|
わたしも大きな組織にいたしいろんな人を見てきたけど、こういう人の方が多いよね。わたしのような人間はそれは非常に珍しい。ほんの少しの差なんだけどね。どうにもこっちに来れないのね。ということで多少のストレスは誰でもあると思う。ただこれも程度問題であまりストレスが強いと身体とか精神とかに不都合が出たりするからそうならない程度にマネッジするってことんだろうね。ストレス発散てのもあるよね。
でもストレスを抱えた人間がストレス発散が必要ないくらいに根本から変わるというのはほとんどないんじゃないかしら? わたしは見たことない。いくら本を読んだところで人間なんてたぶん変わらないよね。じゃあどうすればいいのか?て実際はよくわからない。あえてアドバイスをするなら行動を変えるってこと。
内部からじゃ変わらないから外部からってことだけど、その行動を変えるのもたぶん相当難しいという人は、どこか呼吸法の道場に通ったらいいんじゃないかなて思う。呼吸は大切だね。ストレス抱えている人間はまず間違いなく呼吸が浅いから。肩が上がっているし呼吸も早いから見るとわかる。逆にどの世界でも達人は呼吸が深くて乱れない。
全快とは行かないだろうけど多少はましになると思う。そのましになった程度でやっていくしかないんじゃないかしら?わたしはこのブログで呼吸法のことを何度も紹介している。わたし自身は20年毎週通い続けている。それで実際はじましてってコメントなどもらったこともないし誰も行ってないと思う。そんなもんである。人間というのは基本的にあたまでっかちだから、わけがわからんとすっと動かない。でもその頭ですよ、人間の身体とか心を痛めつけるのは。
|
人生の考え方
-
詳細
コメント(4)
|
ホームゲレンデはかなりまとまった雪。
パウダースノーを楽しむ。
あまりエッジをきかさずにポンポンと板を下に落としていくと
うまく滑れた気がする。これはこれで楽しい。
スキー板履いていても見えなくなっちゃうくらい。
この冬の暮らし方
週に1度は呼吸法の稽古に
週に2−4回はスキーに
週に1回はさいたまでゴルフに
週に1−2回ゴルフ場でアルバイト一回3時間(できればラウンドも)
週に1−2度は乗馬クラブでアルバイト3時間(できれば乗馬も)
週に2−3回はフィットネスジムに
映画は週に5本くらい
読書は週に1−2冊
別荘とは別に月に1度は夫婦でお泊まり旅行
ブログ更新はほぼ毎日
アルバイトとは言え働かなくても良いという人はまずいないしそれなりに予定も組むわけで、その日になって今日は来なくていいと言われたら(もちろん給料は出ない)普通は困ると思うけどわたしはハイハイ イイですよとなる。言うならサブ(補欠)である。
それなりにきちんと仕事はできるけど、今日はいいよと簡単に言える存在はたぶんとても便利である。勤務がオフになっても勤務先に行ってまかないの弁当200円を食べて帰る。弁当だけ儲かった。なんならゴルフをして温泉に入る。
乗馬クラブは一時行ったら誰もいなくて仕事をしないで帰る日もあったが、最近はスリランカ人が常勤がいて、それでも野良仕事はいくらでもあるので来てくれ来てくれと言う。でも悪天候になったら休むのでやはり不安定であるし、仕事もきついのでよほど馬が好きでない人は辞めてしまう。短時間でも機嫌よく働いてくれるわたしは便利な存在である。やはりここでも補欠。
補欠は来れば真面目に働くけど、休みたい日は休む。それで構わないという存在で休まれたら困るとは言われない(言えないだろう)。いてもいなくても良いと言うと言い過ぎ(わたしにね!)だが、いると便利だがいなくても大丈夫と言う存在である。(同じことか)。
この補欠という存在がこれが気楽でとてもよろしい。どんな世界でも補欠というのはあまり良い扱いを受けないし本人も不愉快に感じることが多いのかもしれない。また収入的にもレギュラーより劣る。たいていは我慢してやるものだが、わたしみたいな補欠は極楽補欠でストレスフリー。言うことなしである。
これからの世の中は長期的には仕事が減る方向だ。外国人もたくさん入ってくるし、ロボットが多くの労働者に置き換わる。そうなった時に幸せなのは極楽補欠である。
ロボットだって外国人だって1日2時間で良いと言われたら採算が合わない。そういう時は極楽補欠の出番である。
このブログでさかんに書いてきたが、これからは稼がずに豊かに暮らすのがキモである。わたしはバリバリの現役世代の時からそう喝破して準備して実行に移してきた。
そこがわたしの偉いとこだね。
|
|
昨日の続きでもあるんだけど、感謝とかありがとうとか、はたまた愛しているとか「どんなに何か思っていてもそれを言葉にして相手に伝えないと意味がありません。」みたいな人生のノウハウ本はいくらでもあって、これは現代では当たり前のような話になっている。最近でそれはおかしいて言う人はまず見かけない。
だからわたしが手を挙げるんだけど、それで思うにどうやら古き日本人はそうではなかったんじゃないか? 江戸時代とか明治時代とかいやそれよりもっと遡った時代に生きた日本人はコミュニケーション能力が現代の人より低かったのか? これは比較を定量的にしようとは思わないけど、それこそテレビの時代劇をみても歴史小説を読んでもむしろ現代より情感は豊かではあったのではないか?となんとなくそう思える。
つまり言葉ですっと表現する代わりにありとあらゆる手段を使って、そしてそれは主には行動になるんだろうけど、何かを伝えるという努力はやはり全力をあげてきっとなされていた。一方受け取るほうも、言葉になっていなくても、あるいは限られた言葉からでも、そこから「感じる」という能力が現代人よりもずっと高くてやはり全力をあげて感じていた、そういう時代もきっとあった。なにせ古の日本人は遠回しな歌をしたためて気持ちを伝えていたらしい。(たぶんそれでも当時は勇気ある直接的アプローチ)
それが言葉で直接表現することが主という時代になってくると、それは言葉は便利ですから、その方が伝わりやすい。聞く方もそれは感じるより聞いた方が楽だから、それは良いことばかりだと思うのは、ちと違うとわたしは思う。きっと代わりに我々は何かを失いつつある。言うなら言葉の中身です。本来伝えるべき中身が、あまりに便利な道具のためにスカスカに軽くなっていっているのではないか? そして受け取る方も感受性はだいぶ鈍くなっているのではないか。そんな気がする。
現代人は冷たいとか鈍いとか無機質だとかそんな議論をここでしているのではない。わたしが興味深く注目するのは、その感謝という言葉の目盛りがぐっと下がってしまって、さほどのことでもないのに「謝」が多用される。もちろん重くも使われる。感謝をいう気持ちにも1から5くらいあったとして、その1から5を表現する日本語が実用的にあまりないのである。したがってなんでも感謝、ありがとうですんでしまう。古くは日本人はそこを言葉で表現してこなかったからである。これが面白いのは、喜ぶ気持ちを表現する言葉は調べるとたくさん出てくる。欣とか悦とか慶とか賀とか、はたまた愉とか、そこから表現が多様に組み合わされる。
それでも、言わないよりは言ったほうがいいだろうという反応は聞こえてきそうだが、その言う中身とはいったい1から5のどこなのか?そして4とか5なら言っておしまいではそれはないだろう。だったら軽くいうなというのがわたしの前の記事でもある。
でも面白いなては思うのは、気持ちを行動で表現するとなると、実は知恵と行動力が高いと感謝の気持ちが高いと勝手になってしまう側面がある。わたしの親がどっちもあかんたれで離婚してわたしが児童養護施設にいた話はこのブログの読者ならご存知だろうと思うが、わたしが親父の看病のために6年300回毎週東京と静岡を往復したとか、あるいは震災の直後に単身気仙沼に乗り込んで実母と伯母を救出したり、その後現在にいたるまでの顛末も、それは親に対する感謝の気持ちがあるからだとか、やはり親子だからとか、そういう美談に収めやすいのね。でもわかる人はわかると思うけど私の行動規範はそこにない。たぶんわたしが感謝していたらもっと凄いことになるんだけど。
|
|
土曜日は激混みでしたが日曜日のゲレンデは空いています。何故か? 明日からの仕事に備えて1日遊ぶのは憚られるからです。健気なサラリーマンは休日とはいえその最後は会社のために捧げるのです。わたしに言わせるとまさに哀れ。おかげでわたしはのびのび滑れます。
さてタイトルの話題ですが、わたしは「感謝」とか「〜のおかげです」などと言うセリフを好みません。もちろん言葉に罪はありません。使う人間の方に問題多しというのがこのセリフで、感謝という言葉くらい、それをさかんに弄する人間の実際の行動と乖離する単語はないのじゃないかとわたしには思えます。
感謝していると言う割にはその人がどうにも感謝しているようには見えないということが多い。そもそも、わたしが儲かっているのは(良い暮らしをできるのは)皆様のおかげですっておかしくないですか? 本当に感謝しているなら自分の儲けを差し出したら。それくらい感謝という言葉は重いものじゃないでしょうか?そんな軽々しく感謝の言葉を口にしなきゃいいのにってわたしは思います。
「ここまで育ててくれた親に感謝します。」 「わたしに関わりあったすべての皆様に感謝します」 へ? そのあたりの知り合いと親が一緒ですか? 本当に親に感謝していたら、同じ表現をその辺りの知り合いに使えないでしょ? 逆に知り合いに感謝するなら、親へもその程度ですか? ということになります。
つまり単語として、現代社会において感謝という言葉はかなり安く使われている。それはちと考えればわかることですから、わたしは安易に使いたくない。では安易に連発する人間の心持ちはいかなるものかと邪推すると、わたしは打算以外に答えが思いつかない。敵を作りたくないとか、もっと言うなら他人をますます利用したいとか。あるいは他人の目を気にしているとか。ただその打算はひょっとしたらその人自体も自然なものと受け止めている、だから案外強固な確信となります。実態は自分の得なのにその得は己の徳の余禄と自己洗脳する。
この世でうまく行っている人間ほどよく使うのがこの感謝という単語なんです。わたしは滅多なことでは使いたくない。もちろん本来の意味がありますので、わたしも感謝はします。でもとても限られた使い方です。筆頭はカミさんですけどね。ただカミさんとわたしの関係は感謝という言葉は実際あまりしっくりときません。それより、嬉しいとか楽しいとかワクワクするとかそんな言葉がしっくりくるんですね。わたしは実際夫婦で楽しくワクワクやってます。
|
|
高校生の頃ジョンデンバーが好きでカントリーボーイに憧れてました。どうやらその夢は叶いました。カントリーライフ満喫の今の私ですが、その裏には世俗的成功の断捨離があったわけです。何十年かかけて築き上げた、社会的地位、仕事の人脈、収入など54歳で全部捨てちゃった。社長候補だったんですけどね。そして新しい世界でまた一から生きる喜びは、これはやったことがないとわからないと思います。大変ですけどね。どこに行ってもペーペーからです。よく断捨離という話題で物を捨てることを指していますけど、物なんかあってもそしてなくてもどうでもよろしい。数十年かけて自分の身にまとわりついたシガラミこそ断捨離する価値あるかもとわたしは思いますが、どうです? 皆さん?物は捨てらてもなかなかわたしのようにはできないでしょ? だからわたしがカッカと笑うわけです。 |


