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(中)よりつづく
昭和22年東京帝国大学法学部を卒業。大蔵省事務官に任官するも23年には文学の創作に専念する為に大蔵省を依願退職。
昭和19年[花さかの森」で文壇にデビュー、24年に長編「仮面の告白」を出版し高い評価を得て作家の位置を確立する。
以後は毎年のように作品を発表、ベストセラーを始め話題作を次々世に問い、各種文学賞を受賞する。
映画化作品も数多く文壇の寵児となる。
一方、入隊検査で不合格となった、虚弱な肉体を鍛える為にボディビル、ボクシング、剣道、空手を始め逞しい肉体作りに励むようになる。
自衛隊に体験入隊をしたり、大学生を集め私兵的集団の「盾の会」を結成して自衛隊に集団体験入隊して話題を呼ぶ。
戯曲を書き、舞台の演出、映画監督、俳優としても出演。監督をして作った映画「憂国」では軍服姿で割腹シーンを自ら演じる。
時折報道で見られるボディビルで鍛えた肉体は、筋肉隆々の肉体美になっていました。
左翼学生運動が荒れ狂っていた時期、誰もが尻込みしてやりたがらなかった、東大全共闘の学生と東大で討論を行なう。
ノーベル文学賞候補に何度かノミネートされるも受賞することはなかった。
最後の文学作品「豊饒の海」脱稿の同日、11月25日、陸上自衛隊東部方面総監部に乱入し、自衛隊員に檄を飛ばしたあと総監室で「盾の会」隊員森田必勝の介錯で割腹自決する。
終戦後、三島由紀夫氏の活躍は多方面に亙り、将に文武両道を絵に画いたような古武士を想わせる人物になっていました。
三島氏が此れほどまでに努力して身体を改造したのは、若き日に受けた日本男子不合格の屈辱が常に胸中にあって、「!今に見ておれ、俺だて!」、立派に国の為に役立ち死ぬ事ができる人間になって見せるぞ!。と云う想いが常にあったのではないかと私は想像します。
あの徴兵入隊検査不合格の屈辱の日から25年間。彼の脳裏から一時も忘れられる事はなかった!。
だから、自分の知的な能力を最大限に伸ばし、自己の優秀さを証明。
身体的にも人並み以上に頑健になった肉体を誇示する行動に出る。
三島由紀夫氏はこうして日本男子として知性も身体も完璧に完成した自分を世間に顕示した。
あとは、一命を捨てて国に殉ずる勇気ある姿を見せる事で彼の人生は完結するのだった!。
自衛隊での決起呼び掛けは失敗したが、そのことは彼にとってはどうでもよかった。自分の最後を実行する場所を国家的な舞台(自衛隊)にしたかったのだと想う。
幼少の頃から才能に恵まれ、常にトップの存在を自他共に認めていた彼でした。
その男子が学友たちが志願兵として軍人になって、国の為に華々しく死んで行く姿を横目で見ながら、俺は志願兵にはならなかったが、徴兵で入隊し、日本男子として立派に国の為に尽くすんだと心に誓っていたのではないかと思います。
当時の日本の男子であれば誰でもそのように考えるのが普通でした。
昭和19年当時13才であった私どもに教師からお前達も、全員少年兵に志願せよと厳しく云われたものです。
学問よりも、一命を以って国の難事に殉ずることが男子の名誉であった当時の世相の中で、日本男子としてこの非常時に、お前は何んの役にも立たない屑の人間だと云われたに等しく彼が感じても不思議ではありません。
才能で常にトップであつた人間が一日にして生ける屍のような最低の男に突き落とされた悔しさは、三島氏の人生を大きく変えてしまったと思います。
人間誰でも自尊心、名誉を強烈に傷付けられた場合、そのまま生き続けることは困難なことです、傷づいた精神を修復しなければ個人の精神的自立は出来なくなります。特に大人になる前の純真な少年には深い心の傷となります。
三島由紀夫氏は「名誉」の復活の為に非常な努力を重ね名実ともに偉丈夫の日本男子となり、「武士の作法」に従ってって「男子の名誉」を遺し、
平岡公威の存在を証明して逝ったものと考えます。
戦後、もしも日本に軍隊があって、外国のどこかで戦争をすることがあったら、彼は真っ先に志願して戦場に行ったでことでありましょう。
自衛隊を舞台にしたこのような事件を起こすことはなかったと思います。
(写真、毎日新聞より) (完)
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おじゃまします
三島由紀夫の割腹自決についての考察、興味深く拝読させて頂きました。
駿河湾上空を悠々と北に向かうB29の編隊を睨み「今に見ていろ!」と悔しがった軍国少年の頃を想い出します。
40年の年月は平岡公威の行動も風化、<化石>になって仕舞ったようですね!
2010/11/27(土) 午後 5:25
ご訪問ありがとうございました。
11月25日を迎える毎に想い出します。私の勝手な想いかも知れませんが忘れる事はできません。
2010/11/27(土) 午後 7:08 [ harumi123 ]