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何が痛快かと言えば、それは誰もがダメだと思われる中あれよあれよとうまくやりきってしまうことである。成功の大きさはさほど問題にならない。むしろ成功は庶民的な方が好ましいくらい。つまり結果よりもプロセスじゃないかしら。実際結果が大きいほど満足度が高いというのはわたしの実感と乖離する。栄達しても別に幸せではない。
美味いものを食べると幸せだろうか? まあ不味いものは食べたくないけど、美味ければ美味いほど幸せなはずはないよね。金があればあるだけ幸せでないのと同じだ。わたしが食べているものは幸せのメーターを振り切るには十分な気がする。カミさんの手料理はどんな一流料亭の料理よりわたしには満足度が高い。
わたしが何を言いたいのかというと、相場で稼ぎたいとただ思って漠然と稼げば稼ぐほど良いだろうと決めつけるなということである。間尺に合う自分なりの快適な暮らし向きは何か落ち着いて考えてみる価値はある。そのしたい暮らし向きの分だけ稼げばよいではないか? 分を超えるとかえって災いが来るかもしれないし、そのしたい暮らし向きもほどほどにしとけと言う気はする。
間違いないのは稼げば稼ぐほど幸せではないということ。金があればあるほど幸せか?美味いものを食えば食うほど幸せか?答えが明確なら相場も同じ。相場で稼げば稼ぐほど幸せなはずはない。もし稼ぎすぎたから浪費するのなら、それは美味いのを食い切れず残すか吐くようなものだと、わたしは思う。己をの分を知るということである。ただその分とは世俗的なヒエラルヒーとは無関係である。自身内面の人間力と言っていいかもしれない。
どう思うかはその人次第である。わたしの言い草を聴いて十分贅沢すぎると思う人もいるだろう。それくらいわたしはけっこうな暮らしをしている。一方金があるならもっと使えと思う人もいるかもしれない。そういう人は自分で使えばよろしい。人はどうでもよいことである。
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コメント(1)
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前の話の続きなんだけど、自分自身として痛快に生きればよいわけで他人の視線に阿る(読めますか?)必要はまったくないのだけど、ただそれでも結果として自分が格好いいなと思う程度に共感してくれる人間がいるからこそ痛快という言葉が引き立つという面はある。これはわたしの幸福論と同じ構造である。良いものなら共感する人間もそれなりにいるはずだと言うこと。
その意味でわたしが社会的な地位とかあるいは収入とか捨ててしまったというのは、わたしは自分ではすっとできたけど、できない人間が圧倒的に多いことは知っていて、そのぶん余計に自分では真似できんでしょって気分はあるしそれで共感を呼んでいることは事実そう言われるから自覚している。
会社を54歳で辞めたけど、今でも聞かれるのは早期退職ですか? 早期退職ならいろいろ割増もつくんだけど、わたしの場合はただ辞めますと言って辞めただけ。何の割増もない。まさしく自己都合退職。投資だってずいぶんと潔く辞めてしまった。やればまだまだ稼げそう? それはわからないけどいらない金を頑張って稼ごうとするのはわたしのスタイルじゃない。あまり強欲でないというのはこれは自分も人も頷ける格好よさにつながると思う。
わたしの場合、獲得するより捨てるほうにわたしらしさが出ているって気はする。稼ぐ方はまあ適当に稼いでおけばそれで良い。このブログを読んで真似したいという人間がほとんどいなのは知っているけど、でも参考になるって読んでいる人はけっこういるらしくて、それで稼ぐ方は明日やろうと思ってもできないだろうけど、捨てる方は明日にでもできるんだから真似してみようなんて人間いないのかね?
ハルトモは稼いだからなんとでも言えるんだって言われるかもしれないけど、そこはちと違う。わたしは若い頃2度も相続放棄している。揉めればいくらかもらえたけど自分で稼ぐつもりだったから要らないと放棄した。会社での昇進を放棄したこともある。得るよりむしろ捨てるほうが先にくるくらいだと思う。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれですよ。まあ実際は捨てないんだけど。潜るだけである。
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わたしが高校生の頃クイーンが流行って好きだった人間もけっこういたけど、わたしはそんな好きじゃなかった。わたしはいろいろ聴いたけど、ジョンデンバーとかCCRとか、カントリー系が好きだった。それとやはりビートルズかな。もちろんクイーンを聴いて懐かしいなとは思う。
そんで遅ればせながらitunesにボヘミアンラプソディーが上がったので家でレンタルをしてステレオで音を大きめにして聴いた。感想はと言うとさてどうなんだろう? クイーンファンはあれで納得がいくのかしら? 映画を見終えてそれでYOUTUBEで映画で再現されていたLIVE AIDのクイーンの本物を見たけど、いやーよかったね。映画よりずっと素晴らしい。そんで映画がピアノの上の紙コップとかまでおんなじでディテールまでコピーしたんだと知ってむしろ興ざめしてしまった。
YOUTUBEをそのまま見ていたらエリッククラプトンのレイラとか、あるいはレッドツェッペリンの天国への階段とか、いや懐かしいなと思って1時間くらい聴いていた。これから見る人は映画本体が135分だけどかならずyoutubeを見たくなるので、180分はかかると心得て観たほうがいいかも。
映画のラストに流れる曲はドントストップミーナウであった。わたしはこの曲はカラオケで昔よく歌ったので一緒に歌ったのは楽しかった。カラオケはずいぶんと行ってないな。
ボヘミアンラプソディーと前後して万引き家族も見たけど、まあまあということろであった。カンヌ映画祭で一番高い賞をもらったというけどどうかなって思う。まあカンヌ映画祭は日本びいきのところがあるからね。わたしはカンヌ映画祭と言うと、ミッションが一番記憶に残っている。映画というのは映像美と音楽なしでは小説を凌駕できないとわたしは思っていてその意味では最高の映画の一つだと思う。
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カミさん手作りのナンプラー丼。暑い季節にはピッタリである。カミさんが作る料理をアップするだけでもわたしの幸福度が伝わるんじゃないかしら?いくら社会で栄達を極めてもあるいはいくら金を稼いでもそれだけでは別世界の人ということで羨ましがられることはない。むしろ妬みを買う場合が多い。わたしは実感としては妬みを買っている気がしない。わたしの生い立ちや若い頃を知っている古い友達はたいてい今のわたしを凄いなと賞賛してそして祝福してくれる。
大学を出て就職した最初の会社の人たちからは今でも連絡があるし一緒に飲むこともある。古い体質の会社でわたしのようには生きられないけど、でもどこかスカッとするなと思わせる部分がわたしの生き方にあると言ってくれた人もいる。自分にはできないけど自分の分までハルトモ頑張れとそんな調子である。我ながらなかなかいんじゃないかしら。
もちろんわたしに反感を持つ人間もたくさんいたと思う。特にわたしの行動を己の意に沿うように制御しようとした人間は悉く失望と怒りを感じただろう。ハルトモは制御不能である。わたしはそういう輩とは交渉はしない。脅しにもビクともしないし甘言にも乗らない。達観と言ってよいのか、人生はひたすら生きてそして最後死ぬだけである。墓場に持っていけるのは思い出しかない。であるなら後悔するような真似などすべきじゃない。かと言ってみじめに朽ち果てるのは論外である。カッカと笑いながら痛快に生きる。だからこそ他人からみてもスカッと感じるのかもしれない。
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那須のホームコースで二日連続夫婦でラウンド、池とバンカーが多いコースでかみさんは大叩きが出てしまい二日間とも100ちょっと。わたしは84、82とまあまあで最後のハーフでようやく30台が出た。最近は80台の前半が一番多いスコアである。
那須はステーキと蕎麦が知られるグルメだけどイタリアンもなかなかである。
乗馬クラブでのアルバイトは辞めることにした。理由はふたつ、競走馬の預託に特化して乗馬をやらない方向となったこと、さらに少ないとはいえ給料をまともに払わないということ。この二つである。残念と言えば残念ではあるが、これでは行く意味がない。
乗馬クラブの社長と最後に話したのは傑作だった。社長と言っても30歳の若者。ただ中卒で厩務員から叩き上げ15年の男で、多少いい加減な点はあっても根性はあるのかなと推測はしていたが話したことはなかった。わたしがLINEのグループトークに給料まともに払えと書いたら、その社長から電話があって、そして言われた。自分はちゃんと給料を渡している、と。
つまり社長が社員にわたしの給料を預けて、それで社員がたぶん金がないかで滞っているのだが、悪いのは部下の社員で自分は悪くないと社長は言いたいわけだ。まあこういう手合いと話す意味はないので、なるほどと言って早々に電話を終えた。多少のいい加減さではなく筋金入りのいい加減さということか。もっともわたしが辞めるのとは別に関係ない話ではある。社長の人格でアルバイト先を決めるわけではない。
最近はもっぱら乗馬は控えていた。乗馬撤退で乗馬の馬はほっぽらかしで調教もしていないし運動もさせていないのでいきなり乗ると危ないからである。ただわたしが辞めることを聞いて、関係する人間からまた乗馬のイベントなどあったら声をかけるからよろしくとのことであった。
生活に多少の変化と書いたが、そんなには変わらない。臨機応変楽しく暮らせばそれで良いことである。
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