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クリスマス

クリスマスであったが穏やかに祝会が催された。暴れる子もおらず一安心であった。(毎年何かトラブルが起きる!)今日はゲストでわたしが担当していた卒園生が遊びに来てくれた。某一流ホテルのパティシエとして採用が決まったとこのブログでも書いたがよく頑張っていると思う。でも学業とアルバイトの両立でかなり疲れているんだろう。途中で酒も飲んでないのに寝てしまった。
戦っているんだなあと思ったが、その戦いはまだ延々と続く。いまだ端緒である。蹴り際に就職内定のお祝いを包んであげた。卒園した時にもお祝いをあげたが、ちゃんと頑張っている姿を見てまたお祝いをあげたくなった。あげたくなっちゃうんだよね。

こうやってお金をぽいぽい渡すことを云々する向きもあるのだろうが、まあ親戚の子ならあげるでしょ。別におかしなことでもない。他人なだけだ。私以外の職員じゃできないだけ。でも思う、その子はどこからもお祝いなんてもらえない子だから、せめてハルトモ君がお祝いしてあげたいって。言ってはなんだがわたしの財布には万札が溢れていていくら入っているかも知らんのだ。祝儀を渡して財布の中身いくらがいくらになったかもわからない。どうでも良いということ。でも金がその子にいけばちゃんと意味をなすのだからお金が生きるということなのかな? その子にしてあげられることはそんなない。自らたくましく道を切り開いて欲しいものだ。そしていつか施設に帰ってくればよい。どうだと胸を張って。その姿をわたしが見る必要はない。ぜひ次にと続く子供達に見せて欲しい。

きっとその子は帰りの電車でも爆睡するんだろうな。ちゃんと自分の駅で降りたかな? そんなことが気になるクリスマスであった。

拡大循環

娘の誕生日祝いという名目でiPhone6Sをわたしが一緒に行って買ってやった。もちろん毎月の料金も親が払っている。それで終わりのはずなのに娘はうまいことかみさんに話して2万何千円かする靴を買ってもらっている。おばあちゃんからも一万円誕生祝いでもらっている。軽く10万円を超える。

わたしもかみさんも欲しいものはパッパカ買うのであるから、娘だっていろいろ立ち回って欲しいものは手に入れたいだろう。この感覚がおかしいのかと言うと、実は児童養護施設にいる子供たちも、欲しい欲しいである。ただ買えないだけである。買えないから余計買いたい買いたいとなる。結局みんな物は欲しいのである。差は買えるか買えないか。

ではたいていの物は買ってもらえる我が家の娘と買ってもらえない施設の子供とで、どっちがものを大切に扱うかというと、わたしの娘のほうが丁寧である。施設の子供は物の扱いも雑だし、さらに住んでいるホームの備品の扱いも粗雑である。(もちろんそうでない子もいるけど=いい子だ!)

ということでなんでも買ってもらえると物のありがたみに感謝する気持ちがなくなり、買ってもらえないと感謝して大切に扱うという世間一般の常識はちと違うと思うようにわたしはなった。

たぶんこども自身が大切に育てられたかどうかである。いくら金があって物はいくらでも持っていても、十分手間をかけずに大切に育てられていなければ感謝の気持ちは育たない。一方いくら貧しくてもきちんと手間暇をかけられた子供はその中で感謝の気持ちを学ぶ。ただいくらか金があったほうが感謝の気持ちは育ちやすいだろう。貧しくとも素晴らしい家庭はいくらでもあるに決まっているが少数であることは間違いない。貧すれば鈍すという通り、貧乏であれば親の心だって荒みやすい。こどもを大切に育ててるとはなかなかいかない。それが最底辺の実態だ。

感謝の気持ちは充足感から来るから、満たされない心を持つ子供にいくら物を与えても物では満たされない。施設の子供はダブルパンチだ。自分自身が大切にされてきておらずかつ物がない。子供は心が満たされていないが物が得られればそれが満たされると勘違いする。 確かに物をもらった瞬間は嬉しい。だが大切に扱わずに壊れてしまうことも多く、そしてまた次の物を欲しがる。

娘は服とかは自分の趣味で新しいものを欲しがるが、時計とかバッグとかあるいは貴金属まで、けっこうかみさんのものを使っている。先日は男物の大きな時計が格好いいとわたしの時計をして出かけて行った。相当収入のある社会人というような出で立ちになっている。それで東京のランチグルメを友人と満喫している。毎日よいものを食べている。ランチだから安いとは言うがやはり1000円以上は当たり前、新橋でワンコインでランチというサラリーマンが多いと聞くからやはり娘は贅沢だ。

施設のこどもの特徴として、大切にされきていないのがたぶん原因で、大人に甘えることができないという点がある。何かを求める時にしばしば攻撃的になる。どら猫と言うと例えは悪いがぴったりの表現だ。だから可愛いいとは思いにくい子供が多い。ところがうちの娘は親でも親戚でもそれは上手に甘えるのである。自然と人を頼りにして甘える心持ちができている。だからつい買ってやっちゃんだよね。事実頼りになる親がいるのである。施設では仮に上手に甘えられたとしてもその結果買ってもらえるわけではないから、甘えるという行為を学ぶチャンスはない。こうやって両者はまったく別のサイクルに入る、良さは良さを生み、悪さは悪さを生むという拡大循環の結果、人間の考えかたとして大きな差がつく。

だが施設の子供もそんな悲観することはない。自分で買えるようになればいいのだ。なんでも好きなものを買えば良い。金や物が実は重要でないと気付くまで儲ければ良い。そして自分の子どもは金以上に手間暇かけて大切に育てれば良い。大切に育てるという意味はたくさん楽しい時間を一緒に持つことである。いくら一緒にいても叱ってばかり怒ってばかりでもだめ。一緒にいないのはもっとだめ。でも楽しい時間をたくさん持つには、金と体力と時間と気持ちのゆとりがいる。詰まるところどういう親かということである。

感謝の心

感謝の気持ちというものはどういうものであろうか? 児童養護施設では「ありがとう」という言葉を教える。だから子供によっては自然と「ありがとう」と言えるようになるが、では実際心から言っているかと言うと疑問である。なぜ疑問かというと明確な理由がある。ある子供はありがとうと言いながらも次々に新たな要求をぶつけてくる。飽くことなく求めてくる。つまり充足されていないのである。

考えるに感謝の気持ちの基本は「喜び」であり「足りる」を知るということである。「もう十分です。ありがとう」の「ありがとう」と、「ありがとう。でももっとよこせ」の「ありがとう」とは心根はまったく違う。小さな頃から大切にされてきていない子供たち精神的に満たされていない。根本は精神的な満たされなさ、その満たされなさを代わりに物欲で補うかのごとく求める子供もいる。異常に物欲が高かったりあるいは万引きに走る子どもは施設に多い。だがそもそも施設にいる子は貧困であるのが殆んどだから物もさほど充足されない。さらに物をいくら買い与えても結局は精神は充足されない。それで物を大切にせずぞんざいに扱う。まったく負のスパイラルである。そういうことで生まれてこの方満たされた感覚を知らない子供たち、まさに感謝の気持ちを知らないこどもたちと言っていいのではあるまいか?

今年もクリスマスがやってくる。施設では5000円くらいの予算で子供たちの希望に沿うものを用意する。確かに子供たちは楽しみはしているが、やはり優しいお父さんお母さんの笑顔とセットでプレゼントをもらってこその精神的充足であろう。物だけ来てもどうにもならない。

わたしが寄付という行為の限界を施設で知りここで何度も書いている。金だけ物だけ送って良いことをしたと満足するのも寄付しないよりはましだろうがここころは決して届かない。手で持っていったところでたいして知りもしない人間からものをもらうなら一緒だ。そういうことで何年か一緒に子供と過ごした経験は貴重だが、その身近な人間からいろいろされても、そうは簡単に精神的充足とは言えない。精神的な充足がフルスケール100としてわずかに10しかないこどもにさらに5とか10をなんとか足す。ふと見るとまた減っている。それでまた足す。そういう仕事である。

サンタ役も大変

小学生の男の子、今年新たに入ってきたのであるが、この子がサンタさんを信じているかいないか? これで対応がだいぶ変わってくる。もうそんなのいないって知っている子ならクリスマスプレゼントは一緒に行って予算の範囲内で好きなものを選ばせれば良い。それでその場で買って帰りクリスマスまで保管して当日渡す。

ところがサンタさんを信じている子供だとこうはいかない。サンタさんに何が欲しいか手紙を書くのだが、その前に何が欲しいか予算をうまく子供に伝えて、それで一緒におもちゃ屋に行って、それでこれと選ばせる。それで子供の前では買わないで、後から買いに行く。けっこう手間である。

ということで今日一緒にショッピングセンターにに行っておもちゃを選ばせたのだが、なんと在庫が一個しかないものを選んだ。それで子供の隙をみて店員に聞いたら、これが売れたらいつ入ってくるかわからないという答えだ。さてどうしよう? それで子供を他の日用品の売り場に連れ出した。ちょうどシャツでも買う必要があったからだ。それでシャツなんかすぐに買えるのに自分で好きなものを選んでいてと言って、それでダッシュでおもちゃ売り場に戻って、さっきこどもが選んだものを購入した。クリスマスのラッピングもしてもらい、そして数日預かってもらうことにした。後から取りに来るしかない。

それを速攻ですませてやれやれとシャツの売り場に戻りシャツを購入。さて帰ろうと帰路に着いたのだが、その時におもちゃ売り場とは別に特設コーナーがあっておもちゃが置いてある。そしたら子供が駆け寄って熱心に見だした。わたしは気が気じゃない。さっきのでいいんじゃない? しばらくして子供が言い出した。やっぱりこっちにする。(ゲーもう買っちゃったよ。)でもハルトモさん、さっきのラジコンのほうがいいと思うよ。値段も向こうのほうが高いしもう変えなくていいんじゃない? やだ、これに変える。 ふーんでもサンタさんがなにを選ぶかわからないよ。なんで?これってサンタさんに言って! うーん。なんとか変えるしかない。

それで仕方ないので食品売り場に行った。きょうはハルトモさんがアイスを買ってあげよう。自分の好きなの選んで、、ところでハルトモさんトイレに行きたくなったんだけどここにいて探していてくれる? うん、わかった。そんでハルトモ君またまたおもちゃ売り場にダッシュだ。それでさっき買ったのを返品してそれで新しいのと取り替えてそれでラッピングの手配と預かりのお願いをして、それでまたダッシュで戻る。そうやってなんとか手配が済んだ。どうやら子供には疑われていないようだ。明日にでもものを取りにいかないといけない。

これも仕事であるが、けっこうそれなりにやりがいはある。決断力行動力体力そして演技力も求められる。今日はいい仕事をしたな。




わたしの上司2

やるだけやったら後は結果がでるだろう。という気持ちがわたしにはある。どんな結果になってもそれは仕方ない。それを淡々と話すと他人事みたいだと言われることがある。前の会社でも言われたし、今の施設でもそういうニュアンスのことを時々言う人間がいる。だがわたしこそが実践家として常に現場で動いている。口先ばかりの人間ほど妙に深刻ぶったりするものである。善人ぶる人間のほとんどは偽善家というのもわたしの経験則だ。

習字セットのことでもめた中学生だが、わたしが苦労して用意したものに感謝するどころか、いらない、と言う。まあ意地を張っているのだ。素直にありがとうと言って人の好意を受け取れない。それは自分が自分でまいた毒気のためである。この毒気は体のまわりに取り付いていて容易には離れない。ではわたしはどうするかと言うと、やるだけのことをやったのだからそれで終わりである。使わないならしまって違う子供に使わせれば良い。別にそれでなにも困らない。せっかく用意してやったのに、、なんて文句も言わない。それで暫くしてやはり使うと言いにくそうに言ってくることもある。そういう時はどうするるか? ああそうかいと黙って出してやる。別に小言も言わないし、それ見たことかという態度も取らない。

それがその子にいいのかよいのか、それもよくわからないが、その方がその子の毒気が抜けるような気がするのだ。そうしたら子どもから何気なく言ってきた。習字のセット出して、昨日の悪態などなかったような言い方だが、そこでわたしはああそうと出してやった。別に悪態つかんでもそうやって穏やかに物事は進むということを分かって欲しいものだ。悪態つこうが暴れようができることはちゃんとやってあげるしできないことはできない。

施設のこどもたちと話しているといろいろな呆れる理屈で自分を正当化する。あまり馬鹿馬鹿しいとこっちが黙っていると、なんと勝ち誇る子供がいる。こっちが正しいからハルトモは何も言い返せなくなったと。それで最近は手短に論破することも時々やっている。ケースバイケースだ。わたしは表情豊かに話すしこどもから見たら怒ったり悲しんだりしているように見えるようにやっているが、実際のところ本気で怒るようなことなど実はひとつもない。それは会社勤めの時と変わらない。人生は生きるということ以外すべてゲームのようなものだが、仕事はそのゲームの余興みたいなもんだ。適当に面白おかしくやっておけばよろしいが、一応ゲームだからそれは結果を出しておくか、という乗りだ。


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