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寄付するのは誰のため

児童養護施設では寄付というのはよく受け付けていた。寄付する人というのは、児童養護施設なりの恵まれない子供たちに役立てて下さいとかの思いでお金をくれるんだろうけど、ほとんどの人はその寄付をした時点で気持ち的には終わってるのね。実際自分のお金がどれだけ生きた使い方をされているかについてはあまり詮索しない、というか興味がない。

多くの寄付する人が勘違いしているのは、自分が寄付したことによって貧しい人とか恵まれない子どもとかが喜んでいると思うこと。実は寄付して一番喜んでいるのは寄付した本人なのね。寄付された方は別に嬉しくないですよ。所詮余った金、どこの誰か知らない人間がその余ったお金を送ってきただけの話。別になければないでどうということはない。寄付する方にしても、それなりに成功したかゆとりある生活があって、その恩返しとか思うだろうけど、実際恩返しの具体的な方法を考えると、寄付というのは一番手離れが良くて簡単で自己満足が高い。

児童養護施設の子どもとして自分も施設で暮らしたし、職員としても施設で働いたけど、子どもたちは何に飢えているのか?
お金に飢えている? まさか。愛情に飢えているのです。その愛情に飢えている子どもに寄付というお金。寄付すんなって言ってるんじゃないですよ。自己満足のためにどうぞおやりなさいってことです。一応お金はお金だし、実はわたしだって30年毎月送金している。ただそれだけのことって話。

わたしは54歳で会社を辞めて児童養護施設に行きましたけど、わたしの能力とキャリアなら今でも働いていても少しもおかしくない。それもかなりの待遇で。外資系なら65歳くらいまで軽く働ける。つまり仕事を辞めることで経済的にはぐっとマイナス。ではずっと働いて、それで例えば何千万円とか寄付した方が良かったですかね?わたしはそうは思わないのね。お金でなくて自分の時間と体力と気持ちを捧げた。理由はわたしがそうしたかったからですよ。つまり自己満足。そこの動機は寄付と同じです。ただ寄付より手が込んでいて多少子どもの気持ちも考えていて、どうだ、わたしのようにはできないだろうってのはある。なにせ自己満足だから。

法事を大切にする

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法事をする時にはなるべく美味しいものを手配する。もちろんケチらない。それで盛り上がれば故人も喜ぶしもちろん生きている人間も満足だ。かみさん方の親戚は皆法事を大切にする人たちばかりでそれだけでしっかりとした一族だと感じる。法事に呼んだり呼ばれたりで親戚間の親交も深まる。お互いの近況も知れる。法要の花も立派で親戚皆塔婆を申し出てくれて御墓参りも賑やかになる。これが逆に親戚が疎遠になり法事をやるにしても簡素で親戚もあまり呼ばないとなるといかにもひっそりととなる。故人もなんか淋しいのではあるまいか? どこの誰が言っていたか忘れたけど、人間というのは法事をしっかりとやっていれば間違いがないという言葉を聞いたことがある。墓参りや法事をしっかりとやる人間は、仏事をおろそかにする人間よりずっと人間として信頼できる気はする。



農耕民族と相場

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自分のブログにアクセスする度にでっかい表示で辟易とする。わかった。Xでもクリックして二度と表示しないとかできんのかな?
自分としては移転するのは構わない。多分それほどの手間ではないだろう。そういうツールが用意される。コメント欄は全部消えるらしいが、そもそもコメントドリブンのブログじゃないからきに気にするほどのもんじゃない。それと移転するってことは暫くなんか遊べんじゃないかしら? ネット環境の良いお洒落なカフェで作業をしたいね。


人間を二つに分ける考え方でこのブログでも狩猟民族と農耕民族という話は何度も書いているけど、相場で成功するには農耕でなく狩猟のイメージを私は持っている。サラリーマンは農耕民族ってことね。集団で農耕して収穫を、多分不公平な分け方をして、それで備蓄して、そんなサイクル。決して狩猟民族の方が稼ぐ力があると言っているわけではない。狩猟民族で稼ぐ力がないとすぐに淘汰される。農耕はそこが助け合いということが起きる。集団を維持するためだ。農耕民族の集団で狩猟民族みたいに振る舞うと勝手にしろと困った時に助けて貰えない。そんな農耕でもなく狩猟でもないという中途半端な状態は困るので皆良き集団人として振る舞う。


農耕民族は今年の作柄が悪いとすぐに来年のことを心配する。あるいは伐採とか灌漑とか数年単位で事業を起こす。品種改良も手間と時間がかかる。食べ物の備蓄も長期間。つまり農耕民族は時間軸が長いのである。逆に言うなら相当先のことまで見渡せないと不安で仕方ない。この不安が農耕民族のメンタリティを醸成する。子どもの頃から随分先の進学とか進路とか心配して必死に勉強してレールに上に乗り、そして順調な人生を歩みたい。これは農耕民族だから思うこと。狩猟民族はもっと視点が近くてそんな来年再来年なんて考えない。そんで狩猟したらすぐ食べる。備蓄という考え方もなくはないがそこは生物だけに弱い。それにそこらに獲物が見えているならまあある意味生かして備蓄してあると言えなくもない。

狩猟民族はこの今の生活を優先する。もちろん将来を考えるけどそれはかなり近い。今が楽しいが大事。一方農耕民族は将来がいつも不安だから、現在より将来を優先する。将来のために現在を犠牲にすることを厭わない。今より明日を楽しくしたい。さてこれが連続するとどうなるだろう? 農耕民族の将来は次々と現在となって時間の流れ通りに自分に押し寄せる。将来は自分の影みたいなもんで踏もうと思って先に行ってしまう。人間には寿命があるし老いもある、気がつくと随分と年をとって、あれ変だなと思った時にはもちろん狩なんてできない。

農耕民族が狩猟民族に変身することはあまりないような気がする。生まれて長年刷り込まれたものは変わらない。もちろん農耕民族でも狩猟民族が混ざっているのでそういう人は狩猟を始めてもうまくいくかもしれない。もちろん可能性は低いんだろうけど。自分は狩猟民族か農耕民族か?そこは一度考えてみたらよろしいような気はする。相場を農耕的な考え方でやらない方が良いとはわたしは思うから。
死を迎えて多くの人が後悔することなんて本がたくさん出ている。思うけど死ぬときに後悔する人間てそんなに多いのかね? もう死ぬんだからそれこそ後悔する意味はないって気が私はするんだけど。そんでね、その後悔てのは生きている間にしなかった後悔なのかしら? けっこう長く生きてきたんだったら、死ぬ直前になって後悔? それはないんじゃないの、て気がする。

この件に関しては人にどうこういう気もしない。自分の人生だから勝手にすれば良い。それでもし後悔する人はそれはちと、間抜けだったということしかない。自分がその気になればできることをやらなかったんだから。死ぬ間際で後悔してどんすんの? どうもこうもないわな。死ぬんだから。

まあ、わたしのような人生を歩んでいたら後悔することはないね。死ぬ直前だろうが生きている間だろうが。似たような意味の言葉で、もう一度やり直したいとか、あるいはあの時に時間を戻したいとか、そんなこと言う人間じゃあ、やり直しても上手く行くとは思えないな。わたしなんか人生やり直したくないね。こんなうまく行く人生、もう一やれって言われてもね。

お金があるとないとで

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雛祭りはこれと鮭イクラご飯が我が家の定番。でも娘は車に乗って友達とラーメン食べに行ってしまった。なんか美味いラーメン屋があるって聞いたんだって。

お金があるとないとで何が一番違うのかと言うとこれは気分なんですね。同じことをしていても気分が違う。嫌な気分で生きるのとご機嫌な気分で生きる、この差は天と地くらいあります。例えば会社で理不尽な指示に従わねばならない。これがお金があっていつ辞めてもいいのだけど、まあここは聞いといてやるか、適当にやればいいや、あんまりガタガタ言うなら辞めてやる。そう思いながらやるのと、上の機嫌を損ねて査定を下げられたり昇進が遅れて生活に影響がでたら大変だ。嫌だけどやるしかない。こういう気持ちでやるのと、この両者の気分の差と言ったら大変なものです。結局誰が決定権を持っているか、また自分に選択肢がどれだけあるかで気分が違うということです。

スーパーに言ってタイムセールで割引になる。そこで安い値引きされた食材を買う。大して美味くもないけどたまには安くていいや、そんな気分で狙うタイムセールはゲーム感覚で楽しい。実際高いものだって躊躇なく食べている。それがお金がなくてタイムセールを狙うくらい節約しないと暮らしていけないなら、食べながら、ああみじめだなあって気分になるかもしれません。

那須のリゾマンで1人で居る時、これは気分は一人暮らし。なんかわくわくして楽しけど、もし本当に独り者でそれで狭い部屋で1人で暮らしていたら、わくわくなんて決してしないでしょう。その暮らししかないからです。わたしが楽しいのはそのリゾマンに家族も来るし、そして自宅に戻れば家族がいて美味しい手料理が待っていることがベースにあります。いつでも帰れる家があっての旅の延長としてのリゾマン。選択肢があるということはすこぶる気分が良いものです。

そう考えてくるとお金は使うためにあるんですが、使って何かを得る気分の良さより、選択肢を持つ気分の良さというほうが大きいくらいだと思います。じゃあ使わずに貯めておけという話とは違います。選択肢なんだから、それは実際選択する場合だって出てくる。それで使うということです。つまり選択肢があることを生かす行動力も必要になる。いつ会社を辞めても良いと言って本当に辞められる、そして次の世界に飛び出していく、そういう行動力があってこその選択肢なんです。

いくら金があっても自分の選択肢の多さ、つまり自由度を実感できない人は、なにか問題のある生き方暮らしをしているということにもなります。戦線を広げすぎてしまったかあるいは沸き起こる欲が自分を支配しているとか。こうなるといくら金があっても足りない気分になる。選択肢がないからです。お金を十分なだけ稼ぐことも大切ですが、自分はどう生きるかでどれだけお金があれば自由を感じられるかも変わってきます。

わたしのブログは幸せに機嫌よく生きるヒントに満ちているなあって自分で思います。そんな難しくないと自分では思うのですけどね。
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