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書庫サラリーマンライフ

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退職の手続きについては4月にいろいろ調べていた。そんで実際の手続きはそろそろやり始めなきゃいかんのであるがすっかり忘れてしまった。ということで再確認している。それぞれ電話したら親切に教えてくれる。以前も聞いていたはずだが、また聞けば良い。職員は年がら年中同じ質問をされてんだろうな。手続きは難しいことはない。ちょうどよい暇つぶしということになる。

1,健康保険 任意継続を所属の健保組合で行う。
期限 退職後20日以内
任意継続手続きの案内の書類通り行う。
用意するもの
扶養する家族の住民票と収入が確認できる書類

2,年金 日本年金機構で行う。免除手続き。
期限 なるべく早く
持って行くもの
免許証、離職票、印鑑
配偶者の手続きも同時に必要(免許証)

3,雇用保険 離職票を持って自分でハローワークに行く
期限 一年以内に給付を終了することから逆算
持って行くもの
離職票 1と2
マイナンバー通知カード
免許証
認印
3ヶ月以内の証明写真 2枚 3X2.5 正面上半身 免許用
キャッシュカードか通帳

4,事業者に出すもの
健康保険証を返却

こんなとこだ。電話しながらメモアプリでメモした。ボタンを押せばそのままブログに投稿されるからちょうど良い備忘録である。

ゴルフの会員権は多いときにわたしで3つ持っていた。それからかみさんが1つ。
1個すでに処分したので今わたしが2であるが、夫婦で正会員のコースだけ残して
もうひとつも処分することにした。理由は行かないからである。今年は正月に一度行っただけ。休みが自由になるならいろんなコースに行ったほうが楽しい。栃木とか群馬のきれいなコースにそれも旅行と絡ませて。ただ自宅近いコースはこれは実際プレーしているのでこれはずっと持っておく。夏は埼玉は暑いので暑さのがれに高原ゴルフなんかもいいね。実際7月8月には行く予定だ。高原ゴルフというとこれは群馬が良い。栃木は案外標高が高くないのである。今は標高アプリというのがあって地図上にピンをドロップするとたちどころに標高が表示される。便利なものである。ネットさえあれば世界中どこに行っても困らないという気がする。通訳アプリでコミュニケーションも取れるし、ネットでなんでもできる気がする。

そう言えばローマとウィーンの宿選びはようやく固まった。十分に検討した結果である。恐ろしく時間と手間をかけた。ブログも書いてられないくらい忙しかった。価格もずいぶん調べた。予約サイトを比較したり、あるいはホテルに直接連絡を取ったり。航空券はもちろんレンタカーも送迎サービスもそれぞれ自分で探して予約した。あと美術館とかいろんな施設の入場券も自分でネット経由で手配した。

まさにこれぞ個人旅行である。誰かに相談されて十分教えられるとは思う。もっともわたしのように旅行できる人間は滅多にいない。みんなバラバラで予約しているから現地でなにか合ったときには相応の当事者能力が必要になる。予定が変わるとかフライトが遅れれば自分であちこち連絡したり調整も必要だろう。ローマからウイーンに電話したりメールしたりもあるかもしれない。こういうのを苦にしないなら、わたしの旅のツールはなかなかのものであるが普通は真似しないほうがいいのだろうな。

だれの真似をしないのもわたしのモットーであるが、また誰からも真似されないというのもこれもわたしの矜持である。サラリーマンでも投資でもわたしの真似をする人間がいないのは、みなから見てわたしが上手く行くとは到底思えないからだ。ところがどっこいどういうわけかなにをやってもハルトモ君はうまくやる。ついているだけだろう。いつか転けるぞと思うけどぜんぜん転けない。まったく痛快である。人生はざまあみろである。

どこで間違えた

那須に夫婦で行ってきたわけだが一泊二日でこれで10万円くらいの旅である。これを毎月やろうというのは贅沢なことかもしれないけど、一泊二日ということはあとは自宅にいるとすると月のうち28日くらいは行かない人間と変わらない生活をしていることになる。あまり差がないと言えば差がない。

今年は娘とヨーロッパに行く。これは完全に余分で今年だけだけど、かみさんと冬に行くサイパン、これくらいの旅行は一年に一回くらいはいくつもりだ。夫婦で海外となれば100万単位で金は使うもんだろう。わたしの場合は飛行機をうまく手配してやすくあげているがその分良いホテルに泊まるしかみさんも一緒にわたしと遊ぶから金はそれなりにかかる。

豪華だということになるんだろうけど、年に一回それも一週間ということは、あとの350数日は日本にいるわけだから、一年のうちほとんどは行かない人間と同じような暮らしをしていることになる。一見そんな差はないということだ。

毎週ゴルフに行く。それも複数回、それは多いということになるんだろうけど、でも今時のゴルフは丸一日かからない。半日である。早朝ゴルフなんてやれば時間は相当あまる。アクティブな人間は家でゴロゴロしたりテレビを見ているとかいう時間が少ない。一週間が168時間としてゴルフをしている時間がせいぜい12時間とか、そうすると残りの156時間はそれは何もしない人間と変わらない暮らし向きとなる。乗馬も同じである。

ということで遊んでいる人間とさほど遊んでいない人間とで実はそんな見るからに暮らし向きが変わるというわけでもないのである。そういうことだからわたしは仕事をしている時もそれはたくさん家族でおでかけをしていたしまたいろいろと遊んでいた。

仕事で忙しくて家庭サービスができなかった。こどもが小さいころもっとたくさん遊んであげればよかった、とか夫婦で旅行に行ってない、仕事でそれが叶わなかった。わたしと同世代の人間でこういうセリフを吐く人間はそれはとても多い。

でも売れっ子芸能人でもない限りそんな忙しい人間はまずいないというのがわたしの考えだ。けっこう暇なはずなんである。それをやろうという気がなかったか、あるいは金がなかったか、要は気持ちににも金にも余裕がなかったということだとわたしは思っている。

いや本当に忙しかったんだ、大変だったんだ、という人間もいるかもしれないが、もしそうなら家庭と仕事の関係をどう考えていたかということになる。家庭はどうでも良いって仕事ばかりしていたんじゃないのかね? そうじゃないと思ってもそういうことですよ。家族のために働くというと聞こえはよいが、そのあげくに大して稼げずにいまだに老後の金の心配をしているんじゃ、一体何をしていたのか?まだ遊んでばかりいたんで金が心配ですって方が潔くて気持ちいいくらいだ。

いずれにせよ、時間は戻ってこない。とくに子供との時間は貴重でこれは取り返せない。せいぜい挽回できるのは夫婦の時間ということになるが、これもボヤボヤしていると年を食えばいろんなことが起きるし体力も衰える。じゃあ遊ぶかといって金もいる。どうすりゃいいんだ、なんて言ったときにはもう変えようがない。

どこでどう間違えたか? なんてもしも思うとしたら、わたしが思うには、これはかなり若いころですよ。例えば高校生とか、、、せいぜい20代でもう決まっている。もうそれくらいから実はこうなるべく一直線に生きてきたってこと。それで数十年してからどうこうしようって、それはどうにもならんわな。まあ他人のことだけどね。

副業

朝のNHKで副業の特集をしていた。今は副業を許可する会社も増えてきているそうだ。自分のところだけの収入でやっていけるとあてにされても困るということだろうが、それで副業はというとなんか自分で商売をするのかと思ったらそうではなくまた別のところに所属してそこからも給料を頂くというのが副業の基本的な姿のようである。それが成功例として取り上げられていた。なるほどな、と思いながら画面を見ていた。出てくる人間は典型的なサラリーマンである。そのサラリーマンとしての物腰を生かしてもうひとつサラリーマン、これは案外うまくいくのかもしれない。本人が得意とするスタイルで仕事ができるからだ。これが180度方向の違うことをやったら両立は難しいのかもしれない。たとえばサラリーマンをしながら商売人を目指すとか、あるいは相場師?笑 これはいずれにせよ人間としての心持ちもだいぶ異なるものがふたつ要求される。サラリーマン大家でほとんど失敗する人間が多いのはなるほどと思える。

いずれにせよ収入がいくつかあることで会社に従属するという気持ちはぐっと軽くなるので精神的な自由に近づくという意味で悪いことではないようにわたしは思う。それでうまく行くならであるが。ただ遊ぶ時間はどこにいくのかな?っても思う。あるいはのんびりする時間でもいいし恋人や家族との時間でもいい。副業をするけどフルタイムのサラリーマンの上にさらに時間を切り売りするサラリーマンを乗っけたらそれは働きづくめで消耗せんのかな?サラリーマンてのは安定して収入が得られるかわりに時間とか自由とかあるいはプライドとかを捧げるという側面があるからそんな捧げてばかりじゃ自分のものがなくなっちまうじゃないのかしら、てわたしは思う。

わたしは若い頃は副業で競輪をやっていた。もちろん車券を買う方で競輪選手じゃない。(当たり前) それが年齢が行って副業が株式投資になった。副業と言ってもほとんど時間は使わないが、確定申告上では大きくサラリーマンの収入を越えていたからそれは立派な副業と言える。わたしは本業でもそれほど消耗もせんしたっぷり休みを取っていたから副業で消耗する気はさらさらなかった。だから株式投資でも苦労して技術を身につけてそんでなんとか儲けるようにするとかそういうのはまだるっこしくてやる気がしない。自分の性格にあったもので手にあうなんか儲ける方法はないかな?てな考え方だ。不動産もそうだ。これは世の中の成功している大家をみると地主以外は大変な努力をしている。そんなまめな人間じゃないからせこくやって儲けるなんて面倒でやる気が起きない。

振り返れば本業もなんかいい加減で適当だとよく言われた記憶がある。あんまり細かいことにはこだわらない。ただここはツボだというところで急になんだか妙にこだわるので不思議がられたがそのツボがほとんど外れなかった。ここだというところだけちゃんとやっておけば後はまあどうでもいい、そんな考え方だ。で、どうやってその「ここだ」を判断するかと言うと、これはうまく説明できない。勘というのが一番他人にはわかりやすいかと思う。まあそれも含めていい加減ということだ。

まあよく言うなら普段は体力を温存していざという時に力を出すというタイプだな。ずっと能力を出していたら疲れちゃうしここぞという時にパワーがでない気がする。副業もまあいいのだろうけど、それで自分を振り絞って消耗するんじゃどうかなって気がする。ただのサラリーマンが二人いるだけならそれじゃつまらない。って、わたしは思うのね。
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昨日は児童養護施設勤務最終日であった。勤務終了は午後4時半。施設では勤務終了後に「ではあがります。よろしくお願いします。」などと引き継いだ職員に声をかける。そして昨日の4時半、わたしは「では失礼します。後はお願いします。」と引き継ぐ職員に声をかけていつものようにホームを後にした。いつもとなんら変わらない。変わるのは二度と出勤しないということだけである。日曜日というこおともあり何人かの子供はホームにいたが特に挨拶めいたことはしなかった。いつも帰る時にいちいちこどもに声をかけて回らない。夜ならおやすみくらい言うが昨日は早かったのでじゃあね、である。

外に出て駐車場に向かう時にたまたま外にいた幼児が、「ハルトモさん運動会見に来てね。一生懸命走るから」と声をかけてくれて足に抱きついてきた。わかった行けると思うよ、と返事する。なにせ暇であるからお安い御用だ。ホームに行くのは憚られるが運動会なら問題なしである。その子が昨日わたしに描いてくれて絵が写真のもの。わたしの肖像画?である。ありがたくいただいて、ずっととっておくことにしよう。

別れらしい挨拶はそれくらい。それもすぐに終わり駐車場に向かえば、わたしが今日辞めることを知らない、職員子供に笑顔で、こんにちは、とか声をかけてそして車に乗り静かに車を出す。

夕食はわりと評判の良いイタリアンへかみさんと。テラス席を頼み街行く人々を見ながら乾杯であるが、街行く人々と言っても皆労働人である。まだ仕事中の時間帯だから忙しく動いている。あるいは携帯電話片手。それを見ていると約40年間も働いてきたのだな、と感慨を感じる。2年遅れて大学を出たが、その前の6年間もほぼ生活費を得るために働いていたので、通算約39年か。

一生の間に39年間働いて、実質は35年くらいで一生分稼げたのであるからこれはかなり効率的にやったほうなんだろうと思う。その39年もそれほどヒーコラ、嫌な思いをして働いていたわけではない。サラリーマンならぬサボリーマンで休みもたくさん取って家族最優先でやってきた。損得勘定で心ならぬことをせずに自分の納得に従って小さな幸せを大切に毎日を積み上げてきたら、そしたらまさに塵も積もれば、、である。大きな幸福感に包まれるようになった。

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なかなか美味しい料理をいただいて、でも頭の中は旅のプランニングでいっぱいだ。ヨーロッパ旅行はいったん日程を決めたが、日曜日のウィーン少年合唱団がミサに出るとわかって日曜日の朝にウィーンにいるために全部考え直さないといけない。移動からホテルからずいぶん変わる。それとは別にさっそくのお出かけもある。体もだが頭の中が超多忙である。

旧友に会うのも考え物

いくら偉くなっても誰かのいいなり。あるドラマのセリフだが、言いなりは極端にしても誰かを畏れ誰かに媚びるのは案外やっている本人も満更でもないからこの社会はそれなりの秩序が維持されるという人間心理の本質はあると思う。完全に自由になってしまったらどうしていいかわからない。人間というのはその重石を退かしてしまうと馬脚を現すもの。権力者がしばしば醜態を曝すのは歴史を見るに枚挙に暇がない。ということでぶつぶつ言いながら実は完全な自由を求めていない人間が多いというのはわたしの実感だ。本当の自由というのは人の思い通りにならないのと同時に人を思い通りに動かしたいと思わないということだ。それは部下どころか、子供や妻もである。子供の将来を心配するなどと言うと聞こえは良いが、さてどうだろう?自分の狭い器量を押しつけているかもしれないと、そう自らをいぶかしむほうが精神的には健全であるとわたしは思う。

前の前の会社の先輩のところの遊びに行くとメールしたら返事が来て、一緒にわたしの同期にもあわせたいとのことだ。先輩なりの気遣いかもしれない。わたしの同期というのは遡ること30年以上前に一緒に会社に入った人間ということだが、もうまさに30年も会ってない。その同期は今はわたし会いたいという先輩の上司以上なんだそうだ。立派な肩書きがついている。まあ出世してそれはよかったねとは思うが、わたしは同じ寮に住み楽しく遊んだ先輩を懐かしんで会いたいだけで、別にその同期にわざわざ会いたいとは思わない。いや会うのはいいのだが、先輩とわざわざ同席する必要はない。こっちは暇人だからその同期が仮に会いたいというならいつでも出張ってそしてごちそうしてあげるくらいの勢いはある。

それとだが、サラリーマン社会で長年堪え忍んで出世した人間は旧友といえどたいていわたしと話すと不愉快になるというのがわたしの経験則だ。自分が長年大切にしてきたものをわたしが鼻で笑うような態度をあからさまに取る、というわけではないが、彼らはそのあたりは敏感だからわたしの本音をすぐに感じ取る。わたしも率直な方だからそれほど隠しもしない。自分の身近なサラリーマン社会でもサラリーマン的価値観を否定する人間はそれなりにいるが、その代わり収入と地位は自分の方が高いから負け惜しみに聞こえて納得がいくという構図がある。ところがハルトモ君の場合はかなり裕福で負け惜しみでもなんでもなくて、よくやるよなと言われている気分がしてそれで話していて頭に来るということになる。わたしの人間修行が足りないのかそれはどうかよくわからないが、向こうだって実は相当修行が不足だ。たいていの人間は外を磨くのに精一杯で中を磨くまでいかないのである。わたしなんかましなほうかもしれないくらいだと思う。ということで普通に話していると自慢になってしまうわたしだからあまり旧友に会わないほうがいいかもしれない。
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