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痛快に生きる

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カミさん手作りのナンプラー丼。暑い季節にはピッタリである。カミさんが作る料理をアップするだけでもわたしの幸福度が伝わるんじゃないかしら?いくら社会で栄達を極めてもあるいはいくら金を稼いでもそれだけでは別世界の人ということで羨ましがられることはない。むしろ妬みを買う場合が多い。わたしは実感としては妬みを買っている気がしない。わたしの生い立ちや若い頃を知っている古い友達はたいてい今のわたしを凄いなと賞賛してそして祝福してくれる。

大学を出て就職した最初の会社の人たちからは今でも連絡があるし一緒に飲むこともある。古い体質の会社でわたしのようには生きられないけど、でもどこかスカッとするなと思わせる部分がわたしの生き方にあると言ってくれた人もいる。自分にはできないけど自分の分までハルトモ頑張れとそんな調子である。我ながらなかなかいんじゃないかしら。

もちろんわたしに反感を持つ人間もたくさんいたと思う。特にわたしの行動を己の意に沿うように制御しようとした人間は悉く失望と怒りを感じただろう。ハルトモは制御不能である。わたしはそういう輩とは交渉はしない。脅しにもビクともしないし甘言にも乗らない。達観と言ってよいのか、人生はひたすら生きてそして最後死ぬだけである。墓場に持っていけるのは思い出しかない。であるなら後悔するような真似などすべきじゃない。かと言ってみじめに朽ち果てるのは論外である。カッカと笑いながら痛快に生きる。だからこそ他人からみてもスカッと感じるのかもしれない。

幸福論の限界

人間かなり年を取ってから、何かに気付くってことはあると思う。それがだいぶ後の方だと後悔ってことにたぶんなる。散々やってみてそこで気付くということもあるし気づかないこともあるんだと思う。気付くと言ってもそこは絶対的な答えではなくその人なりの結論ということである。死ぬまで変わらなければそれはそういう人ということ。

何十年と働いてきて、、、、結局会社ってのは、、
いろいろと美味いものは食ってきたけど、、、
ずいぶんと贅沢もしたけど、、、
ここまで生きてきて、、結局人生ってのは、、、
、、、結局お金ってのは、、、
人間にとって幸せとは、、、、

いろいろあるだろうけどもし考えが変わるなら、それは早く気付いた方がたぶんいいんじゃないかな、とは思う。それで修正するなら後悔はしないで済む。わたしの場合は30歳から50歳までにいろんなことに気づけた。それでずいぶんと行動も変わった。もちろんずっと変わらずにいることもある。それはそれで信念としてずっと持ち続ければ良い。

幸福論という論議があるのかないのかよくわからないけど、自分なりの幸福感を確立するのは早くすべきである。なぜなら自分の幸福というのは、幸福とは何かなどと考えたり、あるいは結果を受け入れたりしながら論議するものではなく、自分の幸福感に則り人生そのものをまさに生きることが最重要であるから。

どんな立派な幸福感を確立しても長年その通り生きてこなかったのなら過去は変えられないからどうにもならない。つまり幸福論というのは、質以上に時期が大切でかつ行動を伴わないと後悔しか生まないということである。

わたしの場合はこのブログを書き出した少なくとも2005年には現在の幸福論=人生観に近いところに来ていたのは証拠十分であるけど、ある日突然出来上がるものではなくて、こうじゃないかなって仮説があって、そして実験というか実践をして、仮説を検証して結論を得て、さらに行動を重ねソフィスティケートして結論を確信に高めていく。確信が高まってきたらその確信を大切にして行動の質を高めていく。

それができた人なら、間違い無く幸せな人ということになると思う。生きていればいろいろあるけど、結果とか現状に合わせて適当に考えないことである。そう考えると安易な幸福論も多すぎるという気がする。よく言われる、多くの出会いに恵まれて幸せ? 家族がいて幸せ? 打ち込める仕事に出会えて幸せ? どれも感覚的には好ましいとは思うけど、それが本質かと言うと、わたしはちと首をかしげる。なきゃ不幸とは言えない。

幸せというのはそうやってあっさりと我が身に振り降りてくるものではなくて、よく考えて、行動して見直してさらに行動を積み重ねる。そうやって手間暇かけて自ら(ひょっとして誰かと手を携えて)作り上げるものだと、そういう考え方もあるんじゃないかしら? 少なくともわたしはそうやって生きている。幸福という状態は急に出現するのではなく、幸福度を高める長いプロセスがあって、それが人生って言っても良いと思う。


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このえごま油はなかなか美味しかった。主にサラダのドレッシングとして塩に合わせて使っていた。また買いに行こうと思う。

那須はまた静けさを取り戻して非常に好ましい。労働者がわずか10日の休みではしゃいでもそれもすぐに終わり。また働きバチに戻っていることだろう。働けるだけ、仕事があるだけ幸せなどと嘯いて。

最近は邦画を良く見ているわけだが、カモメ食堂というのは良い映画だった。フィンランドはヘルシンキで日本人女性が食堂を始めるという設定なんだけど、その主人公の生き方を語るセリフとして、「嫌なことはしない」もちろん脚本家が書いたんだろうが、ああ私と全く同じことを言う人間が居たんだなと感心した。私がこのブログで昔から何度も何度も書いてきていることである。

「好きなことをして生きる」と言う人はたくさんいるけど、嫌なことはしないはちと違う。好きなことだけでは視野が狭いかもしれない。まだ知らぬ楽しみを知るチャンスを逃すかもしれない。嫌なことは嫌と自分がわかるのだからしない。だがわからないこと、そんな好きだとは思えないことでも、案外やったら新しい発見があるかもしれない。実は好きだと気づくかもしれない。

このブログの始めた2005年の最初あたりの記事で私なりの幸福論を書いたことがある。自分なりの幸せは大切だが、多様な視点から自分を見て幸せぶりを判断することだと、それには他者から自分がどう見えるかも考える。こんなことを書いた。これもつまり嫌なことはしないけど、わからないことをシャットアウトしないという意味につながる。新しい世界を広げて行けば人生飽きるとか退屈するということはないはずである。

仕事をしていれば退屈しないで、引退後は暇で退屈だと感じる退職者は、自分に問題があることに気づくべきだが、どうもそれは難しいことのようである。仕事というマンネリにすっかり馴染んでしまったからである。新しいことをする覇気がない。つまり億劫。あるいはどうやっていいかわからない。せめて仕事を続けるにしても全く仕事を変えてみたら面白いなと思うけど、どうしても自分の経験を引きずる人が多い。

嫌なことはしない。私はゴルフが大好きだけど、ダフリトップは大嫌いだ。引っ掛けチーピンも嫌い。OBもスリーパットも嫌。でもその嫌なことをバンバカやってしまう。なんとかならんかなと心から思う。いつかゴルフで嫌なことがないラウンドをしたいものだが、まずは嫌なことは減らすことだな。 みなさんも人生で嫌なことはしないとまで行くためには気長に嫌なことをひとつづつ減らされたら良いかもしれない。そうするといつかいい塩梅になるかも。なりたくなければ好きにすればよいことだけど。
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厩舎で馬のそばで野良仕事というのは牧歌的でとても上質な時間を感じる。同僚はインド人なんで会話は英語てのもより異国情緒を感じたりする。

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これは道の駅でのイベントに繰り出した馬。体験乗馬1000円で馬の餌やりが三百円。乗馬も人気はあるけど餌やりは敷居も低いのでたくさん売れる。馬は普段は人参を腹一杯食べたこともないのに今日ばかりは食べるのが仕事、パンパンになってポニーは午後には食べなくなってしまった。サラブレッドはまだ食べるけど乗馬で忙しいので、それで餌やりを断るしかない。馬の食欲で売り上が決まるという商売である。

子供たちを馬に乗せたり下ろしたりで腕と胸が筋肉痛になっている。経験的にこういう仕事は多少きつくても腕の力で行う。腰を使うとなにかの拍子に痛める羽目になるからだ。ゴルフバッグも基本上げ下ろしは腕でする。60歳になって以前より腕が太くなって胸が厚くなった。アルバイトのおかげ。FACEBOOKとかで同級生の写真を見ると老けているなあ、と感じる。わたしは若い頃は老けて見えたけど今は老けては見られない。

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ゴルフクラブの試行錯誤も一段落して自分なりのセットが出来上がったので、1セットを自宅に、もう1セットを那須に置くことにした。夫婦とも。写真は那須のセット。なかなか強力なセットであるし、リゾートゴルフらしいおしゃれ感も出ているので、いいんじゃないのである。

10連休の後半は高速道路が大渋滞で東北自動車道はつごう40キロほど渋滞していたが、国道4号線は通常とかわらぬ交通量でむしろさいたま界隈は交通量は少ないくらいでいつもと同じくらいの時間でついた。一方高速は大渋滞で、だいぶ余計に時間と金を使うことになるわけだが、何も考えずに高速に乗る人が割と多いみたいだ。金も時間もないのであればおつむと体力くらいを使えばいいのにねって思う。金と時間があってもおつむと体は使った方が良い。減るもんじゃないから。むしろ鍛えられる。

損得勘定に長ける人

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この日を待っていたという感がある。最近は乗馬クラブで野良仕事ばかりしている。週に3時間なんで「ばかり」というのも変だけどとにかく乗馬クラブにお客が来ないのである。乗馬クラブじゃなくて厩舎である。それでも馬がそばにいての野良仕事は嫌ではないのだけど、そこに出入りする人のツテで道の駅での乗馬イベントを手伝ってくれないかと声がかかった。

道の駅でポニーとサラブレッドを一頭づつ、餌やり体験とか引き馬で 道の駅の中とそれから外に出たりする。私は大人も子どもも笑いを取りながらサービス精神たっぷりで応対する。馬の世界の人と言うのは馬に接するのは得意だが人と接するのは不得手という人が多いので、その点で私は図抜けている。子どもたちは大喜びである。賑やかなイベントでとても楽しい。

わたしは児童養護施設も働きに行ったけど、つまり子どもの喜ぶ姿を見るのが好きなんである。子どもというのは大人みたいに裏がなく凄いものに素直に反応して目をキラキラ輝かせる。大人になるとそのキラキラする目を多くの人は失ってしまう、まことに勿体ないことである。一生目をキラキラ輝かせて生きればいいのにね。

私以外に乗馬クラブだと思ってきたけど野良仕事ばかりで辞めてしまったアルバイトの人もいる。一時人がいなくて重労働できつかった時期もある。給料も遅れ遅れである。辞めるのが普通であると思うけど私は辞めなかった。耐性があるのと、なんとなく良いことがありそうだとかいう勘もあったし、それに大したお金でもないのに見えている部分だけの損得で物事を判断しないという私の考え方がある。見えていないけどなんとなく見える、という感覚である。

だいぶ昔の話だけどわたしは会社で営業所の所長に昇進させると言われたが親の病気で毎週静岡に帰っていたので転勤できないと断った。大してお世話にもなっていない親父の看病のためである。結果昇進が遅れた。私の同僚で親が病気なんだけどそれを置いてアメリカに転勤した人間がいて、その人間は出世コースを爆進してわたしからは見上げるような存在になったんだけど、結局わたしが営業のトップについて彼は私の部下になった。そういうもんじゃないかしら? 生き様に筋が通っていればそのうち運は向いてくるのである。そこがなんとなく見えるということ。だから目先の損得にフラフラしない。

乗馬クラブのイベントを終えて、夕方5時から手引でハーフだけ回った。最後ボギーで40点。最近はスコアがまとめやすくなっている。日が暮れて上がってくると、ゴルフ場が全く仕事が終わっていない。一人だけいたが連休であまりにお客が多くて混乱してしまったようである。

結局私が無給で1時間半一人で全部片付けをしてあげた。お金の計算も終わっていなかったのでそっちをやっていた。現場はそのままにして帰ってしまっても翌朝の人間がやれば良いと思うかもしれないけどそれでは翌日の人間が可哀想だ。私が元気でできるんだから、やってあげれば良いかと思った。もちろん私はこんなことしたんですよ、、なんてわざわざ同僚に言う必要もない。私が好きでやっただけのことでありタダ働きはバカバカしいとか思わない、私にすれば給料なんかどうでも良い。代わりにゴルフをさせてもらっているだけである。

生きていく中で損得にこだわらない、なんていう気はない。私は損得抜きで行動する人間ではない。むしろ損得大いに興味ありである。ただそれも長い視点で総合的に判断しないといけない。わたしは、自分の軸をブラさないとか自分の考え方を貫くというのは、一時損しても最後はプラスになるという自信がある。どこかでおかしくなってもまるでゴルフスイングの基本のようにそこに立ち戻ってまた体制を整えることができるのである。

そして一番大切なのは自分の納得である。ずっとそうやって生きていれば、しかたないなと思うことはあっても後悔することはない。まあいずれにせよ会社でもあるいは投資でもまた人生でも、わたしの損得勘定は素晴らしい出来である。結局私は損得勘定に長けた人なんである。
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