小さく父の筆で「楽しいひととき」とキャプションが打ってあった。

それを撮るために、若い父が三脚の脚を立て、セリフタイマーをセットし、息子との自然なスナップを演技していたのだ。

それを思ったとき、ぼくは衝動的にアルバムを投げ捨てていた。

それは父の愛情、あるいは母や姉など家族というものの温かさを意固地に断ち切ろうとする青春期の自意識過剰が引き起こしたものだと思う。

ゴミ袋からアルバムをみつけた父は「捨てるとか?」とだけ訊いた。

ぼくは「うん」とだけ答えた。

そして、父はそれだけ訊くとアルバムをゴミ袋に戻し、敢えてそれを取っておこうとはしなかった。

そのとき、なぜ、父が一言も咎めなかったのか。父の気持ちがどんなだったか。そのときの自分と同じ歳の息子を持ついまでも、ぼくにはわからない。

ぼくはそれからしばらくして、大学進学のために家を離れた。そして、生活の場としてそこに戻ることは2度となかった。

東京へ来てからの毎日は、どれだけ自分の家から遠くへ行けるか。どれだけ生まれ育った福岡という街から離れられるかに四苦八苦する日々だったような気がする。

郷土愛やふるさとへの郷愁がなかったわけではない。しかし、ぼくは人から「九州男児」と呼ばれるのは嫌いだったし、人前で博多弁をひけらかし、人目を惹くことも厭だった。

九州や博多という地域の特性ではなく、都市に暮らす一人の地方青年として他人と接したかったし、その中で自分の居場所を見つけ出したかったのだ。

自意識過剰が引き起こした衝動的な行動からずいぶんと時間が経った。福岡で生きた時間より東京での時間の方がはるかに長くなった。

そして、いま、不思議とあのアルバムをもう一度見てみたいという衝動に駆られている。

傍若無人な団塊世代と新人類の間に挟まれ、自己主張も十分にできず、調整役ばかりやらされてきた、ひ弱なぼくら世代が何を感じ、何を見てきたのか。自分の手でもう一度確認したいという欲求を感じている。

ぼくはそれを満たすために、1972年のあの夏、失ったアルバムを探すことからスタートすることになる。

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