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1998年12月18日発行
中央公論社
文庫本
602ぺージ(本文574p)
1429円
図書館で借りる
 
副題が 【曽祖父・長尾幸作の日記より】
 
←この本もこのような場所にバーコードがベタっと貼ってある
何と無神経なことか。
読書家は表紙を見るのも楽しみなのであるのに。。。。
 
 
1993年 第6回 和辻哲郎文化賞・一般部門受賞
 
軍艦奉行・木村摂津守の従者として咸臨丸に搭乗、
太平洋を渡った長尾幸作の航海日誌『鴻目魁耳』―。
本書は、著者の曾祖父が遺したこの一次史料を手がかりに、
福沢諭吉ら同乗者たちとの友情、勝海舟の辛苦など、渡航のドラマを克明にたどる。
 
小説『勝海舟』を書いた子母沢寛は、
 
密航者「幸作」が三日目に発見され、海に投ぜられるところを福沢諭吉がかばって助けた
筋立てにしている。
 
昭和三十年代の後半から、勝海舟を扱ったテレビ、ラジオなどで
長尾幸作は密航者として一度ならず登場した。(密航ではないのに何故なのか?)
 
其のことで血縁である著者は嘗てNHK大阪の担当者を馬場町に訪ねたことがある。
 
応接室で待つ私の前に現われた担当者が、手にしていたのがあの『幕末軍艦咸臨丸』で、
私がそのまま引き下がったのは言うまでもない。
 
 
この、『幕末軍艦咸臨丸』という本が咸臨丸に関する最も詳細で権威のあるものとされていた。
しかし、その中にはこの「鴻目魁耳」が引用されていたのだ。
 
この「鴻目魁耳」を書いた【長尾幸作】が密航者扱いとなったのはどうやら誤解があったようだが
長くなるので割愛する。
 
尾幸作(後の土居咲吾)は著者の曽祖父に当たる。
 
幸作は、当時幕臣でもなく、藩主の命で乗組んだ者でもなく、
要するに主人持ちでない気楽さから、見聞したことを比較的自由に書く事が出来た。
 
「鴻目魁耳」とは、中国の張目飛耳という熟語の連想で日本にこのような言葉はない。
 


 
咸臨丸に乗ったのは総勢日本人が100数名、アメリカ人が10名弱。

最初、勝海舟ら日本側は、咸臨丸はオール日本人でアメリカ人は載せたくなかったらしい。
だが、結果的に、もしアメリカ人を乗せなければ咸臨丸はアメリカに就く前に時化の荒波にもまれ
 海の藻屑となって消えていたのは確実だった。

それ程、日本人は外海を航海する技術や知識は無かったらしい。

その前に、「鴻目魁耳」によれば、
 
日本を出て3日目には、日本人乗組員は、船酔いで総崩れとなり、生きた心地がしなかった中で
アメリカ人は平然として冗談を言い合い、笑うながら操船をしていた。(『鴻目魁耳』)
 
 

咸臨丸が船出するまで、困難山積みで、
 提督である木村摂津守と、艦長の勝海舟の苦労は語るに尽きる。
 
咸臨丸派遣の意義は色々あったらしいが、それを理解している人は少なく
咸臨丸を無用の長物と見做し、士官たちの待遇改善に耳を貸さず、金銭的にもかなり逼迫した。

軍艦奉行の木村摂津守は家伝の財宝を処分、3千両を用意し、更に幕府に500両を借り、
 見送りもほとんどなく品川から船出した。
 
 
時季とコース選びに失敗したため、航海は、中晴れて穏やかだった日は数日しかなかった。
 
暴風の日の「鴻目魁耳」によれば、
わが同船の人員互いに狼狽し、不撓の規律をも失し、甲板に出て動作をこなすもの僅、5人のみ。

この時に当たって、帆布を縮長上下する等の事は一切に亜人(アメリカ人)の助力を受く。

彼らはこの暴風雨に逢うとも誰も一人も恐怖を抱く者なく、殆ど平常に異なる事無く諸動をなす、

之に継ぐ者我が士人にて僅に、中浜氏、小野氏、浜口氏3人のみ、その他は皆恐臞し、

殆ど食料を用うる事能わざるに至る。

しかるに、後年の福沢諭吉は「福翁自伝」の中で、勝海舟は談話のなかで

いづれも同乗のアメリカ人の助けは借りずに日本人だけで太平洋を横断した。
 
艦長である勝海舟などは航海中、病に伏し殆ど船室でふせっていたというのが実状だった。
 
ブルックの帆船船長としてのキャリアと統率力、中浜万次郎の語学能力と船乗りとしての力量、
 
腕の良い水夫の5人。 これのどれを欠いても咸臨丸の成功は無かった。
 


 
サンフランシスコではサムライに対する好奇心と通商条約によって開かれる、
 
日本及び東洋諸国との貿易発展に強い期待を持つ市民によって
咸臨丸一行は連日歓迎攻めに会い、新聞は日々その動静を細かく報道した。
 
 
思わぬ厚遇を受けた摂津守はよく一行をまとめ、トラブルを防ぎ

歓迎攻めに、その外交センスと人柄で丁寧に応じ広く人々の敬愛を集めた。
 
 
それにより士官たちは何処でも何でも見せてもらえ造船についての見聞は有益だった。
 
この間においての中浜万次郎の通訳が非常に力になった。
 
 
帰りには天候にも恵まれ、日本人だけの手でホノルルを経由し無事浦賀に入った。
 
往きの事もあるので、「念のため」同乗したアメリカ水兵5人は暇を持て余した。
 
 
日本寄港後、幕府は、その成功を歓迎するわけでもなく、
持ち帰った海外の情報をさっそく活用しようと待つ人は無く、
それどころか攘夷熱は勢いを増し、大老暗殺後の情勢は混乱し、咸臨丸の成功に冷淡であった。
 
 
 
摂津守は帰国後軍艦奉行を務め海軍の国際的に通じる新制度を作ることに努め
 
日本海軍の骨格を作り上げることに貢献した。

慶応4年頭取を務める海軍所が官軍に接収される前、に職を辞し家督も長男に譲って隠居、
 
再び世には出なかった。
 
 
 
勝海舟は明治に入り積極的に咸臨丸の人々を新政府の海軍に入れた。
 
咸臨丸の乗員だったものは、それぞれの人がそれぞれの持ち場でそれなりの働きをして
                                             次代の人につないだ。
 
 
大宅壮一は、【炎は流れる】Ⅱの中で
 
「かりに咸臨丸が日本人乗組員だけで運航し沈没し、勝海舟や福沢諭吉が
  船と運命を共にしていたならば、幕末史と明治文化史も、かなりちがったものに
 なっていたであろう。」 。。。。  とで書いている。
 
明治以降隠居し「芥舟」と号し、痛い歴史の表面から姿を消した「木村摂津守」。
 
明治以降一見大した仕事もしないで、伯爵、枢密顧問官の栄爵を受けた「勝海舟」。
 
教育界、言論界において歴史に残る仕事をしながら、一平民を貫いた「福沢諭吉」。
 
福沢は、勝は終生相容れなかったが、木村には終生恩人として尽くした。
 
木村と勝は長崎以来43年その交際は絶えなかった。
 
 
著者の祖祖父であり、「鴻目魁耳」の著者「長尾幸作」にとって、木村は最も尊敬する主人であり
福沢は航海中ずっと兄事した仲である。
 
木村摂津守のことは、サンフランシスコに上陸したとき、ブレッティン紙が
                                  「頭のてっぺんからつま先まで貴人」と評した。
 
ドナルド・キーン氏は著書の中で
「200年余にも上る鎖国の後にも、木村のような日本人が存在しえた事実
 すなわち、外国の土地で、外国人に交じって、日本人としての自己を失わずに易々と、
 しかも相手に感銘を与えながらふるまう事の出来た日本人・・・・」と書いている。
 
 
勝海舟に関しては
数学が非常に弱いこと、船にも弱いことで海軍軍人はしょせん無理だった。
木村摂津守は勝の立場は分かるものの、たびたび困惑させられた後々に側近に、語っている。
 
 
福沢諭吉はアメリカ行きを木村摂津守に頼んだ。(福沢諭吉は大阪堂島の中津藩蔵屋敷に生まれ)
その前年の安政5年、築地の中津藩主の屋敷の小屋で後の慶応義塾の発端となる蘭学塾を
開いていた。
遇々横浜の街に出て、外商の看板を見て横文字が読めなかったことから、
これは英語ができなければダメだと思うようになった。
 
福沢は木村摂津守とは一面識もなかった。つてを頼って「木村さんのお供をしてアメリカに行きたいが
紹介してはくださるまいか」と懇願し、今でいう紹介状のようなものを持って木村のところへ行き
その趣旨を述べたところ、即刻「よろしい連れて行こう」ということになった。
 
これは驚き!!!福沢は運が良かった。
 
後に木村摂津は
咸臨丸の乗組員は船酔いで役に立たぬものばかりであったがその中で独り福沢飲み、平然とし
私の介抱をし、熱心に働いた。
いよいよ日本に帰るときは、忙しくとても土産などは買えないと諦めていたが
福沢が気を利かし、それぞれ相応なもの購入してくれたので帰朝の後、面目を施した。
 
サンフランシスコに着いた後の福沢は好奇心の塊でできる限りあちこちに出かけ見聞を広めている
 
 
 
 
このほか色々な逸話てんこ盛りで、かなり分厚い本だが最後まで面白く読んだ。。
 

              ----- 目次 -----
 
 序章    曽祖父の日記──幕末軍艦咸臨丸──
第一章  咸臨丸出航まで──軍艦奉行たち──
          別船仕立の建議
          別船仕立の実現
          ブルック大尉一行の乗船
第二章 太平洋横断の航海──鴻目魁耳──
      品川、横浜、浦賀
          冬の北太平洋へ
          ブルックと万次郎の友情
          一路サンフランシスコへ
第三章  アメリカ滞在と帰航──初めての日本人たち──
          サンフランシスコ上陸
          メア・アイランドの日々
          再びサンフランシスコにて
          帰航
第四章 咸臨丸の人々──福沢諭吉の手紙──
         
佐々倉桐太郎   中浜万次郎
          浜口興右衛門   小永井五八郎
          鈴藤勇次郎    岡田井蔵
          小野友五郎    根津欽次郎と小杉雅之進
          伴鉄太郎     赤松大三郎
          松岡磐吉     牧山修卿と木村宋俊
          肥田浜五郎    秀島藤之助
          山本金次郎    大橋栄次と齋藤留蔵
          吉岡勇平     木村と勝・福沢
第五章 長尾幸作の一生──亜行記録──
          生い立ちと勉学
          上海密行
          尾道の人土
終章   サンフランシスコ再訪
      ―― 水夫たちの墓 ――
あとがきにかえて
参考文献
文庫版へのあとがき
 

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