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神戸発、オムニバス
趣味のブログですので、掲載内容で関係機関・各社様へのお問い合わせはご遠慮下さい。車庫・施設内の写真は許可を得て撮影しています。
 旧ブログの焼き直しなので、比較的ペースよくこのシリーズをお届けできています。毎度ながら殆どバスの写真羅列ですが… 。 
 さて、阪神と言えばご存知の通り阪神間で全通が一番最後でした。'68年竣工の西灘〜石屋川間の高架が一瞬で崩壊するも、御影〜住吉間の戦前に作られた高架がほぼびくともせずに残っていたのはやはり先人の知恵と申しますか、兎に角頑丈に作っていたからかも知れませんが、それはそれで凄い!の一言に尽きます。先ずは三宮周辺のカットから…。
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 当初、三宮便の頃は結構貸切事業者が見られました。一番上から帝産(神戸)、名阪近鉄、国際興業(神戸)や名古屋阪神観光です。他にも大阪緑風(大阪はとバス)なども活躍していました。名古屋阪神観光はその名の通り阪神グループですので、いち早く応援に駆けつけていたと思います。また当時の在籍車のウチ、通勤輸送に向かないと思われる「シアター」以外はほぼ全車登場していたと思います。ドライバーさんは1週間単位の交代で神戸で勤務されていたとか…。この名古屋阪神は本家阪神電鉄から'78年頃に分社しています。社番設定は以前は本家と通しでしたが、分社化以後は本家には存在していない700番台(中型)と800番台(大型)を使用しています。(但しマイクロバスのみ500番台)画像は824号'88年式、P−RU638CBです。この名古屋阪神も残念ながら既に当時のクリスタル観光に身売りして消滅しています(現在は東京バスグループの名古屋バスでしたか?)。

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 こちら西灘の代替バスのりばです。この当時、阪神電鉄バスもモノコック車の終焉が近づいていましたが、震災代替バス需要で延命車も何台かおりました。
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 これら最後のモノコック車はいずれも'83年式で上から335号、328号(いずれもK−RC301)と下のいすゞは141号(K−CJM520)です。延命車のウチ数台は「なにわナンバー」から'95年6月に「神戸ナンバー」に変更され、年式には似合わない新しいナンバーを付けて頑張っていました。また代替バスの旧型いすゞはこれ1両しか見た記憶がありませんでした。元々阪神バスはこの当時、神戸地区にいすゞはほぼやってこなかったので珍しかったです。これらは代替バス終了後、同年秋に廃車されました。(328、141の撮影地は阪神御影付近)
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 こちらは、身辺が落ち着いてきた頃の私のいつもの撮影地となっていた阪神御影駅最寄りの「弓場線」にて、です。上が国際興業(神戸:'93年式、LV7系)です。国際興業は神戸では貸切バスとタクシー事業で路線バスはありませんでした。同社のタクシーは現在黒一色ですが、三宮の車庫には140系コロナで同社のかつてのカラーリングである小豆色/アイボリーのタクシー上がりの社用車も見られました(写真は高速有鉛誌No61、高速有鉛営業所頁に掲載)。また現在では貸切事業は神戸から撤退しており、神戸ナンバー車では見ることが出来ません。下は岡山の両備バスですが大阪ナンバー車です。この項の2台とも「直」表示が出ていますので、ノンストップ便ですね。イメージ 10
 これは国道2号線から右折して、弓場線を南下する阪神路線車348号('86年式、P−HT235BA)と名古屋阪神818号('86年式、P−RU638BB)です。348号背後のビルは被災しています。
 
◎そして忘れちゃいけない連絡バス! 
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 最後は阪急−阪神連絡バスです。同じ「御影駅」を名乗りながら山手の阪急と浜手の阪神は結構距離が離れており、この二駅を縦のラインで結ぶ「連絡バス」も走っていました。阪急側/阪神側双方出していたと思います。正面窓に「連」表示がありますね。また概ね貸切タイプが入っていたように思います。画像は帝産(神戸)で'91年式のU−MS729Sです。
 

 次回のこのシリーズは神戸電鉄/神戸新交通などを予定しています。また旧ブログ時代にアルプス銀水タクシー様より山陽電鉄代替バス関連の画像もお預かりしています。再掲までもう暫くお待ち下さい。 

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 今回は阪急電車編です。やはり当時の系列である阪急バス、阪急観光、大阪空港交通等が活躍していました。もし、今みたいに阪急・阪神グループだったとすると、阪神系バスも出してお互いやりあっていたかも知れないですね。

 さてそんな余談はさておき、実は実は…代替輸送初期の頃はあまり撮影しておらず、比較的落ち着いた頃の「西宮北口−阪急御影」代替バスの写真が殆どになりますが、以下ご覧下さい。 

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 三宮代替バスのりば。テントの「阪急ブレーブ(ス)」の文字が目立ちます。まだ持っていたのですね。停まっている車は阪急観光バス87−2123('87年式、P-MS725S)です。'93年に神戸ナンバーに変更されています。イメージ 2
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JRバスと併走する阪急バス84−1920('84年式、P-MS725S)です。この車の当時の本来の用途は芦屋学院の送迎用車でした。芦屋学園送迎も近年は白ナンバーの学校所属車になっていますね。それにしてもバックに写るJR系軍団の凄さには圧倒されました。後方に阪神代替バスが小さく写っています。イメージ 3
 国道の臨時専用レーンを三宮へ向かう、大阪空港交通のエアロ。大阪ナンバーのため、詳しく調べておらず年式・型式不詳ですが、P−MS726S辺りでしょうか?方向幕は普段見る機会の少ない空港交通が表示されていました。後ろの日交も阪急代替車だったと思います。
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 三宮を西宮方面へ向かう、阪急代替の日本交通(大阪)。P−MS725Sでしょう。それにしても、三宮で見る阪急代替バスは観光バスが殆どだったように記憶しています。イメージ 5

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 こちらは西宮北口側のりば。どちらも'95年6月撮影。下はのりばに近接して設置されていたバス駐機場。この頃はご覧のように78MCのオンパレードに近い状態でした。当時代替の進んでいた、古参車を集めて予備車大量投入、という背景があるかも知れません。但し、少ないながらも58MCも投入されていいました。 
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 …というように当時最古参グループとなっていた'82年式や'83年式で収容力のある長尺車が大量に活躍しており、殆どは大阪ナンバーのままでした。型式は調べていませんが、この当時の阪急バスの長尺標準であるK−MP118Nでしょうか。方向幕が過渡期なのか、白地と黒地の両方が見られますね。上から82−1775、82−1764、82−1805、83−1811です。
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 最後は同じく'82年式のMP、82−1748です。これは代替バスではなく、代替事務所?のようでした。神戸の新開地交差点から南へ下る道路沿いの公園が一時期避難場所となっており、何故かそこに鎮座。方向幕窓に「被災者センター」というような文字が書かれた紙が貼られていました。中は色々な生活用具などが満載、ここにおられた方々の暮らしを支えていたようです。この車、結構長い間ここに鎮座していましたが、いつの間にか消えていました。その後バスとして復活したのかそのまま廃車になったのか微妙な年式でした。

 
 次回は阪神電車編を予定しています。
 

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このシリーズ、2回目からは鉄道代替バスを取り上げてみます。とは言え、毎度ながら撮影した車を並べているだけではありますが、暫くお付き合いの程…。    
 今回はJR線の代替バスです。分割民営化されたとはいえ、さすがグループです。近隣のJR中国バスが目立ちましたが、赤い九州のバスも来ていた、と思います。今回、写真が中国車の一部しか見あたらず、ひとまずそれの写真から…。イメージ 1

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上は国鉄カラーを色濃く残す534−9906号、下は被災したそごう前を行く新塗装の534−6956号です。どちらもエアロスターMですが、下の6956号はMP618Mとメモしていました。上の9906号もMクラスだとは思いますが、メモを取れていない車は今となっては詳細不明です。さすがJRだけに「鉄道代行」幕が活きていますね。イメージ 3
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 続いて神姫バス。神姫バスはJR代替で一番よく見掛けた会社で、様々な大型バスで対応していました。この3枚は三宮周辺です。
 上は特高車の3436号('88年式、P-MS725SA)で反対車線には神姫路線車の他、名古屋阪神観光、国際興業観光、隣には京阪バスの姿も見え、沢山の会社が応援に来ていました。
 真ん中は被災した神戸市役所を遠目に三宮交差点を行く、5658号('91年式、U-HU2MLA)です。

 下は国道2号線生田川辺りで、震災臨時専用レーンを行く2573号。('79年式、K-MP11M)この2573号は代替バス使用後、同年6月頃廃車になっており、最後の活躍中の姿でもあります。

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 続いてJR住吉駅にほど近い東灘区内の様子。
 上は4763号('82年式、K-RC381)です。神姫は昔から日野路線車は短尺車で導入されており、当時の神戸市バス日野車と同じ型式です。
 次は5761号('92年式、U-HT2MLA)を先頭に団子運転で国道を西進する日野HT軍団。こうして見てみると、代替バスは日野路線車が目立ちますが単に私が神戸市内、それも市街地を走る神姫の日野車が珍しかったゆえ、カメラを余計に向けていただけかも知れません。

 神姫の最後は名物、パノラマワンマン2611号!('80年式、MS513RA改)さすがにこの頃はパノラマも廃車が進み、数を減らしています。尚パノラマはこの'80年式が最後です。この車も先の2573号と同じ頃に廃車されており、最後の活躍だったようです。

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 震災代替バスは路線タイプだけでなく、ご覧のように近隣貸切バスも総動員されています。勿論、市内観光需要も当面無いに等しかったと思いますが…。
 上は姫路観光の'91年式、U-MS726S、下が帝産観光の'92年式、U-MS729Sです。この帝産のように事業者によってはスーパーハイデッカーも見られ、利用者としては代替バス利用は不便ながらもこういったバスに当たった際は「今日は良い車に当たった!」等という声もありました。
 
 次回は阪急電鉄代替バスを予定しています。

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 毎年この時期は震災関連のニュースが話題になりますが、あの阪神・淡路大震災からもう20年を越えています。既にお子様を持つ親御さんでも震災を知らない世代が…という時代になってきましたね。今回は1・17に因み、当時の私の僅かな記録ですが、旧ブログを改訂して通常の話題の間に挿入しながら、数回に分けてお届けしたいと思います。尚、当時、被災物件にはとてもカメラを向ける気になれず基本撮影しておりませんが、今回僅かながら撮っていた写真も併せて掲載、また乗物写真でも被写体の背景に写っているものもありますので、ご了承下さい。
 
当時、私の居住地域は幸い大きな被害もなかったのですが、廻りには大変な思いをされた親戚・知人・友人が何人もおられますので、私が震災体験を語るのは正直気が引けるのですが、当日は以下のような出来事でした…。
 
 …揺れが収まって少し明るくなってから、周囲の焦げ臭い臭いや街の方で見えるいくつもの黒い煙や飛んでくる灰で大変なことが起こっている!と感じ、市街地に住む友人へ電話をしましたが全然繋がらない…。心配になってそのまま所在を確かめに行きました。勿論電車も止まっていたので、車で…でしたが既に停電により信号機も消えており、あちこちの交叉点は凄い状態で諦めて引き返し、原付バイクで赴きました。目指す家までの間に見た光景は…いつも知っている家々やお店が潰れ、燃えて…と言う状況で、まともに視界に入りませんでした。
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  この写真は記憶では後日の撮影で、全壊に近い山陽電車の板宿駅です。当時、この写真を撮るだけで精一杯でした。またこの後、復旧することなく、地下化新路線での開通となっています。
 その後何とか辿り着いたモノの、友人宅は全壊で人の気はありませんでした。周囲を探し回って、近所の公園に避難していた処を見つけ、無事を確認してから、一旦自宅に戻りましたが電気が開通してからのテレビ映像を見て愕然としました。あちらこちらの凄まじい映像の中から、勤務先の施設が壊滅状態で映っており、「会社潰れた…。この先どうなる…?」と思ったのは私だけでは無かったと思います。
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 こちらは廃墟と化した街中をパトロールする兵庫県警のΣパトカー。公共機関にお勤めの方は大変だったことは想像出来ますが、とりわけ警察/消防/医療関係が機能しているのが確認出来た時は心強く思えたものです。
 更に全国の警察/消防からも応援が来ていて、三宮で見た「警 視 庁」パトカーは強く印象に残っています。この辺りの写真もまた整理が出来ればお届けしたいと思います。
 当時、先ずは生きるための生活、仕事が最優先で趣味なんぞやっているヒマも無く、それよりも気が滅入って、趣味関係は暫く何も手つかずでした」という方は私だけでは無かったでしょう…。
 しかし、少しずつ…少しずつですが、やっぱり何か残しておかなければ…と思い始め、いつもの倍以上掛かる通勤時間の途中や身辺が比較的落ち着いた頃からカメラで撮影をしはじめました。
 
 前置きが長くなりましたが、今回はその中から鉄道関連の写真です。上記のような状態から「取り敢えずいつもと異なる行先を撮っておいた」的カットが殆どと言うのと、各社の動き詳細も記録できぬまま今に至る訳でその辺りを詳しくお知りになりたい方は、関連書籍、または当時の鉄道雑誌をお探し頂ければ…と思います。更に撮影日詳細のメモも殆ど取っておらず、正直「記録」と言う割にはお粗末な出来です。また通勤経路の関係上、対象が限られておりますがその点お含み頂ければ幸いです。

JR(神戸線西地区)
 六甲道駅が大きく被災し周辺もかなりの被害が出て、同駅近くの親戚宅も全壊しました…。JR線の震災時の暫くしてからの運行形態は西からは「灘」、東からは「住吉」で折り返していました。私は当時JRで東方面へは全く足を伸ばしていませんので、西方の様子しか撮影していませんのでご了承を。 
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 鷹取駅入駅中の201系普通神戸行き。この駅は上りは操車場を挟んで一番山側に仮ホームが設置されていました。操車場にはバラの車両などが取り敢えず線路上に並べられていた感じでした。JRは通勤ではあまり利用していませんので、あとは別に赴いた以下のカットくらいです。
 以下の撮影はいずれも'95年3月、須磨〜塩屋間にて。イメージ 4
207系灘行き普通。先頭はクモハ207−1004。イメージ 5
201系12連による下り快速。この当時、上りはこの編成を普通として運用、折り返しは一部ホーム長の関係で快速運用としていたそうです。
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113系による灘行き快速。当然この当時はこの系列も沢山走っていました。大目玉が懐かしいです。先頭はクハ111−5138。
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また快速では115系も一部混じっていました。私の居住エリアや行動範囲では通常115系はお目に掛かれないので、この頃115系は珍しく映ったモノです。先頭はクハ115-6113。
 この後、4月中には一足早くJRが開通、私鉄利用者を一挙に…という事象になりました。
 
◇阪急電車(神戸本線)
 こちらも西宮北口以西に被害が集中し、西方からは当初御影(みかげ)までだったと思います。また三宮付近で取り残された車両が地上に降ろされた様子も偶然撮影出来ました。
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行先表示は折り返し表示ながら、実際の運転区間のものを作製し、表示していました。
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こちらは夙川(しゅくがわ)行き。既に全線開通予定日のヘッドマーク付き。この辺りのPRは阪急らしいと感じます。8001号他の編成でこれは'95年6月撮影。
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 こちらが通りがかりに遭遇した、車両回送準備作業。兎に角白昼に電車が道路上に佇む姿には驚きました。
 
◇阪神電車(本線)
 阪神間で一番被害が大きかったと思われる阪神。阪神は西側は当初岩屋、後に西灘仮駅まで。東側は当初青木(おおぎ)、後に御影までとなりましたが、西灘〜御影間の崩壊が激しく、工期が長くなりました。また全線開通も一番遅く、6月下旬でした。
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 西側は取り残された2編成の青胴と山陽電車が担当していました。また行先方向幕も「岩屋」「西灘」は無いため、わざわざ非方向幕車用の差し替え式行先看板を新調しています。東側でも「青木」は無いため、方向幕は「御影」を表示し、紙で「青木」を補足、後に簡易看板(円板)シール式で「梅田-青木」と表示していました。
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更に西側は全線開通の数日前、赤胴に変わりました。これは線路が開通し、試運転が可能になって以後、今までの青胴を整備するために交換されたモノです。よって方向幕は「普通」で青胴が使用していた差し替え式行先表示看板を使用しています。因みに神戸高速線は大開(だいかい)駅が崩壊していたため、山陽方面からは西代(にしだい)まで、東からは新開地(しんかいち)まででした。
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阪神でも石屋川車庫などで被災した車両を運び出し、白昼道路上に電車を留置しておりました。実際の運搬は昼間だったのか、深夜だったのかは阪急も含めて私は知り得ていません。
 
◇山陽電車(本線)
 山陽電車は当初神戸市側に被害が集中し、徐々に延伸復旧しましたが、板宿(いたやど)-西代間は地下工事中だった同区間の工事完成により6月中に開通となりました。しかし神戸高速線を介しての乗り入れは前述通りその先の大開駅復旧を待たねばなりませんでした。
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 どちらも西代行きを表示した普通車。上の初代アルミカーは先頃ついに引退してしまいました。下の2300系も過去の車両になってしまいましたが、晩年は新塗装を纏い、最晩年は3561型に改造されて、3000系列の中間車になっています。どちらも'95年6月。上は姫路、下は明石にて。
 
◇神戸市営地下鉄(西神線)
 こちらも地下部分の構造物被災が大きく、当初は西神側からは板宿まで、その先は市バス臨時系統を利用せよ!という案内だったと思います。その後徐々に復旧するにつれて延伸していますが、被害の大きい駅は通過扱いでした。
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 方向幕に「板宿」が無いので(通常折り返す便は無いので、設備も無い)紙かアクリルボードに「板宿」を印刷、表示していました。列車は板宿到着後旅客扱いを終了、折り返し設備のある次の新長田まで回送していたと思います。
 
 ざっとですが、拙い記憶と僅かな写真を基に述べてきました。何分当時のことゆえに誤り、思い違いなどあるかも知れませんので、お気づきの点は適宜フォローして頂ければ幸いです。
 次回のこのシリーズは代替バスを予定しています。

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戦前から阪神(電鉄)バスの整備を行っていた整備棟が浜田車庫の新築工事の進捗に伴い、最後まで残っていた西半分の建物と共に遂に取り壊されることになり、取り壊し前の調査に、縁あって同席させて頂けることになりました。私も昔から何度も撮影でお邪魔させて頂いた馴染みある建物が無くなる、ということで取材させて頂いた次第です。
 同時に昔の写真や秘蔵写真も併せてご覧下さい。只、当時は車両写真中心でしたので、所謂建物が主体となったアングルではありませんが、その点はお含み頂きご了承頂けましたら幸いです。上画像は1986年1月の車庫入り口から中を眺めた様子で、広大な駐車スペースを挟んで左のネットフェンスの辺りが旧阪神国道線跡に設置されたタイガース練習場にもなっていた浜田球場、右にチラッと写るのが整備棟端。

○整備棟
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上の画像の右側の現在の様子。画面右側のバスが入る整備棟が今回の主要取材対象物件です。
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今では近代的な車両が入る棟内部は昭和の工場そのもので、天井の無数の鉄骨もいい雰囲気を醸し出しています。壁際上部に伸びる大きなレール形状のモノはクレーン用のレールでエンジンなど重量物を移動させる為に設置されています。
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整備に必要な機器・器具・工具類や当時モノの整備手順系看板。懐かしい型式が並びます。この手の整備棟ではこういったパターンが多く、他社に於いても「いつまでも昭和50年代…」という景色を何度か経験しています。
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そしてタイムスリップしてしまう表記類。上の大阪万博ステッカーは当時モノでしょうね。私は殆ど記憶にありませんが、連れていってもらった写真が残っているので一応行った様です(笑)。
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こちら先の整備棟で東側に張り出した建物の南側の様子。大昔はここからバスも出せた模様ですね。
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再び整備棟を外から見てみましょう。サラダの2台が停まっている部分をアップしてみたのが下の写真。
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バス上方の赤で印した「6」の看板にご注目を…。
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こちらとあるところに眠っていた、1963(昭和38)年以降に撮影された写真からです。当時の看板車日野2-386号、旧RC系−金沢車体です。日野の300番台は今も変わっていません。「2-」は所属車庫を示し、1=大阪(野田)、2=尼崎(浜田)、3=西宮、4=神戸でした。この所属表記も1980年代中頃までには表記しなくなっています。当時の特徴である、腰板部の鱗模様がよく分かります。また当時は路線・観光問わず施していたようですが、晩年は観光車のみの施工でした。さて、その386号の左上、同じく赤で印した場所に同じ「6」の看板があります。つまり当時からそのままなんですね!これを発見したときはちょっと嬉しくなりました。
 当日ご一緒させて頂いた方とお話ししていたのですが、時代と共にバスも大型化してきて、整備棟の長さが足りなくなり屋根を延長したので近づかないと隠れて見えなくなってしまったのでしょうね。
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こちらも整備棟に収まる119号1979(昭和54)年式、BU15型です。右側の「禁煙」看板にご注目。
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こちら先の秘蔵写真と同じ車が整備棟内に収まる様子。右の赤印に「禁煙」看板があります。設置している向きは違いますが同じモノと推測します。
 今回ご紹介した旧い写真は縁あってコレクションになっているモノですが、この企画に伴い今回掲載許可を頂いています。また他にも貴重な一連の写真もあるのですが、いずれ何かの機会に発表出来ればと考えております。
 取り急ぎ今回はこの辺で…。次回は「2」を予定しています。

※阪神バスでは現在通常安全上の理由から敷地内立ち入り禁止ですが、今回冒頭の理由により特別に同行させて頂き、内容のアップに際しても掲載許可を頂いたモノですので、同社にお問い合わせなどはご遠慮下さい。過去の私が撮影している写真はまだバスファンが少なく、ご厚意で立ち入り許可を頂き撮影させて頂いたモノですので読者の皆様のご理解をお願い致します。

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