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(上)よりつづく
三島由紀夫、本名平岡公威(ひらおか きみたけ)氏は幼少の頃、格式のある家で祖母に薫陶をうけていつも傍で生活し、腕白の子供たちと元気に遊ぶ事も無く、祖母の枕もとで、古事記や日本書記など子供用の古典を読んで育ったと氏自身が何かに書いていました。
子供の頃に古典を読んだことが後の文学の表現に役立ち、若くして始めた文学に天才的表現を齎したようです。 学習院初等科のころから、勉強は良く出来たが体が弱く、学友たちからいつも青びょうたんと呼ばれていたそうです。
1942年学習院中等科を席次2番で卒業。1944年(昭和19年、敗戦の前年)19才、高等科を首席で卒業し、恩賜の時計を拝領する。
卒業と同時に、東京帝国大学法学部に入学し、同年5月に徴兵検査を受けで第二乙種に合格する。
この頃、戦争も南方戦線で負け戦さとなり、戦況は日増しに緊迫して大学生も学徒動員で戦場に出て、特攻隊員として国の為に戦って戦死する事が「男子の本懐」として当たり前のことと考えるようになり、若者はすすんで志願兵として戦争に行くようになります。
三島氏の同級生の多くは特別幹部候補生として志願して行ったが、三島氏は虚弱な体格ゆえに志願をしなかった。
志願しても、不合格は目に見えていたので惨めな思いをしたくなかったのだろう。
13才中学生の私でも教師から、来年14才(かぞえ年)になったら少年兵になれるから皆んな少年兵に志願しろ、ときつく申し渡される状況でした。
私の同級生の何人かは、翌年の五月に少年志願兵として、汽車の駅頭で国の為に命を捧げて戦ってきますと、見送りの大人たちに立派に挨拶をして出征しました。
戦時総動員体制は老若男女を問わず小学生に至るまで動ける人は総て勤労動員で軍需工場や町工場や農作業で、日曜休日もなく一生懸命国の為に銃後の社会の為に働きました。
三島氏は昭和20年2月赤紙召集令状で入隊することになります。
ようやく、自分も軍人とし国家の為に尽くす時がやって来た。
先輩、後輩や同世代が軍人として華々しく活躍をしている脇で、肩身の狭い思いで見ていた一種の屈辱感から開放される時が来たと、喜びに心が弾んだようです。
入隊の前夜、男子の本懐である心情を「遺書」にしたため、勇躍、父上と共に汽車に乗り入隊検査場に向かいます。
心晴ればれ待望の入隊でしたが、不幸にも入隊直前の身体検査で不合格を宣告されます。
即日帰郷する。(手記より)
この時の三島氏の心情は如何ばかりであったでしょうか。
国の存亡を懸けたの非常時に日本男子として国家の為に役に立たない、必要のない人間だと宣告されたも同然です。
五才年下である私でも当時を振り帰って考えてみると、三島氏の苦渋に満ちた絶望的な悔しさは身に沁みて判るように想います。
学生時代を優秀な成績で何時もトップを走り、早くから始めた文学の世界でも、天才的な才能を認められ、知的世界で大秀才として不動の将来を約束されていた青年が、その身体的存在を否定されたのであります。
其の年の8月には敗戦を迎えます。全国民が今まで命を掛けて頑張って来た努力も、栄光も、悲しみも、喜びも総て終わりました。
昨日までの空襲爆撃の恐怖もなくなり、体の力がいっぺんに抜けてしまったものです。
国民はこれからどうなるのか全く分からない状態でしばらくは茫然と気力をなくしておりました。
三島氏は戦争が終って、悔しい思いをした兵役も無くなり、ほっとした気持ちになったのではないだろうか?。 東京帝国大学へ通いながら、次々に新しい小説を発表します。
(下)につづく
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