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ロングレンジプラン

日本の会社にいた時は確か目標設定とかいう言葉であった。確か3年先までだった。ただそれとは別に提言とか言って、10年くらい先までこの会社がどうなるかを提案させられた。外資系に移ると、LRP=Long Range Planでこれは5年先までの事業計画を各人が作成させられた。させられたという受身的なやる気のない表現をしたのには理由がある。長期事業計画と言いながら、それを作る各人の処遇については何の議論もなく5年後にどのポジションにいるのか全くわからない。会社に居られるかさえ怪しいのである。人事とか給与とかこの肝心の部分はオープンにされることがない上で、お前は何ができるのか計画を出してみろと、これがロングレンジプランである。

私のように他で稼ぎがあって会社との距離感が大きい人間ならいざ知らずほとんどのサラリーマンは経済的には会社べったりである。つまり会社での自分に対する処遇は、まさに個人単位のロングレンジプランで極めて重要なはず。でなきゃ子育てだ家の購入だの経済的な判断は難しい。ところがその部分の議論などなく会社への貢献だけが議論される。これはほとんどのサラリーマンは当たり前のことだと受け止めている。いつ転勤になるかどうなれば昇進するのか給料はどれくらい上がるのか、そんな先の保証などどこにもないのはサラリーマンの宿命だとどこかでそう信じてしまっている。一方会社への貢献だけは先のコミットメントを求められる。

これが会社と従業員個人との関係をよく指し示している。従業員は外注業者ならぬ内注業者なんである。そこをよく理解して、自分の人生のロングレンジプランを作って、その上で会社のロングレンジプランを提案するべきなのにこれをよくわかっていないサラリーマンばかりであった。自分のことはお留守で会社の心配ばかりする。それで良ければそれで構わない。自分がどうなっても構わない。会社さえ発展してくれればともしそう思うならね。でもほとんどの人間はそうじゃない。それで肝心のことを曖昧にして、それで会社からの仕打ちでこんなはずじゃなかったとほぞを噛むことになる。

当たり前だけど自分の幸せは自分で考えないといけない。私は40代前半で営業とマーケティングの責任者になるつもりであったから、私をそう処遇せざるを得ないロングレンジプランを作った。新商品で今は売り上げゼロでも凄い成長率で売り上げを伸ばすと宣言した。長期計画を作る時点で現実的かどうかなんて重要ではない。これから現実的にすれば良いのである。大人しく這いつくばって給与貰いを長々する気はない。会社でのし上がれないなら辞めた方が良い。であるならのし上がれないようなプランを会社に提案するのはおバカである。まずはのし上がるプランを作る。もちろんよく考えてちゃんと実行するんだけど、いずれにせよ会社のロングレンジプランはまさに私のロングレンジプランと重なった。もし自分が作った計画が計画倒れであったら? 簡単である。辞めれば良いのである。会社は個人を利用する。個人が不正でなく堂々と会社を利用するのは当然だと私は思う。実は会社なんて計画倒れなど大口叩かなくても山ほどある。そんなもんである。

こう書くと簡単に聞こえるけど、そんな簡単じゃない。類い稀なプレゼンスキル、交渉力、計画は人を説得して唸らせるものでないといけない。そして果断な行動力なしにプランは実現しない。計画からずれることだってそれはある。そこでは説明能力と同時に愛嬌だって繰り出す。そしてなんにせよ結果を出すことである。大切な自分自身のロングレンジプランだからね。あまり目立たないけどサラリーマン時代の武勇伝をいくつも過去に書いている。我ながら愉快だった。総じて言えるのは痛快なサラリーマン人生であった。

10連休

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那須はまだ春とは言い難い。
桜もまだだし木々は秋の風情だし山は冠雪
その分これから楽しめると思えば良い。

世間は10連休をどう過ごすか?の話題で盛り上がっているようだけど、わたしは特段変わりはなくていつもと同じような生活になる。基本遊んでいる生活だからね。もうサラリーマンではないから自由なんだと言われるかもしれないけど、このブログをずっと読んでいる人ならご存知の通り、わたしはサラリーマン時代にGWは10連休、年末年始も10連休、それから夏休みは20連休くらい、長い休みを取っていた。自分の意思で。混雑を上手に避けていた。今度の10連休は多くの人がこぞって休みを取るのでずっと混むし値段も高いだろう。遊ぶのにも金がかかって体力を消耗する。まったくご苦労なことであるがそれでも休めないよりはましだということである。

日本人はこの「まし」という言葉が大好きだ。老後も働くが仕事があるだけましである、などという使い方。根っこにあるのは自分より下を見て、それで自分は幸せ=まし、だという思考方法である。逆に自分よりは上は妬み嫉み、大して価値はないだろうと思い込む。いくらお金があっても心が汚ければ、、、なんて言う人もいるけど、平均して言うなら、豊かな人間の方がおおらかで鷹揚で人に優しい。ただ金持ちの家に生まれると、全体として人間が軽くなるという傾向はある。世情にも通じない。ただこれは仕方ない。それだけ楽して育ってきたんだからそれで良いと思う。ずっと楽ならなによりだ。

ゴルフクラブ重量を全体として軽くしている。3番ウッドは335グラムから324グラムにした。これくらいなら変わりなく振れると思ったのだ。実際練習場ではいい感じ。ところがラウンドで二回も空振りした。実戦で力を入れて同じように振ると当たらないのである。この324グラムはもともと318グラム、さすがに軽すぎるからとそれに鉛を6グラム貼った。でも同じではなかった。

他のクラブは軽くしても空振りはしない。理由は明白でアイアンのように上から打ち込むのは金槌で釘を打つような按配だから、金槌は軽くしても空振りはない。ところが3番ウッドは横からの払い打ちである。軽い棒で横の一点を打とうとしたらそれは難しいのは想像がつく。

でどうするか?思い切って鉛を取っ払ってしまった。そしたら軽いのは当たり前。そういう意識が働くと不思議なもので今までとは同じに振れないぞと体が反応する。不思議なことだけどそういうものみたいだ。以前クラブが重いという人にもっと重いクラブを持たせると軽く感じたという話を聞いたことがある。手で無理無理打つ人はクラブを重いと感じるがもっと重くなると体が反応して体全体を使うようになる。遠心力でブンと振れる。結果手の負担が減って軽く感じるという理屈らしい。面白いね。


連休は10連休なんてわたしは大したことはない話だけど、普段長い休みがなかなか取れない人から見ればきっとずいぶんと長いと感じるのかもしれない。ただそれは休む前の話だ。多くの人はあっと言う間に10連休は終わるだろう。普段からあっと言う間という暮らし方をしているからである。中身がぎっしりと詰まっていれば、暮らしていて、あっと言う間とは感じない。わたしは那須に来てまだ一年もたっていないが、もう何年も住んでいるような気がする。まだ一年もたってないんだって感じである。一年どころかわたしのような生活だと1日も長い。

ということでせっかくの10連休と思うわれるなら、ぎっしりと中身のある10連休になされると良いとは思う。そのためには金と体力がいるんだけどね。いつも言うように時間と金と体力は三点セットなんである。

卑屈なる倫理観

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アルバイト先はアルバイト従業員が多いし正社員も若いので割と賄いが充実している。写真の弁当は200円でいただける。同じく日中ならレストランの賄いもあってそれも200円。もちろん足りない分は会社が負担してくれている。これを週に2日しか勤務しないわたしにも適用されている。有難いと言うよりちと申し訳ないなという気分になる。もちろん美味しく頂くので口だけ、いや口はパクパクか。脳裏だけの話だ。

アルバイト先だけでなく60歳になってかつ収入の低い年金生活者ということで、いろんな優遇が適用になることが多い。まず税金が安い。それから公共サービスも安い。入浴施設付きフィットネスクラブが100円とか。自分で言うのもなんだけど、こんな豊かな人間によく気前よくサービスしてくれるなと思う。私は自分自身が稼いでいる時から、今後は高負担の時代が来るから、稼がず豊かに暮らす算段をせねばいけないと、このブログで随分言ってきた。そして言ったことをちゃんと実現している。自分なりに先のことまでよく考えてそれでちゃんと実現すると言うことが多分他の人と違うところだと思う。一見いろいろ損しているようでいてもそれでちゃんとうまく収まっている。

みんな私みたいに生きればいいとは言わない。多分やることそのものが難しいんじゃなくて、受け入れることができないんだと思う。勇気がないってのも多少はあるだろう。真似して私のようになる保証はない。わたしのやり方ではどうにも上手く行きそうにないように感じるてのはあると思うが、加えて多くのサラリーマンには卑屈な倫理観が長年にわたり醸成されている。組織では上の言うことに従うものだ。組織人は組織を第一に考えてそれで始めて自分もある。これは倫理観と呼べるレベルまでに磨き上げられて、上の指示が間違っていてもそれを上回る勢いで上を肯定する。間違っているかいないかなんて考えてないてことも多い。上に対して批判の目を向ける。それさえいけないことだと刷り込まれているからだ。もちろん心の中には誰でも不平不満はある。そこから批判めいた考えも出る。だがそれを表立って言う人間はまず組織にいない。言ったらいられなくなるという恐怖感以上に、それは悪いことだと感じている。だから隠すのである。

ある大きな会社の人間と仕事上で親しくつきあう機会を得てわたしと同世代なんだけど、その彼が言っていた言葉を思い出す。ハルトモのようには生きたくない。ハルトモがやっていることは本当は正しいことかもしれないけど、社長じゃないんだから組織では許されないことだ。まあそういう話である。社長がなんだという人間とはもう違う生き物なのである。ちなみにその人間は定年まで働いて再雇用されてまた給料が下がっても働き続けるようだ。それで自分なりに小さな幸せをお感じのようだからそれは良かったなと思う。人それぞれである。自分がそれで良いと思うなら。

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三日間連続でゴルフをしたけど、ずっと調整で終わってしまったようなゴルフだった。三日間とも80台後半でスコア的にも冴えない。ドライバー、アイアン、アプローチみんなおかしい。それだけたくさんゴルフをやっていると上手くなるでしょうってよく言われるけど、私くらいになるともうやるだけでは上手くならない。ちゃんと考えて練習ラウンドするとか、あとはセンスとかの問題だと思う。それとラウンドすればするほどずれてくってのもある。これが厄介である。

今特になんとかしたいのはアイアンだ。とにかくよくダフる。それでボールの位置を変えてみた。ダフるところにボールを置けば良いだろうと、そしたら最初は良かったけどまたダフる。それで中にまた入れたらよくなって、そんでまたダフる。冷静に考えてもこれはおかしい。それでどうもテークバックでインに引きすぎていると気づいた。インに引きすぎると手前に入りやすいことは知っている。それで少しアウトにあげるようにしたら、きれいにミートする。これは良いと思ったら、アイアンが右に出て距離が出なくなった。まだなんかおかしい。これが現在。まあキリはない話である。またやればいいだけのことである。

リーダーシップとは

このブログを読んでいる人はハルトモの天衣無縫いや傍若無人なキャラクターを組織人としてイメージしているかもしれないけど、それだけではさすがに大きな組織では通用しない。わたしには実は二面性いや多面性があってそれを手を変え品を出すという変幻自在ぶりをサラリーマン時代は発揮していた。

わたしなりのリーダシップ論をたまには書いてみると、どんな組織でも集団でもそれは個の集まりである。自分で口に出す出さないはあっても皆立場は異なり考えかたも多様、当たり前のことである。それをどうシンクロさせるかがリーダーの技量である。表面的に従わせてもあるいは会議室で論破してもそれは意味がない。各人が納得して自分の力量を存分に発揮することで組織は結果を出す。そのプロセスをオーガナイズするのがリーダーである。

チームがひとつになるためには合意事項を積み重ねていく必要がある。仮にあるプロジェクトを達成するにあたり10の懸案事項があるとしよう。まず皆でその10についてレビューする。そうすると10のうち8まではだいたいコンセンサスが得られそうだという手応えがあった。さてどうする?

凡なるリーダーは合意が難しい10のうちの2について徹底的に議論をしようとする。ひょっとして自分の意に組み込もうと説得を試みる。いや論破だ。だがもともと立場や考え方が違う人間が集まっているのだからいきなり不合意が合意になるには心理的にも無理がある。お互いの信頼関係がまだ成り立っていないからである。そして2が揉めれば揉めるほど合意できそうに思った8にも疑念が生じてくる。そうなればチームは空中分解。人間とはそういうものである。

優れたリーダーはまず順番に10の懸案事項を整理してチームで検証する。そもそも合意不合意はあっても10個の懸案事項はどれも重要である。そして10のうちの8について合意を確かなものとしてまとめる。10のうち8の合意があるというのは素晴らしいことである。優れたリーダーはその素晴らしさを大切にしてそれをチームで共有する。その中でチームはしだいに気持ちを整えてベクトルが揃ってくる。

そうなって初めて、さてせっかく8まで合意してそれを確かなものと皆で実感しているのだからあと2個なんとかまとめようとチームを引っ張る。すでにチームはなんとかまとめたい気持ちになっている。であれば残った2個もなんとかなるのである。

優れたリーダーは合意を大切にして凡なるリーダーは不合意に執着する。いちいち差異にこだわりそこで相手を変えようとするのは愚策である。みながまとめたい気持ちになれば自然と人は変わるものである。もちろん自分もかわっていけば良い。リーダーは自分が変わることを躊躇してはいけない。結果を出すのが務めであるから。

会社でいろんなプロジェクトを手がけたが結局各人の納得を揃えることである。それはいろんな人間がいる。バカもいる。自分だってバカだと思われているかもしれない。どっちが上かは重要じゃない。結果を出すことが重要である。チーム各人が納得がいかずしぶしぶと従うような組織がアウトスタンディングな結果を出すことはない。逆に気持ちが揃うなら、思いもしないパーフォーマンスが出てくる。組織というのはそういうもので、まさに本物の達成感。それを知ったリーダーはいやチームはその快感を決して忘れない。成功体験はさらに続くのである。

今日はわりとまともなことを書いたな。





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わたしも普通の勤め人であればもうじき定年である。以前はずっと家にいてボケーとして家庭の邪魔者になってしまうのが定年後のよろしくないパターンとされていたけど、今やボケーとできる人はかなり幸せなほうではないだろうか? 

友人知人を見渡して60歳で仕事を辞めても生活が不安なく成り立つという人間はそんないない。ずっと働き続けないといけないって人の方が多いのである。

だからボケーとできれば幸せなんだけど、それでもただボケーとするのじゃなくてアクティブにまあ言うならハルトモ君のように暮らしたいと思うなら、どうすべきか?
これは同年輩に言っては悪いがこの歳になってから考えてもたぶん遅すぎる。

定年後気力が抜けたようになって体も動かない理由は、一言で言って、働きすぎたのである。体力も気力も仕事に吸い取られてしまって残っていない。もちろん体力も気力も再生産は効くのであるがその再生産のプロセスも失われしまっている。車でも物でもなんでもそうだ。使えば使うほどへたるに決まっている。

つまり逆に言うなら、自分自身をへたらせないように上手に使うことを現役世代は考えないといけない。たくさん休んでたくさん遊ぶのもリフレッシュという意味で良いけど、人間をへたらせる一番の要因は嫌なこと不本意なことをたくさん長くやることである。これさえ避ければなんとかなる。そうでない人は仕事というのはそういうもんだと思い込んでいるから始末が悪い。それで定年になって、さてと考えても遅いというわけだ。

シゲちゃんの静岡の家は結局、お隣の方に差し上げることにした。土地と建物丸ごと差し上げる。(ほぼ登記の実費だけいただく)鉄筋コンクリートなんで、まだ雨露はしのげる。お隣りはさしあたって犬小屋につかうそうだ。ずいぶん大きな犬小屋だ。どこかで折を見て解体したいそうだががいつかはわからないみたいだ。お隣の方なら長い目でみれば生かすことが可能であろう。うちがそのまま置いといても近所迷惑だ。うちは困るわけではないし手間暇かからなくてよかったくらいだ。

お隣は家を10年くらい前に新築してその時にシゲちゃんの家を譲ってくれないかと頼んだが、シゲちゃんが高く言ったので買わずに裏の土地を買ったそうだ。だから変わった作りの家になっている。シゲちゃんの家を囲む感じ。

ただこれは仕方ない。シゲちゃんだって売ってもどこかに住まないといけない。中古のマンションでも買えるくらいの金でももらわないと売るに売れない。その後認知症で埼玉に来ることになったけど、それは結果論である。誰も先のことはわからない。
人間は損とか得とか考えるといろんな行動をとることになる。上に書いたように自分自身をへたらせる。身内で相続争いなんてのも人間をへたらせるんだろうね。

自分では使わないものだから、使ってくれる人に差し上げる。わたしはそれでいいように思う。

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