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20人の子供が共同生活している。それと一緒に10人くらいの職員が働いている。インフルエンザが広がったらそれはかなりパニックだ。溶連菌とかO157とかも怖い。今は受験の真っ最中であり受験生に感染でもしたら大変だ。受験生の子は一週間くらい我が家に預かってもいいと申し出ておいた。受験生くらいの子供を預かれる家は園長とわたしくらいだ思う。まあ園長の家の状況はわからんが。今20人中2人がインフルエンザである。さらに4人が発熱している。発熱しても時間がたたないと陽性にならないのでまだ結果はわからないがかなり危険な状況だ。
昨年は娘が受験生であった。その受験の最中にわたしはインフルエンザに感染した。施設の子供から感染したのであるがこういう仕事をしていたら仕方ない。もちろん予防接種も受けているが感染するときは感染する。感染すると出勤停止になる。おかげでわたしは入職以来初めての5連休をいただくことができて随分と楽ができた。昨年ならいざしらず今年は個人的には別にかかっても構わないくらいの気だ。
昨年はわたしは当然家にいたが家人は落ち着いたものだった。娘も別に受験生だからと言ってピリピリはしていない。大学受験というものの位置付けが我が家では他の家に比べてそれほど高くなかったんだと思う。そんな必死に勉強せんでも適当に入れるところに入っておけば良い。我が家はそういう家庭である。親が学歴とか仕事のおかげで今の生活を築いたと思ってないから、そういう考えというのはインフルエンザよろしく感染するんであろう。
ただ娘には必死に勉強して良い仕事も得るのもそれも人生なんだから馬鹿にはできないとは伝えてきている。なにか間違っているんじゃないか?とは思うが必死になにかすることはとても大切なことでそれはどの道にもつながる。娘は何不自由なく育っているがそれは自分の力で築いたものではない。楽してわたしと同じような考えになるのは分不相応であろう。
施設の大学受験生の子供が、落ちたらどうしよう、どうしよう、と心配して不安がつのっている。志望校に落ちたらもう死にたい、なんて大げさに言う。わたしは言った、「今はやるべきこと、勉強を必死にやるしかないだろう」と。その子は「わたしは必死だよ」と言う。ハルトモさんの「必死になにかする」というその必死ってどれくらいのこと? と聞かれた。
それでわたしの体験を話した。ハルトモが施設にいたときにホームごとの野球チームが作らて大会が開かれた。小学3年生だかのわたしはキャッチャーをやれと最上級生に言われて、当時の最上級生は中三だったが(みんな中卒で働くので)その中学生3人ほどでわたしを鍛えるという名目でかなり近い距離からわたしに思い切りボールを投げつける。それを野球をやったことのないわたしに取れと言う。彼らの目的は取らせることではなくてわたしの体に当てることだ。3人で誰が最初にわたしをノックアウトするか遊んでいたのだ。当時に中学生は手加減なんてない。思い切りわたしに投げつけてくる。それも向こうに3人並んでかわるがわるである。
何発か痛い思いはしたが、わたしは死にたくないし大怪我もしたくないし、体に向かってくるもの取るしかない。そしたらね。驚いた。あっと言う間にものすごく上手くなった。なんでも取れるようになった。バンウンドしての取るのでそんで野手でもうまくなった。わたしは小学3年生ですでに必死になにかするというのはどういうことか身をもって学んだのである。今にして思えばよい体験をしたが、その中学生3人はもう60代前半ということになるが、今はどんな生活をしているだろうかね? 知る由もない。どうでもいいことだ。
こんな話をした。かなり説得力があったようだ。まだまだ自分は必死じゃないのかな?と言っていた。「だってハルトモさんはボールを取るしかない。取れなかったらどうしようなんて考えてなかったんだよね?」
そういうことだ。賢い子だ。落ちたらどうしようなんて言っているうちは必死じゃないのである。まあわたしの娘も落ちたらどうしようなんて言わなかった。行けるところに行くしかない。でも娘は別の意味で必死じゃない。ということで必死であろうがなかろうが、さきに結果ばかりを気にする、というのはそれはあんまり良い作業じゃないということだろう。どうしようと思うなら備えておけば良いだけである。その子は滑り止めを受けているのだしそこは間違いないから、全部落ちたらそこに行くだけである。どうしようと心配はすで終わっているのだ。
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児童養護施設のこと
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浅ましいという言葉はふだんあまり使わない。友人知人にも浅ましいと思うような人間はいない。というかそういう人間とはつきあわない。児童養護施設で頂き物でチョコレートを頂いた。いろんな種類のチョコが入っている。今日のおやつに出そうということで人数で割ると一人五個になる。それで少し余る。箱を出して好きなのを5個選んでね、と言ったら子供が思い思いに選んでいる。わたしが同じものを選ばないようにね、と声を掛けると一番に五個取った子が言う。「ハルトモさん、言うの遅いよ。」そのこの手には同じものばかり、人気がありそうなものを独り占めである。
自分さえ良ければいいのである。それから人からどう思われようがまるで気にしていない。なぜか? 自分なんかどうなってもいいという意識がある。自分を大切にしない。大切に育てられないと自分を大切にしない人間になる。自分さえ大切にしないのだから人はもっとどうでも良い。こういう流れである。その子は非常に問題行動の多い子で盗みも常態化しているが人の物を盗むという問題行動の根底にはこのような人間としての浅ましさがあるとわたしは常々感じている。盗みをするしないは自分を抑えられるか抑えられないかの差である。 子供たちが一通り取り終えると余った数が合わない。一人5個と言いながら6個以上取る子供がいるのであるが、これくらいは驚かない。誰も見ていないなら人のものを平気で食べる子は多い。それをさせないためにはずっと見張っているしかないが、そんなこと面倒だし気分が悪い。見張ってインチキさせないようにしたところで、浅ましさが治るわけではないのだ。余計に人の目を盗む人間になりそれが上手になっていくだけである。悪いことをする人間はほんの一瞬のスキを見逃さないのである。 雨であったので施設の子供たちはどこにも遊びに行けない。それでDVDをいくつか借りてきてやった。子供が喜びそうな映画である。そんで見るときは字幕でなく吹き替えである。中学生くらいでも読むスピードが追いつかないのである。高校3年生の子に聞いたらやはり字幕はだめだって言う。理由は読めない漢字が多いからだって。漢字力はさておき読むスピードというのは言語能力の基本になる。読むのが遅い人間はまず国語は弱い。ちなみに英語の勉強で速く読む訓練をするとリスニング力が上がるというのはご存じだろうか。結局聞くにしろ読むにしろスピードがないとついていけないのである。そしてもっと言うなら読み書き聞くのスピードは考えるスピードである。言葉を使って考えるしかない以上言葉を扱う力と考える力は密接な相関関係にある。 日本の教育制度で実戦的でない部分はこのスピードを軽んじていることだとわたしは思っている。制限時間内に正解を求めることが最優先される。例えばだ、正解が325だとする。この正解を制限時間10分で求めることを要求する。なぜ10分かと言うと問題の相場で決める。この場合仮に1分で答えは300台の前半だとわかるというのは受験ではなんの意味もない。ところが実社会ではこれが重要なのである。端数はどうでもよろしいということがほとんどである。わたしはきわめて速いスピードでだいたいの数字に到達する能力がある。実戦的なのである。 なぜわたしが実戦的かというと人の評価を気にせずに問題解決の最短距離を歩もうとするからである。不要な精度は捨てられるのである。もちろん精度がいる場合もあるがそれは実戦が要求する精度だからわかる。お利口さん優等生はいつも人の評価ばかり気にしているからわたしの真似はできない。いつでも行儀よく正解を出そうとする。 日本で最高の大学は東大と言われている。別に東大を悪く言う気もないが、東大卒の多数は仮にわたしと同じくらいの劣悪な境遇に育てば東大には入れたか疑問であろう。 以前書いたように環境と学歴の相関関係もまた明白である。それも幼児期から少年期の影響が大きい。その上でだ、恵まれてせっかく東大まででた人間の多数はいまだに働きづくめで金の算段に楽することができない。それだけの頭脳があれば極貧上がりのわたしよりみんな裕福でないとおかしくないだろうか? なに?金がすべてじゃない? その通りだ。だからわたしはこれ以上の金儲けを捨てて児童養護施設で働いている。真似されたらよろしい。杉良太郎という役者がいる。彼のことはわたしは詳らかにしないが相当の成り上がりらしい。その彼が災害があると真っ先にかけつけて仕出しをしたりする。芸能人だから取材もされる。それを売名行為だと批判する輩がいる。それに対しての彼の答えは痛快である。ハイその通り売名行為です。あなたもやられたらよろしい。彼は別に売名行為でやっているわけでない。ただなにもせずに批判する輩に皮肉を言っているだけであろう。 浅ましさからずいぶんとかけ離れた話になったが、この世というのはあさましさとあさましくないものが行き交う世界である。高潔なんて言う気はさらさらない。ただあさましくは生きたくないね、わたしは。美しさというというのはわたしの人生で重要なファクターである。 |
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株式市場では荒っぽい値動きになってきている。こういう状態だと儲ける人損する人の優勝劣敗がきっと顕著に現れる。ただいつもと同じく儲ける人は少数で損する人は多数で、じゃあなにが変わるかというと儲ける人は大きく儲けて損する人は痛手を負うという図式になるんだろうね。オー怖い怖いだ。
昨日は宿直明けて家に帰ってきたんだけど今の職場で宿直明けで帰れるのはわたしだけで他の職員はそのまま日中勤務して、そしてそのまままた宿直というパターン。そしてそのまままた日中勤務。言っていることわかります? 二泊三日の早朝から夜までということですよ。明らかに法令違反だけどね。子供じゃなくて職員虐待だ。
さてその宿直明けの午前中だが二台持っているiPhoneのSIMを入れ替えてみることにした。AUのSIMとMVNOのマイネオのSIMだが、これがうまくいかなくてそんで戻そうと思ったら戻らなくなった。格闘すること二時間半でようやく復旧。なんのことはない。なにもしていないのと同じだ。元の木阿弥とはこういうことを言うのだね。
そんで午後からは予定通りなんだけどかみさんとゴルフに。今年まだ二回目のゴルフだ。風もなく暖かいし、よいラウンドで楽しめた。だが考えてみるとゴルフをする前とゴルフの後で別に変わることもない。別に巧くもなっていない。どう考えても元の木阿弥と一緒だ。でもゴルフをして楽しみであったたのだからこれは時間の無駄とは思わない。そう考えるとSIMの入れ替えで元の黙阿弥で二時間半楽しく遊べたのだから良かったとも言えるということになるな。元の木阿弥、素晴らしいということだな。
児童養護施設で今わたしが担当している子供で賢い子。IQは個別検査で120ある。みなさんはIQ検査って個別では受けたことないでしょう。なにか理由がないと受けるものではないです。学校で昔やった知能検査は簡易版で正確じゃない。本当の知能指数検査はマンツーマンで2時間くらいかけてやるんだけどとんでもなく高いのは出なくて低めにでるそうで120だと簡易的な知能検査で130は超えてるらしい。130て言ったらクラスに一人の知能だけど、児童養護施設のその子供の学力は偏差値で50くらいにしかならない。環境が与える学力への影響がいかに大きいかよくわかる。
児童養護施設で働いていると格差の元を思い知る。性格と学力の相関関係なんて聞くとピンとこない人が多いと思うが、児童養護施設で働いて、これは明らかにあるというのがわたしの結論。愛情を受けずに育つとひねくれる。ひねくれると大人を信用しなくなる。したがって学校で教わること教科書に書いてあること先生の言うこと、みんな疑ってかかるようになる。大人の言う通りにやってもいいことがなかった経験がそうさせる。だからすんなりと学べないので学力は出ないとわたしは思う。ということで施設ではただ勉強の機会を与えれば伸びていくという単純な図式にならない。心のケアとセットにやらないといけないがそれが簡単にできるものではない。まともな親がそばにいないというのは本当に大きいことなんである。
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テレビで貧困家庭のレポートが流れる。NHKの得意だ。貧困者は訴える、いかに自分が苦しいかそしてなんとかならないかと。貧困者の主張はそこで終わりである。彼らはいかに自分たちが苦しいかの窮状は訴えても、ではこの社会が貧困と格差に対してどのような解を用意すべきか?の具体的な提言はない。
病人が痛みを訴えるのに似ている。それに対してなんとかするかしないか、それは自分自身は痛くない医者の仕事である。貧困と格差も同じく、これは問題だ、なんとかしようと言っている人間は実は貧困者ではない。
正月に討論番組を見ていたのだが、やれ格差だ競争だ貧困だと言ったところで議論している人間は皆恵まれた家庭に育ち十分な教育を受けて貧困とは無縁の人たちである。彼ら彼女らがいくら言葉を弄しようが知らないものは知らないのである。知っているのと知識は違う。本当のところは知らなくてもそれらしい知識があってその知識に基づいで議論しているだけである。
ことほど左様にこの世と言うのは、様々問題を抱えていても、その問題の間で直に苦しむ人間と、その問題を解決すべき立場の人間とに大きなギャップが存在しているのが常である。解決する立場の人間は問題の本質とはその境遇において距離のある人間なのである。
児童養護施設で大学進学をするこどもは10人に1人もいない。世間と比較しても大学進学率は相当低い。優秀なこどもで大学に行ってもいいはずの子なのに大学進学を選ばないこどもが圧倒的多いのである。いろいろ理由はあるが結果としてそう。世の中ではさしたる志がなくても当たり前のように大学に行く。ところが施設ではその当たり前が当たり前ではない。決然たる意識を持ちなんとしてもやり遂げるという気合い横溢していなければ大学進学は叶わないのである。
わたしは昨年一年間、あるこどもと正面から立ち向かった。十分な知性を持つ子供で大学進学をためらっているこども。それを大学進学に向かわせる説得をしたのである。ずいぶんと語り合った。そしてついにその子は大学を目指す決心をした。人一人全力を尽くして動かせる人間はせいぜい人一人ではなかろうか? そんな気がしているし、それはわたしの器量と言えばその通り。
わたしは問題に飛び込み、当事者と問題を共有して、そして共に道を探ること、それしかできない。それがわたしには一番しっくりと来る。問題から遠く離れて気の利いたことをわけ知り顔に発言するのはわたしの流儀ではないのである。施設にいろんなこどもがいる。たった一人二人でもいいからこのわたしが思うところを汲み取ってくれて未来に羽ばたこうという若者が現れてくれたそれだけでわたしは落涙の喜びである。
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わたしは1958年生まれでビートルズは1970年に解散しているので、わたしの馴染みがあるのは各メンバーのソロ活動である。もちろん遡ってビートルズもたくさん聞いたけどビートルズ世代とはちと時代がずれている気がする。わたしは今はビートルスは聴かない。わたしがミュージックプレイヤーで懐かしく聞くのはそのちょっと後の時代のものである。ロックで最近よく聴いているのはドゥービーブラザーズ、イーグルス、ピーターフランプトン、レオンラッセルとか。
ところで最近のミュージシャンで、ブルーノマーズ、エドシーラン、チャーリープスなんかはかなりイケてる。立派なロックンロールだ。この年くらいになると懐メロばかり聴いている人間が多いと思うけど新しい曲でいいものがたくさんある。意外であるが娘も古いのを聴いてイイねと言う。わたしも新しいのを聴いてイイねと思う。いいものはいいのである。どんどん新しいのを聴いたほうが気持ちが若くなるしそれに新鮮だ。
グーグルプレイミュージックはかなりイイ感じで使えている。これを長く使っていくと最終的には自分のローカルの音源は聴かなくなるんだと思う。毎月1000円払うけどどんどんいろんなものを聴けるしそれとリコメンドとラジオの機能が充実していて聞き流すだけで楽しい。わりとイイ感じの曲を紹介してくれるのである。
娘が出かけて行く時にかみさんの使っていない古いバッグを持ち出すことが多くて今日はわたしが20年以上前にボストン出張で買ってきたアクアスキュータムのバッグを持って行った。かみさんは一度も使っていないと言う。初めて使われることになったバッグはさぞかし喜んでいるだろう。
今朝の日経新聞に貧困と子供の学力の相関関係についての記事が出ていた。これはあるに決まっている。貧困家庭はたいてい親が低学歴で教育不熱心である。親が本も読まないから子供も読まない。貧困家庭のこどもは休日はテレビとゲーム。せいぜい部活でも頑張りなさいということだ。もう中学生くらいになるとそこから大きく知能程度が変わるということはないと思われるからけっこう早い段階で知能差はついていて、そこから先進学校に進んだ者の間で受験テクニックを磨く競争をしているということだろう。
児童養護施設のこどもはその意味では底辺になる。その国語力はかなり低い。わたしの言っていることをちゃんと理解できる子供はそんなにいない。わたしの語彙は彼らには多すぎるしレトリックは複雑すぎてついてこれない。これほど平易に文章を書くハルトモ君だけど言っている内容は案外軽くないことも多い。
施設の子供のほとんどは自分が理解できないのはハルトモの言い回しがおかしいからだと思っている。意味わかんねーということである。彼らがわたしの日本語を理解できない理由がもう一つある。自分で物事を考える習慣がなくさらに気持ちが捻くれていることである。わたしは子供たちに考えさせようとしている。それでいろいろ言う。気づいて欲しいからズバッと言わない。だが子供たちは動物の飼育係がするような直接な指示命令を聞きたがる。わたしの話はまだるっこしいのである。でもわたしはそれを止めない。
そういうことでストレス発散でもないがこのブログを毎日書いている。ここの読者はわたしの言い回しが気に行っている人が多いようだ。固定客ばっかりみたいだから。相手は目の前にいないけどなんとなく通じているという手応えはある。 まあ通じてなくて別にいいのだ。それは慣れている。通じようが通じまいがあまりハルトモ君は変わらないのだ。そこは我ながらたいしたものだ。
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