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午前中は那須ゴンドラで標高1400メートルを散策そしてハンモックで昼寝と読書。持って行ったお弁当は前日スーパーで半額割り引きで買ったおにぎり。ゴンドラの上からちふり湖カントリークラブが見えて、それでゴルフ場でなくちふり湖に行ってみたくなった。結論から言うとちふり湖に行く道はない。観光地でもなくただの農業用の貯水池みたいだ。上からはすごく綺麗に見えたのにな。
午後からはゴルフ場でアルバイト。仕事はきつくない。同僚によると栃木で一番従業員フレンドリーなゴルフ場だそうである。あくせくしていなくて緩いそうだ。まあそうでないと私も働かないけど。仕事を終えてからまだ太陽も高いので、それからハーフラウンド。お客がいなくなった静寂なゴルフ場をのんびりと目土しながら回る。ゴルフを終えて近くのスーパーに行くと惣菜などなど半額サービスになっている。適当に見繕っても大した金額にならない。気が向けばホテルまで歩いていってコンサートを楽しむ。 しばらくするとカミさんがやってくる。今度はステーキレストランに行く予定。それでゴルフ2ラウンド。一緒にさいたまに戻りまたカミさんとゴルフ、そんで美味しい手料理にありつく。 こんな暮らしをしているとお金は減りようがない。だがこれが私の夢と言うか願いの実現なんである。中学高校それからせいぜい大学時代、いつかこんな暮らしができたらどんな幸せなことかと、私が夢見た生活である。子ども若者の時の夢を実現してそしてそれ以上を私は望まない。 私は子供の頃児童養護施設にいた。わたしと同世代の施設の子どもは1万人くらいはいたとして、多分私が一番優雅な生活をしているだろう。わたしは一万人に一人の幸せ者である。これ以上何を望めと言うのだろうか? 自分の願いを実現した人間は幸せに決まっていると思う。だが問題はその願いが成功に連れて変わっていくことである。カルロスゴーンはベルサイユ宮殿で結婚式をした。彼の生い立ちは詳らかにしないけど、ベルサイユ宮殿での婚礼は彼の子供の時からの夢だったのだろうか? 多分否である。成功するほど望みも高まった結果ではないか? つまり夢が一人歩きしてそして初心は消え去ったと想像する。 我ながら私は偉いと思う。成功しても増長することなく若い頃の夢を実現して素直に喜びそれ以上を望まない。たぶん幼少期の過酷さがあまりに強烈で、初心忘れたくても忘れられないのかもしれない。大きな病気をした人は人間的に大きく成長すると聞く。理由は生きているだけでありがたいと骨身でわかるからである。わたしは子どもの頃、普通の幸せ、せいぜい+α に憧れた。普通の家の子が羨ましかった。あんなふうになればどんな幸せか? そしてわたしはそれを実現した。多少のオーバーシュートは致し方ない。だがもっともっととは到底思えない。 その意味では神さまは私に良い経験を与えてくれた。自分の運命には素直に感謝する。生かした私も多分偉いんだけどね。なぜなら私のような経験をすると滅多なことでは私のようにならないからである。一万人に一人の話ということである。 |
人生の考え方
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スキーのシーズン券があるのでグリーンシーズンも無料でゴンドラに乗れる。雪がないゲレンデは時々見るけど割と急だなと思う。これではゴルフはできない。やらんでいいか。 ゴヨウツツジの季節。ゴヨウツツジの合間から茶臼山を望む。 ハンモックのんびり寝る人はあんまりいない。私くらい。皆先の予定があるから昼寝までしている時間はない。 よく癒しとかストレス発散とか言うけど、それだとマイナス方向を埋める話でしかない。普段ストレスフルな生活をしているから癒しという話になる。これが普段からストレスとか心配事とかなければ、これは癒しではなく緩みとなる。強ばった体を元に戻すのではなく緩んだ体をさらにさらに緩ませるということ。呼吸法の目的も究極この緩みを得ることである。 癒しと緩みの差は、言うなら家賃を払う側ともらう側くらいの差だと言えばわかりやすいか? もし今家賃を払っている人が明日から家賃を払うどころか、それがゼロになってさらに家賃分のお金が毎月振り込まれたらどんな気分だろうかと想像いただきたい。あるいは住宅ローンを毎月返済している人が明日からローンの返済が免除されて、さらに返済額と同じ額が毎月振り込まれたらどんな気分になるか、これが緩みと癒しの差がくらいの話である。多分だけどね。 体が強張る人はどんどん強張り、緩む人はどんどんと緩むというまさに不公平格差拡大のサイクルである。わたしと同世代の知人友人で人生どうしてこうなっちゃたんだろうとぼやく人間はそれなりにいる。それに比べてハルトモは天国だなあとなる。そのどうしてこうなっちゃたんだろうと真面目に論理的に考える人間は見ない。ぼやくだけで真剣にそこんところ考えている様子は私が見るにない。 であるから今更ぼやいても意味はないことになる。自分でわかるくらいなら数十年の間に修正できたはずである。考えて行動に移すならそれはずっと前の話であったということ。まあ敢えてアドバイスするなら気にすんなということくらいか。 |
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先日韓国の元同僚が東京に遊びにきてそれでタイ在住の元上司とも3人で楽しく飲んだんだけど、そのかつての上司が日本で一緒にゴルフをしようと言う。現役の時にも時々ゴルフをしたことがあって会社を辞めた後も何年か前にゴルフをしたけどスコア的には130くらいで一緒にやっても面倒なだけで面白くない。だが上手くなったから迷惑はもうかけないとか言う。本当かなとは思いながら無下に断るのもなんなんでカミさんとのホームコースのラウンドにお招きした。
結論から言うと確かにうまくなっていた。小技とパットがうまくなっていて100くらいでは回る。ただかなり頻繁に点数を言い間違える。多くも少なくも言う。多く言った場合にはわたしが修正してあげる。いやいや7じゃないですよ、6ですよ。少なく言った場合はそのままである。気分良く回って貰えばそれで良い。聞くとタイで週二回くらいラウンドしているそうだけど、タイでは専属のキャディがついてスコアはキャディが数えて記入してそれで帰る時に渡されるそうで自分じゃ数えないそうである。ホールごと数字を言われるがキャディが間違えることはないみたいだ。
それで思い出した。遡ること30年くらい前に、前の前の会社のゴルフコンペに出てそんで平社員だったわたしは割と少なめに言う傾向のある課長がダボなのにボギーと言うと、いや違うでしょなどと平気で修正した。たぶんその課長は気分が悪かっただろう。だからどうということはなかったのだが、その後のわたしはどこかでそういうことをしなくなった。極端な話インチキしても言わない。そこで1−2打誤魔化してもどうということはないし指摘をすればそれを証明するのも面倒だしどうでも良いことである。
長いものに巻かれるというわけではない。むしろ言いたいことはよりはっきりと相手構わず言うようになっていて、そんだけ好きに言うだけ言っていると、細かいことまでは言う気が無くなるのである。どうでも良くないことだけ言いたいことを言っていても十分忙しい。ゴルフの時までそんなことする気にならないというわけだ。きっと若くて言いたいこともやりたいことも自由にできないからゴルフの時に言いたくなったのかなと、今はそう思うがよくは覚えていない。
カミさんは最後大叩きで47、49で96。他にも大叩きがあり90ちょっとでは回れた内容であったがスコア的にはだいぶ安定してきた。わたしは42、40で82。素トリが出たのが痛かった。
ゴルフの後に元上司と夕食を軽く食べたが、話の内容は投資の話が多い。元上司はもう使いきれない金を持ってるのにいまでも熱心に投資をしていて、理由を聞くと儲けるのがおもしろくて仕方ないそうである。そう言えば栃木の富豪も同じことを言っていた。金儲けが面白くて仕方ないと。だから使いきれない金があってもまだ儲けたい。欲もあるんだろうけどむしろそれが楽しみ。わたしのゴルフみたいなもんみたいだ。
湘南のリッチマンもやはり言っていた。株は楽しいと。相場師のブログもいくつか読んでいるがやはり、相場=儲けるのがが楽しくて仕方ないみたいである。そのあたりはわたしと決定的に違うところだけど、うまくいって儲かるものを止める理由は普通ない。でもわたしはそんな面白くもないのだからやる気がしない。要るだけは凄いパワーで稼ぐけど急に終わる。サラリーマンライフも急に終えた。この急というかパッと方向転換するというのはわたしのキーワードだと思う。パッと決めてサッと実行する。でも実は慎重だったり。相反するものを両立する。そういうのが好きなんである。お金への接し方も二面性が出ているんだと思う。
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何が痛快かと言えば、それは誰もがダメだと思われる中あれよあれよとうまくやりきってしまうことである。成功の大きさはさほど問題にならない。むしろ成功は庶民的な方が好ましいくらい。つまり結果よりもプロセスじゃないかしら。実際結果が大きいほど満足度が高いというのはわたしの実感と乖離する。栄達しても別に幸せではない。
美味いものを食べると幸せだろうか? まあ不味いものは食べたくないけど、美味ければ美味いほど幸せなはずはないよね。金があればあるだけ幸せでないのと同じだ。わたしが食べているものは幸せのメーターを振り切るには十分な気がする。カミさんの手料理はどんな一流料亭の料理よりわたしには満足度が高い。
わたしが何を言いたいのかというと、相場で稼ぎたいとただ思って漠然と稼げば稼ぐほど良いだろうと決めつけるなということである。間尺に合う自分なりの快適な暮らし向きは何か落ち着いて考えてみる価値はある。そのしたい暮らし向きの分だけ稼げばよいではないか? 分を超えるとかえって災いが来るかもしれないし、そのしたい暮らし向きもほどほどにしとけと言う気はする。
間違いないのは稼げば稼ぐほど幸せではないということ。金があればあるほど幸せか?美味いものを食えば食うほど幸せか?答えが明確なら相場も同じ。相場で稼げば稼ぐほど幸せなはずはない。もし稼ぎすぎたから浪費するのなら、それは美味いのを食い切れず残すか吐くようなものだと、わたしは思う。己をの分を知るということである。ただその分とは世俗的なヒエラルヒーとは無関係である。自身内面の人間力と言っていいかもしれない。
どう思うかはその人次第である。わたしの言い草を聴いて十分贅沢すぎると思う人もいるだろう。それくらいわたしはけっこうな暮らしをしている。一方金があるならもっと使えと思う人もいるかもしれない。そういう人は自分で使えばよろしい。人はどうでもよいことである。
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前の話の続きなんだけど、自分自身として痛快に生きればよいわけで他人の視線に阿る(読めますか?)必要はまったくないのだけど、ただそれでも結果として自分が格好いいなと思う程度に共感してくれる人間がいるからこそ痛快という言葉が引き立つという面はある。これはわたしの幸福論と同じ構造である。良いものなら共感する人間もそれなりにいるはずだと言うこと。
その意味でわたしが社会的な地位とかあるいは収入とか捨ててしまったというのは、わたしは自分ではすっとできたけど、できない人間が圧倒的に多いことは知っていて、そのぶん余計に自分では真似できんでしょって気分はあるしそれで共感を呼んでいることは事実そう言われるから自覚している。
会社を54歳で辞めたけど、今でも聞かれるのは早期退職ですか? 早期退職ならいろいろ割増もつくんだけど、わたしの場合はただ辞めますと言って辞めただけ。何の割増もない。まさしく自己都合退職。投資だってずいぶんと潔く辞めてしまった。やればまだまだ稼げそう? それはわからないけどいらない金を頑張って稼ごうとするのはわたしのスタイルじゃない。あまり強欲でないというのはこれは自分も人も頷ける格好よさにつながると思う。
わたしの場合、獲得するより捨てるほうにわたしらしさが出ているって気はする。稼ぐ方はまあ適当に稼いでおけばそれで良い。このブログを読んで真似したいという人間がほとんどいなのは知っているけど、でも参考になるって読んでいる人はけっこういるらしくて、それで稼ぐ方は明日やろうと思ってもできないだろうけど、捨てる方は明日にでもできるんだから真似してみようなんて人間いないのかね?
ハルトモは稼いだからなんとでも言えるんだって言われるかもしれないけど、そこはちと違う。わたしは若い頃2度も相続放棄している。揉めればいくらかもらえたけど自分で稼ぐつもりだったから要らないと放棄した。会社での昇進を放棄したこともある。得るよりむしろ捨てるほうが先にくるくらいだと思う。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれですよ。まあ実際は捨てないんだけど。潜るだけである。
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