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書庫人生の考え方

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青春(YOUTH)

珍しく長く引用しよう。有名な詩だけど知らない人もいると思う。

青  春
原作 サミエル・ウルマン
邦訳 岡田 義夫

青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。

優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦(きょうだ)を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。

歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。

苦悶や狐疑(こぎ)や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ,あたかも長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。

これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。

引用終わり。

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毎週一度西野流呼吸法の稽古で渋谷に出る。西野先生は人生100歳でも青春と言われる。先生は91歳だが矍鑠として飛んだり跳ねたりまさに青春を謳歌されている。

この詩もウルマン氏が70代で書いたものである。青春という訳題がついているけど、YOUTHである。

この詩を読んで、我が意を得たりと共感するくらいでないとね。ああそうか、なんて思う人はすでにかなり老いているんじゃないかなと謹んで邪推する。
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朝起きてゆっくりとコーヒーをいただく。リゾマンから見る山々はいまだ冠雪。だが日差しは明らかに緩い。午前中はゴルフ、同僚とのラウンドを終えてから、社員価格で二百円のチャーハン(お客は450円)。それで午後1時半から勤務だがお客が少なくて4時過ぎには上がることにする。このバイト先のユニークなところは状況次第で早上がりできることである。それで4時から2時であがりラウンドしていた同僚と合流してまたゴルフ。ハーフを回る。結局1日ゴルフでその合間にちょっと働いたという感じである。働いている時間よりゴルフしている時間の方が長い。

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ゴルフクラブをたくさん買っている。
仕様を変えると全部換えないといけない。
買って試打してそれでバランス調整
いくらでも時間がかかる

練習場に半日こもった。
かなり満足のいく2セットが出来上がった。
ビジュアル的にも好対照である。
どっちがメインでどっちがサブと甲乙つけ難い。
こういうのを贅沢と言うのだろう。

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夕食の一部
豚バラ肉のネギ和え
ホタテのカルパッチョ
カミさんの腕もいいけど材料も良いので
ますますハッピーである

謙虚であるということ

もっとお金があれば、、と考える人はたぶんほとんどかな。わたしでも少し考える。株とか不動産投資でもそしてサラリーマンでも自ら稼ぐをの終わらせてしまったけど、もっとやっていればどうなったんだろうな? でも今より幸せだったとは到底思えない。

遊んで暮らせるから幸せという意味ではない。要るだけ稼いだらそこで終わるを潔しをして稼ぐに邁進して、実際スパッとやめるからこそ美しい、自分なりに納得できる生き方になる。その納得を差し出してまでお金をもっと得たいか? そうは思わないということである。

もちろんお金を稼ぐのはそんな簡単なことではない。何もせずにいくらでも儲かるならわたしも続けたかもしれない。だがわたしの稼いだ歴史は株でもサラリーマンでも勝負勝負の連続である。よく負けなかった。そしてこれくらいになりたいと思っていたくらいになったなら、そこから先は欲であり。その欲で走れば負けるかもしれない。負ければ今までも積み上げたものまで失う。ここが潮時ということである。

このブログで自慢し放題、自分は金持ちだ、頭が良いと、これは謙虚の真逆、すなわち傲慢に見える。書きたいように書いているだけだけど、これは実は世のいわゆる謙虚を重んじる人間への当てつけになっている、という意識はある。

本物の謙虚というのは自分自身に対して謙虚になることである。出来ないことをしない。自分に不相応なものを追い求めない。自分なりに足るを知る。ところが世の多くの人は他人にへりくだり、やけに謙虚を装うが、内面は私よりも強欲である。なぜなら不相応なできもしない結果を得てして追い求めるからだ。株で儲けようなんて人間のほとんどが負ける。これが謙虚と言えるだろうか?逆にできることをできると言うのは別に傲慢ではない。

かつてわたしはホラ吹きと言われた時代があった。だが今わたしのことをホラ吹きだったと言う人はいない。言うことやることホラじゃなかった。でも成功したんだからあまり自慢するのはみっともない、もう少し謙虚に振る舞う方が良いという人もいる。

そういう人は自分こそさっさと成功して自分で謙虚に振る舞えばよろしい。他人はどうでも良いではないか? 他人のことをとやかく思うのは他人の視線を気にする気持ちの裏返しである。つまり自分に謙虚より他人への謙虚をわたしに求めている。まあ好きにすれば良い。わたしには他人をたしなめる趣味はない。

ちなみにみっともないと思うなら付き合わなけば良い。わたしの態度に不愉快に感じる人がけっこういることは自分でも承知しているからわたしは意識してそういう人と距離を取ることもある。不機嫌にさせてまで付き合うのは失礼だし良いことはない。

生き様というのは全部ワンセットになっているのである。ホラを言うと言われた自分も、傲慢だと言われた自分も、そして自慢すると言われる自分も、株で乾坤一擲の勝負を張る自分も、そして会社での栄達そしてそれを捨てるのも、損得抜きで年寄りの面倒を見たり施設の子どもと向き合ったり、家族を大切にしたり、自然に振舞ってこの程度の人間ということである。一貫しているからこそ、部分だけ取り出して変えようとすると全部壊れるかもしれない。そういう危うさの自覚がわたしにはある。ゴルフクラブのセッティングのようにそんな簡単には変えられないのである。



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家からほど近い中華料理店はレベルが高い。いろいろカミさんと食べた。けっこう飲んでもお代は一万円くらい。高ければいいというもんじゃない。

娘がこの4月から社会人になる。就職する会社には保証人としてわたしが記名捺印をした。当たり前のことである。娘にとってもそしてかみさんにしても。だが遡ること三十数年前、わたしは新社会人として就職する時に実の親父と養母の茂子さんから保証人になることを断られた。親父が言った。他人に甘えず自分の力で生きていけと。わたしは働きながら大学を出たし、親父に甘えた記憶はなかったのだが、そのわたしに向かって甘えるなと親父は言う。呆れるより感心したのを覚えている。就職の保証人は借金の保証人になるようなリスクはない。そんで先日亡くなったおじさんに保証人を頼み、引越しのアパートの保証人も親父と茂子さんに断られたのでそんで先に社会人になっていた友達にお願いした。

さらに感心するのは親父も茂子さんも結局わたしが最後まで面倒を見て一生を全うした。わたしは親父の看病に6年間毎週東京から静岡に帰った。そのために転勤を断り昇進も遅れた。親父はわたしに一度たりとも感謝の気持ちは示さなかった。なぜなら感謝などしていないから。子供は親の面倒を見るのは当たり前、それが人の道だと言っていた。

なにせ自分が住む家を相場の数倍でわたしに売りつけようとした親父である。わたしが断ると親父は怒っていた。ハルトモのために言っているのにそれを断るとはけしからんと。親父の提案は奇妙だった。親父と茂子さんが住む家の相場は当時土地の値段しかなくいいとこ数百万円だ。解体費用をすると残るのは100万円とか200万円とか。それをわたしに1500万円で買えという。根拠はバブルの時、2000万円で売りませんかと不動産屋が持ちかけたこと。それだけである。だから1500万円は安いからハルトモは得だと。ローンを組んで払えと言う。もちろん親父と茂子さんは死ぬまでその家に住むという条件だ。もしわたしがイエスと言えばまったく見事なリバースモーゲージである。さすがにその提案は断ったわけだが、結局親父もそして茂子さんもなんの心配もなく寿命を全うした。わたしが全面的に面倒を見たからである。

このような環境に育った私であるから、全く独自の思考回路を養うことになった。世の中はまったく油断できない。人の言うこと、親の言うことなど信用できない。学校の先生の言うことも信用しない子どもであった。すべて一から自分で考える。自分なりの方法で自分なりに効率的に。

会社で上司の社長は東大卒であった。だが会議で話しているとわたしが、わたしが「その提案だと利益はかすかすプラスでしょう。ただ宣伝のためにやるかやらないか、そこが決断です。」などと言うと、まともに計算もせずいい加減なことを言うなと言う。そんで詳細な検討をさせること数日、わたしの言う通りの結果が出たが、顧客への提案時期は過ぎていたので、いわゆる時期を逸して商談は失った。社長は言った。結果はそうだが、ハルトモの勘で会社の決定はできない。商機を失うのは仕方ないと。

わたしは勘で言ったわけではない。いろんな事例を元に細かな数字は別にしてだいたいそんなもんだとわたしには瞬時に見えるのである。だが説明しだすと長くなるしツッコミも入ればじゃあ計算しろよとなる。それには時間がかかるというわけだ。東大卒の社長はわたしが彼よりもはるかに速く結論に到達することが理解できないし快しとしない。それは勘とかギャンブルだと考える。

学校の試験で問題を解くとする。なんでもいいけど答えが4.88だとする。正解は4,88であるから、だいたい5だと言ったら正解にならない。そして面白いのはだいたいで良いのならそのだいたいを導き出す手法は正解の4.88を導き出す方法とはまったく異なることがしばしばあるということである。当然のことながらその手法は採点では支持されない。わたしは問題を解いていて、だいたい5とわかるならそれもかなり早く、それで実用上十分ならそれでいいじゃないかと考える。細かな数字は暇な奴がのんびり弾き出せば良い。ということでわたしは可愛げのない生徒ということになる。

数学で記述式の問題があって、採点には考え方が問われる。きちんとした道で解にたどり着いたが最後計算間違えで一桁違って、4.88を0.488にした。その場合では考え方は合っているのでかなりの得点がなされる。10問中9問正解して、90点で間違えた一問もだいたいあっているから96点だとかもらっても、だが実社会ではどうだろうか? 桁違いの大きな間違いを一つすることで一生を狂わすのが人生である。だいたいの計算を間違えなければいいのに細部にこだわったあげくに、たまたまする大きなミスが致命傷になる。それも散々時間をかけて。それが人生である。

実社会では回答というのは常にタイミングと精度との兼ね合いになる。試験では制限時間いっぱい使えるが、実社会ではタイミングが変われば状況も変わる。先の東大卒の社長はいつも部下に聞いていた。いつまでに結論をだせばいいですか?まるで受験生が試験時間を確認するのりである。早く決断して行動することにより状況を打開することもあるということなど理解できない。

わたしはかなり頭の良い人間であるが、その頭の良さはさほど人から評価されない。誰もが認める正解をはじきだす丁寧な方法ではないからである。つまり先人を素直に踏襲する気持ちがない。一方で混沌とした正解のない世界ではやたら強い。例えば相場とか。あるいはビジネスでの新規事業の立ち上げとか。

いろいろ言うが結論は簡単である。わたしのようなけっこうな暮らしができるのは、それはわたしが頭の良いということの証左に他ならない。それもゼロから。いくら運が良くてもバカではこうはならない。

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スキーの先生兼ゴルフ場の同僚と待ち合わせしてゴルフラウンド。凄い強風であったが、お金を払っていないと思うとそれほど嫌だなとは思わない。多分小雨でも同じだ。もちろん本降りの雨ならやらないけど。迷うくらいならやる。別に全部回らなくても適当にやめれば良い。その分いい加減とも言えるけど。まあいい加減に生きているんだからそれでいいだろう。

スキーでは師匠と弟子だけどゴルフでは割といい勝負である。それでハーフ回ってさて後半と思ったら、師匠(スキーのね)が止めると言う。強風の中でゴルフをするとスイングが崩れると。そんな繊細なスイングには見えないんだけど、それはそれで構わない。悠々自適になってくると人の都合に合わせたりとかだんだん面倒になってくるものでその気持ちはわたしもわかる。気遣いなんてのは現役世代が頑張ってやればいいもんで一生続けんでも良い。

他人はどうでもいいのかてのとは違うけど、気遣いも他人によく見られたいとかあるいは向こうも気遣えよと、気遣い返しを期待するような気遣いはあんまり上等なもんじゃないと思う。そこは鷹揚かつ寛容、気遣いはいくらか自分がしても他人には求めなくても良い。人の態度に別に腹も立てない。人に怒るのはあかんね。

詰まるところ愛嬌かなて気もする。マイペースで気遣いなしで、でもなんとなくユーモラスで憎めないって人いるでしょ。そこに行きたいよね。そうするためにはそれほど高速でおつむを回転させない方がいい気がする。むしろ分厚いトルクで物事を考える。このトルクがなにかと言うと、その人の軸とか徳とか、あるいは価値観とか、、いろいろ言えるけどその人の本質部分ってこと。

さてわたしはもう少しアイアンが打ちたかったので一人で回る。最近出だしでやたらダフるのである。それがラウンドを後半になると良くなってくるので疲れて振れないわけではないみたいだ。結局グリップを2センチほど短く握ってそれでヘッドアップに注意するとだいぶ良くなった。ただまだ芯を食った感じがしないのね。古いプロギアのアイアンに戻そうかしら、なんて思っている。それか買うか。なんとなく道具のせいにしたくなる。でも去年も同じ道具でなんともなかったんだけどな。

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同僚のインド人なんだけど、馬装も適当にパッと乗って、そんで乗り方もなんかさほど上手くも見えないんだけど、でも気性の荒い馬を乗りこなしている。多分いろいろ考えてないのがいいような気がする。本当は考えているんかもしれないけど、そう見えないってのがいい。そのあたりがいわゆる人間の愛嬌ってとこに通じるんかもしれない。
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