ここから本文です

書庫人生の考え方

記事検索
検索

全37ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

利尻島と礼文島のセッティングはけっこう難しかったが、最終的には三日間とも宿を変えることにした。空港は礼文になく利尻空港に入る。それでも礼文では一泊したいと考えると時間の効率、動きのなめらかさなどから2泊目が礼文になる。であれば宿は全部変わる。荷物もそんな多くないので問題ないだろう。

3泊のうち2泊は小さな旅館とペンション、評判が良いところを選んだ。一泊は観光ホテル。理由はなんとなくそれなりの規模のところも泊まるかと。もちろん評判がよいところ。食事は全部二食付きにした。外で食べても良いかなと思っていたが利尻では外で食べてもむしろ金がかかるみたいだ。そのあたりの定食屋でウニ丼4500円とかするらしい。なにせ利尻昆布を食べて育ったウニは値段も張るということみたいだ。

初日と3日目と4日目はレンタカーを借りることにした。ハイキングをする意味では邪魔になる場合もあるけど、1日5本しかないバスの時間に振り回されるようりましだと判断した。それに車の場合は直前でキャンセルも問題ない。天候を見ながら判断しても良い。レンタカーは離島料金と言って高い。だいたい倍する。でも五島列島のレンタカーは安いんだよね。五島列島は離島じゃないってことか。

利尻礼文の次には釜山と慶州に行くわけだが、ホテル選びはだいたい決まった。市内中心地に2泊してその後一泊だけ海雲台に。へうんでと打つと海雲台と変換されるなんて初めて知った。そういえば最近はれいわと打つと令和になる。誰かがやってんだろうがご苦労様である。釜山のホテルはどっちもビジネスホテルである。部屋にいる時間が短いのと、中国との大きな差は小さなビジネスホテルでも日本語が通じる清潔な宿が多いことだ。ビジネホテルで問題ない。ちなみに北京はニューオータニだったけど昼だけ日本人がいた。箱は立派だったが値段はそんな高くない。立地もよくて良い宿だった。

釜山と慶州の次は一応五島列島の予約があるんだけど、ここはすでに宿は押さえたが今後変わるか変わらないか? たぶんそのまま泊まるだろう。2泊とも同じ民宿である。評判が良いところを選んだが、このクチコミというのは宿の規模が小さければ小さいほど信用ができると思う。大きな宿になればいろんな人間がいるからである。

民宿の口コミを見ていると、狭量だなと思える辛口のコメントが多い。例えば料理が冷えているとか清掃が甘いとか、それがその宿の本質だと決めつけるような書き方。少ない人数でやっていれば手の行き届かないこともたまにはあるだろう。鷹揚に構えられないのかね? 大したミスでもないのに一泊お世話になってわざわざ悪口を書く人間の気が知れない。どれだけ相手がダメージを被るか。

五島列島の前に車で行けるところでどこか行こうかと考えている。MAZDA3で軽くドライブ旅行というわけだ。尾瀬も近々泊まりで行くのだけどこれは納車が間に合わないのでボルボになる。鄙びて静かな名湯がいいかな?

もともと国内では高級宿にはほとんど泊まらない。高級宿の一生懸命さがかえって負担に感じる。その点マウイの高級ホテルはゆったりとしていていいなあと思う。別に従業員が不真面目というわけでもないけどあくせくはしていない。カパルアベイホテルのような宿は日本にはたぶんないんだろうな。あたり前か、マウイじゃないんだから。

あんなに好きだったマウイだけど、でも不思議なことにまた行きたいとかは強く思わない。たくさん行ったんで思い出で十分という気がする。むしろ知らないところの方が良い。そのうちアジアのリゾートのどこかに行こうかと思っている。リゾートホテルにずっといて、それで何をするかというと次の旅行のプランを練るんである。実際釜山は北京から予約したからね。まあそういうこともやるという程度の話である。

来年かその次か、ヨーロッパをドライブ旅行したいと思っている。小さな街を巡り歩く。2週間くらいかけて。最初に決めるのは借りる車だな。赤いMAZDA3はどうだろう?カミさんは赤も気に入ったが娘が反対して止めたんでヨーロッパで乗るというのは楽しそうだ。

自称旅の達人である。たぶんこのブログを長く読んでいる人間なら異論はあるまい。旅の準備は十分にするが、現地では臨機応変、当事者能力抜群である。思うに旅の準備というのはその準備そのものが楽しいのである。自分で企画して準備して、パッケージ旅行などそれを人任せにして何がおもしろいのかなと思う。ゴルフはあかんな達人なんて夢のまた夢だ。たぶんもう片手ハンデには戻らないだろう。一番大きな理由はそんなスコアにこだわらないからである。上手いとスコアが良いは違うというのがわかってきた。春風のようにゴルフができればそれがなによりと最近は思う。

質より量

イメージ 1燕の兄弟が仲良く。

一泊1万円の宿に泊まる。きばって一泊3万円の旅館に泊まる。1万円の3倍だから3倍の満足感だろうか? 300万円の車を買う。きばって900万円の高級車を買う。値段が3倍だから3倍の満足感だろうか? 

逆の話もある。旅行に一回いくのと2回行くのと、これは満足感は倍だろう。たくさん遊べば思い出の数も多くなる。思い出の数が多ければ多いほど満足感は高い。だから人生を幸せに運ぼうと思えば質より量であるという見方はバカにできない。

家族であるいは伴侶と楽しく過ごした時間が多ければ多いほど幸福感は高まる。金を使えば使うほど幸せになるなんてわたしはあるわけないと思う。もっとも金を使って幸せと感じる人間はそうすれば良い。わたしとは次元が違うというだけのことである。

時間と体力と金とまん丸が良い。むしろ金は時間と体力に従属するべき存在である。時間と体力は多ければ多いほど良いがお金は多ければ多いほど良いということは決してない。

世間体という見方をすれば量より質を上げる方がずっと目立つ。あるいは体力と時間がついてこないというケースも大いにあり得る。本当に豊かな人間はありあまる体力と不足のない時間とそれに見合う程度の金がある人間である。

3倍高い車を買う代わりに月に1000キロでなく月に3000キロ走って、それでヘタレば買い換える。飽きても買い換えるけど車の量は人の3倍。己のアクティビティを決めるという意味で金はわたしの体力と時間を超えることはけっしてないのである。

変人ではつまらない

よく一度贅沢を覚えると生活レベルを落とせないとか言う。私が生きてきた実感としては多少そういう傾向はあるけど、本質はちと違うなって特にここ数年は強く思う。


自分の暮らしにどこかで無理があって真ん丸じゃない状態だと生活レベルを落とすのが凄く苦痛に感じるじゃないかと思う。つまり贅沢がどこかガス抜きなっている。



いかなる状態でも自分で楽しむ極意を会得したら、何を食おうが何を身につけようが、そこは大した問題じゃないって思うようになる。問題じゃないというのは同じだという意味じゃなくって、どっちでも楽しいということ。



これは稼いだら見えてくる世界と言うものではない。世間を見ればわかる通り稼いでも稼いでもまだ稼ぎたい人間ばかりである。では稼がないことで見える世界と言うわけでもない。稼ぐ前からそうだと思っていて実際稼いだら思った通りだという世界である。



稼ぐ前からお金の価値とかまた空虚さもわかっていて、その割には悠々と全くの自己流で楽勝で稼いで、それで暮らし向きだけ稼げばそこでお終い。もちろんそんなケチケチ暮す気はない。どこぞの老後の試算とは桁違いではある。



全く見事なお金との関わり合いだと我ながら自慢でなく素直に感心する。自分で強くそう思わなくて自然とそうなってそれで思った通りという話。



この日本に私のような人間が何人いる? 変わっているとかいうレベルではないことは間違いないだろう。実際私は変人とか変わっているとか言われたことがないからね。絶対おかしいとか間違ってると言われてきた。



だけど間違えでこうなるわけないだろう。きっと変わりすぎていて誰もわからないのかな。それどころか、自分でもわからない。自分ではまともで論理的な判断と行動だとずっと思ってやってきた。人と違うことを好む傾向はあるけどそんな強くは思わない。むしろ自分で思考の伽藍を一から構成したいという気持ちが強いね。変わっているというのは結果に過ぎない。まあ

変わってるんじゃなくておかしいと言われてきたんだけど。

手短に言うなら思うように生きる、それだけである。

24

イメージ 1


昔24というアメリカのテレビドラマが好きだった。今でも私の携帯の着信音はCTUの本部の電話の着信音である。知っている人は知っているだろう。24時間であれだけの内容はないけど、すんなり入り込める。ということで、わたしの24を書いて見よう。

まず朝風呂、そんでゆっくりとカフェでモーニングを楽しみ、その後久しぶりに一人予約で那須カントリークラブでゴルフをした。最初にポツンと入れたら直前だったけど三人集まった。あれはダメ元で入れると案外人が入ってくるもんである。

ゴルフの中身はあまり良くなかった。那須カントリーは右左どちらかOBというレイアウトでかつラフが非常にきつい。ボールが沈み込み9番アイアンくらいでないとまともに打てない。そんな沈んでないからと大きな番手を持っても強靭な芝に引っかかり大きく距離ばかりでなく方向も失う。

右がOBだからと左に逃げてラフだとボギーは確定。無理してパーを取りに行くとダボ以上という展開になりやすい。今年すすでに数十ラウンドしているけど、私が唯一90以上を打ったコースである。

一応リベンジという位置付けだが結局返り討ちに遭ってしまった。スコアは43、44で87。OB二つ打った。最近の私としてはショットの中身が良くなかった。小技でしのいで80台で90打ってもおかしくない内容であった。

最後の方になって気づいたんだけど、ハザードが弱いおつむにインプットされてそんでアドレスが狂っていた。さらに早く結果を見たいのでヘッドアップになる。次回はそこに注意したいけどなんか他のことでやはり狂ってしまうんだよね。際限がない話である。

ゴルフを終えて帰宅して風呂でゆっくりと寛ぐ。風呂を上がってはみたもののまだ日も高いのでジョギングでもするかという気になった。ホテルとマンションの敷地に一周800メートルのコースを自分で設定してある。500走って300歩く。それで五周。良い汗をかいたというくらいの運動量になる。それでその後また温泉に。

夕食は買い物を済ましてあるので、それで晩酌。ビールが美味い。明日からはカミさんが遅れてやってくる。レストランに行くので一人の時はスーパーとかコンビニが多い。スーパーよりコンビニの食事のラインアップには感心する。いくつか買って並べれば立派なディナーだ。味も悪くない。(美味いとまでは言わんけど、食べる方が寛いで良い景色を見ながらだから、大抵のものは美味しく感じる。)

夜は映画を一本見てそれからテニスを見た。あかんね、全然敵わない。多分疲れてんだろうね。映画は、のようなもの、たまたま先日のようなもの2を見たので1も見たが、出来は2の方が良いと思う。でも1を見たほうが2が楽しめる。私は逆から見てしまったので調子が狂った。まあ1も悪い映画ではない。のんびりなんかしながら見るには良い。
映画でバカなジョークを言っていた。以下の三つのうち食べられないすしはなんでしょうか?
1、いなりずし
2、ちゃんきんずし
3、まつばくずし

翌朝はまた森の中のジョギングコースを五周してそれから温泉に入る。それからお気に入りの森の中のパン屋へむかうが、途中で定休日だったのを思い出した。コーヒーは自分で入れて持っているので、スーパーの中のパン屋でパンを買う。ここのパンはだいたい那須の知られたパン屋の半値である。でも半分の価値しかない。流石の私でも積極的に買わないけど、出来立てのものがあったので一個買った。出来立てならまあまあ。150円。それで予定通り森の中のパン屋に。ひょっとして開いてないかと思ったが開いてなかった。それで誰もいないベンチでコーヒーを飲んで先ほど買ったパンを食べる。みせは休みで森は休まない。鳥たちの鳴き声も賑やかで同じく休みはない。

ということでだいたい24時間分書いた。こんな生活である。続きを読みたい人はまた明日くればよろしい。下手すると夜も書くから油断できない。馬鹿ブログは際限なく飽きることなく続くのである。

幸福度に寄与するもの

イメージ 1



ネット経由中心にいろんなところでメンバー登録してある。アプリなんかも入れている。そうすると誕生月ということでいろんな特典や割引などがある。クーポンもたくさん送られてきて割と使えるものもある。マックのポテト無料券とかゴルフショップの金券とか、メガネ屋の金券もサングラス購入で使えそうでありがたい。日帰り温泉の半額券とかもある。使えるものはありがたく使わせてもらう。

今の私にとっては朝風呂は当たり前の習慣なんだけど、普通は当たり前じゃない。着替えて仕事に行くのが普通の人。それも温泉なんてかなりの贅沢だ。落ち着いて朝食を食べられる人はまだ上質な時間の持ち方をしている。それが家族とか愛する人と一緒であればもっと贅沢。面白いのは一人旅でカフェにいても、良好な人間関係に囲まれてれていると、時間を楽しむゆとりも違ってきてそれがすなわち上質な時間となる。社会から疎外感を持っていたりしたら何をしても上質にきっとならない。

児童心理学を少しかじったけど、生まれて最初はお母さんがそばにいてそれで抱いてもらうことで安心する幼児が、次第に母親の存在をそばに意識しながらも冒険を始めるようになる。公園の砂場で他の子遊ぶなどという日常の行動が、幼児にとっては最初の冒険になる。でもなんかあると、お母さんと叫びながら母親の元に駈けもどる。そうするとお母さんは優しく受け止めて、どうしたのと聞いてくれる。そこで幼児は安心を取り戻す。冒険は次第に足を伸ばしてたまには母親の視界から消えることもある。それでも幼児の心の中には母親の存在がマークされているから、いつでも戻れる。

こういう作業を繰り返して行くと、いつしか子どもは母親がそばにいなくても自分は守られている存在であるとの無意識の確信が育つ。自分は愛される存在。これがすなわち自己肯定感のベースになる。これがない子は何らかの形で自分なりの自己肯定感を育まねばならないがかなり厄介でなかなか上手くいかない。

では自己肯定感がありさえすれば良いかと言うと、優しい母親から溺愛されてなんでも許されてしまうと、今度は逆に過度の自己愛を自分の中に持ってしまう。自分は特別の存在であり他の人間には許されないことも自分だけは許されるとかである。甘やかされすぎと父性の欠如のコンビネーションでよく現れる。これを許さない相手が現れると徹底的に戦い、そして認めてくれる人間には極端にフレンドリーという二面性を持つ人間になる。会社にはこういう手合いがいて私も難儀した経験があるが、間違いないのは 、大人になると他人がどうこうして治るとか変わると言うことはない。それなりの対応をするしかない。

ただ自己肯定感と自己愛は案外近いし、自己愛極端な人間でない限り日常生活には支障はない。ただ自己肯定感が低いか高いか、どちらかの性向は誰もが持っているということは言えると思う。話がだいぶ脱線したが、要は一人でいても、良好な人間関係に囲まれている人は、そうでない人と比べて、仮に一人でカフェにいても、多分なんとなく違う佇まいになるんではないかって話である。それで時間の上質さも変わってくるしもっと言うなら幸福度もきっと変わってくる。

そこで美味い料理とかがでてくることで、どれだけ幸福度に影響があるかと言うと、それはそれなりに影響はある。静かな森のカフェで美味しいコーヒ、はたまた温泉は、それは確かにいいものけど、ただ言えるのはそれが幸福度の支配的な要因ではないと言うことである。何かと言えば上に書いた通り。

贅沢をするのは悪いことではないけど、贅沢で幸せになるってことはわたしはないな。もう金に困らないって身分になってから20年近いけど、自分なりにいろいろ贅沢は試して、それで次第に質素になってきている。まあだいたいやったのでもういいかなって感じである。それと人から多分に営業目的で金持ちの扱いを受けるのは私は最近快適に思わなくなっている。やめてほしいと思うくらい。ブログってのはいいよね。いくらこうやって書いても誰も特別扱いしないというかできない。別世界を覗き見ているだけである。だいたい私の暮らし向きは十分に贅沢であると思う人が読者の大多数だろう。

それにしても思うけどゴルフで自己肯定感を高めるのはかなり厄介である。やればやるほど自己嫌悪とまでは言わなけど、なんて自分はバカなんだろうと思う。もともと自己肯定感が低い人はゴルフやらない方がいいんじゃないかしら? プロゴルファーの話なんか聞いているとみんな自己肯定感が高いという印象だもんね。なんだかおかしな収まりの文章になったが、まあいろいろ書いたな。なんの話だっけ?

全37ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

移転先変更です!クリックで確認
移転先変更です!クリックで確認
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

過去の記事一覧

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事