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感謝の気持ち

なににつけての感謝の気持ちを持ちなさいとはよく言われる事だけど、では感謝の気持ちとはどういう状態に達すれば感謝していると言えるのだろうか?

わたしが児童養護施設で働いた経験で言えることは、感謝というのは足りるを知るということである。もっともっとと思っているうちは感謝の気持ちは本物ではないとわたしは感じるに至った。

もちろん本物の感謝の気持ちが簡単に得られるとはいかずに、そこで足りないという気持ちとありがたいという気持ちがせめぎ合うのが世俗の常で、そこはなんというかまあ修行中ということである。

まだもっとと思っている気持ちが少しでもあるなら間違っても自分の感謝の気持ちが本物だと過信しないことだ。わたしは感謝してます、なんて胸を張るとか、あるいは人様にどうこうと講釈を垂れる時点でどうも怪しい。

だいたい感謝の気持ちを持てなどと人様に教えようなんてその時点で傲慢である。とわたしは思うのだけど。

児童養護施設その後

自分のトレックのクロスバイクはメンテナンスに出しているが、気候が涼しげであるのでシティサイクルのマークローザで渋谷まで呼吸法の稽古に出かけてみた。なんだかんだで往復50キロを超えるが運動だと思えばどうということはない。なにせカロリーだけで走っていくんだから大変なエコだ。わたしのマークローザはけっこう手が入っているのでぱっとみたらどこの自転車かわからない。軽量化して14キロになっているのでそこそこ走る。今日は道すがら池袋の自転車屋でドリンクホルダーも装着した。シティサイクルにはアダプターを介さないと着かないので着けている人は滅多にいない。わりと格好いいね。

児童養護施設を辞めてもう3ヶ月になるのだが、かつての同僚とか子どもからわりと連絡が来る。わたしが辞めた時期を境に雰囲気がだいぶ変わってしまったという声が多い。これはわたしの影響力という話ではなくて、わたしが勘がいいから雰囲気が悪くなる前に去ったというのが正解なんだろう。

わたしも長いことサラリーマンをしていたので施設長の考えていることはわかる。彼はまだ50代半ばで子どもが小さい。確か小学生だ。たぶん家のローンも払っている。別に施設のオーナーではないので辞めたら無収入だからなんとしても70歳くらいまでは施設で働き続けないと困るんじゃないかと思う。そういう視点で考えるとどういう施設運営が望ましいか? 管理を強めて問題を起こさないようにし、上位機関である児童相談所の覚えもめでたくして自分の政権を盤石のものとしたい。できれば現場で完結してまったく問題が起きないようして欲しい。ハルトモみたいな人間でもない限り誰でもそう考えるだろう。

施設長がどう考えているか? 実のところはわたしは知らない。だがこのように考えると彼の言動がすべて説明がつくからそうじゃないかと推測せざるを得ない。そもそも子どもをどう扱ったら良いか? 別に正解はないのである。どのような扱いをしてもネガとポジがあるし、管理側に都合良く運営しても子供たちのためだと、いくらでも言い立てることはできる。基本的に児童養護施設はわたしがいた50年前とさほど体質は変わっていない。管理する側つまり大人の都合でどうにでもされるのである。ただ表看板は子供たちのためにと、、これは政治と同じだ。国民のためにと、異口同音に政治家が叫ぶのと変わらない。人のためにと言う人間は基本的に眉唾であると思ったほうが良いのがこの世の中だろう。

そういう施設で育った子供たちが可愛そうだと思うのはこれはまた必要ない同情だとも言える。どんなに施設の環境が改善されようが施設にいるということ自体が普通ではないのである。子供たちにとっては試練である。施設にいて幸せなんてとうてい思えないのである。だからその試練を生かすような心構えを持てと、それに尽きる。納得のいかないことが多いのは当たり前である。そこで自分はどうするか?自分で考えろ。それがわたしのメッセージであった。

自宅まであと10キロだが、交通量も多くてさすがに疲れた。オープンカフェになっているマックがあったのでそこでコーヒータイム。マックというのは私は別に嫌いじゃないが、客層が悪いというかわたしにあわないので避けている。とくに夏休みはあかん。だがここはわりと落ち着いた雰囲気だ。100円でしばし休んだ。さてもう一踏ん張りカロリーを消費しようか。

自由

娘が大学のゼミの合宿で沖縄に行っていたが帰ってきた。沖縄からメールが来てフライトを変更したいと言う。自分で ANAに電話してやれと言った。ゼミの同級生は格安航空券なんで変更ができない。それで娘が友人の時間に合わせて変更したというわけだ。娘はマイルを使った無料航空券だがわりと自由度がある航空券でいくらでも変更ができる。娘はそれが当たり前だと思っているかもしれないが貧乏航空券は自由度がないのである。

デルタ航空にマイルが10万マイルほど残っている。200万マイル以上あってさんざん使ったがいまは特典航空券も改悪されて10万マイルでは大したところにはいけない。そんでいろいろ検索していたらサイパンにかみさんと二人で行ける枠が取れるみたいなので速攻で予約した。マイルの航空券は自由度がない航空券だが15000円払えば変更ができる。その金をなんとも思わなければ自由である。

以前施設の子供に聞かれてハルトモさんはいくらいくらで食べ放題の店には行かないよ、と言ったら不思議がられたことがある。それじゃお腹いっぱいたべられないでしょって。いやハルトモさんはどこの店に行っても好きなだけ食べるから全部食べ放題だ。その分払えばいいだけ、って答えたら子供がへーと言う。まあそんなつまらん自由の話だ。

行くのはこの冬だ。サイパンに行ったことはないがたぶん冬は乾季で気候としては快適だ。ただ中国韓国そしてロシア人が多いと聞いている。最近はホテルの朝食にキムチとかご飯が出てたり中華もあるらしい。それ自体は悪いことじゃないが、彼らは基本的にウルサイのである。だから雰囲気が壊れる。それがどうかだが行く目的がリゾートじゃなくてゴルフ合宿なんでまあいいかなと思う。

6日間の予定で基本ゴルフをしているつもりだ。真冬に暖かい南の島でゴルフをしているだけで幸せだろう。実質5日間でゴルフ回り放題のパッケージを予約するがそれをどこにするかいろいろ検討していると時間がすぐに経つ。旅の検討というのはけっこう手間である。それが楽しいわけだ。回り放題だからと言ってずっとゴルフばかりしているかどうかそれはわからない。意外といい感じでホテルでのんびりできればそれでも良い。つまり自由というわけだ。

夏にヨーロッパに行く旅のプランニングもまだ詳細が詰まっていない。来月に入ったらいろいろ細かな検討を始めるつもりだ。案外忙しいが昔はこういう検討をいつやっていたのかと言うと出張でお客に行く移動時間にやっていた。仕事らしいのはお客の前で話す2−3時間。今思えば自由な仕事だった。自由でないから辞めたわけじゃないけどね。

そう言えば辞めた児童養護施設では海外旅行に行くのに園長の許可がいるとか聞いた。金もないし誰も行かないけどそういう決まりだということだ。そうやっていろいろ許可するというのは立派な仕事だと思っているようだった。金も出さないし手間も惜しむし体面ばかり気にするが、許可については立派な態度だった。なにせ休みの日に自由に休めない。休みに休むのに園長の許可がいるとか、今しては笑える職場だったな。

遅れて咲け

施設の桜は枯れ木状態で今年は咲かないのかな?と思っていたらようやく咲き出して今が満開となった。児童養護施設に相応しい。遅咲きの桜。わたしも遅咲きの桜だった。もっとも散らないから桜じゃないか。わたしが若い頃は親戚中でもわたしは放蕩息子の栄一の息子だしろくなことにはならんだろうとそれでわたしを問題児よろしく避ける雰囲気があった。今はわたしの世話になっているシゲちゃんだってわたしと縁を切ろうとしていたが、今となっては私に頼り切りである。誰もわたしがまともな人間になると思っていなかったのだ。子どもの頃から施設に入ったり家庭もおかしくてそれで反抗的でかわいげがないハルトモ君だったから、そういう評判となったんだろう。彼らに見る目がないというのではなく、彼らではわたしのことを見極められなかった、と結果論で言えばそういうことになるが、まあそれが普通だ。

今は施設にいてもろくでもない反抗児で身勝手なこどもがひょっとして将来化けるかも知れない。可能性は低いがわたしくらいになる人間は千人万人に1人くらいはいるんだろう。その人間がひょっとしてわたしが担当したこどもである可能性はゼロではない。宝くじでも買った気分でのんびり待つというのは悪いもんではない。メルセデスにでも乗って施設に慰問に来たらわたしも呼んで欲しいものだ。そしてたっぷりと成功した姿を子どもたちに見せつけたら良い。どこぞのひねた老人のように、あいつ自慢ばかりしやがって、と妬むのは自然なこどもの姿と対極である。子どもたちは、おれもなるぞと決意を新たにする。わたしが施設にいた3年半で公然と金持ちになりたいという子が増えてきた。これをどうみるかはいろいろ意見はあるだろうが、正直でよろしい。人間というのは大人になるにしたがい、分別を身につけるがその目的は打算にほかならない。あるいは謙虚であるのが美徳であると思いこみ外面を繕う。だが己の内面の醜さを覆い隠しただけである。どんなもんだか一度稼いでみれば良いのである。そうすれば本当の意味で自慢しようがしまいがどうでもいいことだとわかるようになる。それまで妙に繕わず、金持ちになりたい、でいいじゃないか?

今日はさいたまから渋谷まで自転車で往復した。往復で55キロほど。ただストップアンドゴーが多くて交通量もあるので、たぶん田舎のサイクリングロードよりずっと疲れるはずだと思う。荒川の自転車道を走っていたらどこまでも行けるような気がする。たぶん一日100キロくらいは十分射程内だと思うが、琵琶湖は160キロである。一泊すればまったく問題ないがもっと脚力を付けて一日で回りきりたい。ということで琵琶湖の前に浜名湖で練習しようかと思っている。大阪のいけちゃんが一ヶ月くらい後に来いと言う。向こうにも都合があるんだろう。よくわからんがそう言うならそれでいい気がしてきた。古い友人にメールを打ったら返事が来る人間と来ない人間がいる。返事が来ないなら別にあわなければよいことである。なんか理由があるんだろう。ハルトモとは会いたくない? まあそれでも別に構わない。わたしが自転車で渋谷まで行ったとこどもたちに自慢すると、よーしおれもやるぞって子どもはいない。呆れた顔でよくやるなこのおっさん(じいさん)て顔をする。子どもたちだってこっちが自慢していてもちゃんと自分で目標を選ぶのである。だから適当に自慢しておいて、あとは子どもたちに選ばせば良いのである。生きていることはすばらしい作業である。そう確信する姿もまた子どもたちの目にどう写ったか、それは数十年後にどうなるかであろう。

人を助ける

子どもたちにはもう退職する事は話した。多少不安定になる子もいたが総じて落ち着いて受け止めてくれた。年だし園長から覚えも悪いので、そのうち辞める、とずっと言っていたので、ああその時が来たかな? ということで驚きはない。ある子どもが聞いてくる。またここに遊びに来たりする? 「来ないだろうな。」と答えた。仮にわたしが遊びに来てもホームには入れてもらえないだろう。入るのを断られる元職員もいるのである。わたしもたぶんその口だ。ただ連絡してくるのは構わないしどこかで偶然会うってこともあるかもよ。と言っておいた。近くに住んでいるのだし実際店で偶然会ったりするんである。

個人的には辞めたら終わりという気持ちが強い。それほど個人個人のこどもに思い入れはないし逆にそれほど子どもから好かれているわけでもない。どうせしてあげられることはさほどないのである。あくまでも他人、施設の子どもとそこの職員という関係であった。ただ助けを求めてなにか自分にできることがあるのなら、それはしてあげようとは思う。そんなノリで実父実母養母伯母と面倒を見てきた。みんな望んだわけではないが他に頼る人間もいないのでわたしが助ける羽目になった。別に望んでしたということではない。

わたしは人から助けられるのも人を助けるというのも好きという気持ちはない。縁だと思っている。以前の勤め先で、人を助けるのが好きだ、という人間がいて、「わたしは状況で助けるだけで人を助けるのをうれしいとは思わない。」と答えたら、「ハルトモさんは冷たい人ですね。」って言われたことがある。その人間がどれだけ温かいか知らんが、助けた相手がお礼を言わないと怒っていたりする。わたしは自分が助けた相手がお礼を言わなくてもそれは別に構わない。実際つきあった施設の子は感謝もしない。お礼やフィードバッグはあればあったで別に構わないがなくても構わない。自分がそうしたからそうしただけなのである。

ハルトモという変なおっさんがいたな、なんかいろいろ言っていたな。そういう思い出が残ればそれで十分である。いろんな子どもがいた。とんでもない子どもも多かったがそれらも今でも全部良い思い出となっている。たぶん辞めてもきっと思い出すだろう。実際夢に施設の子どもが出てくるくらいだから。わたしはまた新しい人生を生きていく。君もたくましく自分の人生を生きていけ。人生とはそうやって出会いと別れを繰り返していくものである。またあう機会がもしあるならそれも縁だろう。人生は金も地位も名誉も実績も、あって邪魔ということはないが、それより大切なのは自分の納得とそして思い出である。思い出とは時間の質という意味である。良質な時間をどれだけ持ったかで思い出の豊かさがかわってくる。

人は死ぬ瞬間に人生の思い出を一気に見るとか聞いたことがある。わたしの人生は今までも楽しい思い出で満ちていてまだまだ積み上げる気でいるから、これは一気に見ると言ってもずいぶんと時間がかかるんじゃないかしら? その時は大変だろうな? どう大変かよくわからんが、、

同級生で70年代の音楽ばかり聴いている人間がいる。思い出に浸っているのかどうか知らないが、たぶんその時代がその人にとって楽しく好ましい時だったのじゃないかなって思う。じゃあその後の人生はどうだったんだ? とつっこみたくなるが、納得と思い出に満ちていればどの時代も好ましく懐かしく、結果どの時代の音楽も聴いていて楽しいということになるんじゃないだろうか?どの時代にもすばらしい音楽はある。いろいろ組み合わせて聴いていればそれだけ幅広くなる。今の音楽だって聴いていれば何十年もして懐かしいということにきっとなるだろう。楽しく生きていれば。

情けは人のためならずということわざがある。一般的な解釈は、人に助けを施しておけばいつかどこかでそれが返ってくることもある。だから自分のためになる。ということらしい。わたしの解釈は人を助けるという行動そのものが自分の納得で思いでづくりであり、まさに自分のためであるということ。返ってくる必要はない。自分が好きでやっていることだから。好きと言っても喜んでいるわけじゃない。自分でそうするのが良いと思うということだ。おもしろいもんでそうすると後から楽しかったということになる。自分の納得でするということが大切だ。いやいややったら決して良い思い出にならんだろう。
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