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友人からメールが来て「仕事を辞めたそうだが何してるんだい?」 などと聞かれる。近況を正直に答えると、夢のような生活だな、というレス。自分としては今のような生活を夢見たことは一度もないけどね。経済的な自由を得たいとは思っていたけど、遊んで暮らしたいとは思ったことはない。(あるかな?)少なくとも真剣に夢見たことはない。仕事でだって自由気ままに好き勝手にやっていて割と楽しかった。会社勤めをしていたけど一年に100回以上ゴルフしてたし旅行もこれでもかっってくらい行って週末の準備をするのが平日の役割のようだった。ということで今も毎日遊んでいるけど夢のような生活だとまでは思わない。まあけっこうな暮らし向きであることは間違いない。
オバマ大統領のスピーチを聞いていたが途中で聞くのに飽きてしまった。なぜあんなにポイントがない話を長々としたのだろうか? いろんな聞き方があるだろうが、現役の米国の大統領という実践家としては具体性のないスピーチとわたしは感じた。きもはこのいろんな聞き方があるということじゃないか?報道でもいろんな解釈がなされている。これはそういう意図であると思うべきだろう。手短に安直に世界中に報道されることを避けたんだろうとわたしは感じた。
アメリカの世論調査では今でも半分以上の人間が原爆投下は正しかったと考えている。原爆投下あるいは東京大空襲で10万20万人の一般市民をを虐殺することで戦争を早く終わらせて逆に死者を減らせることになったという理屈である。本当に減ったのかどれだけ減ったのか?誰もわからない。この理屈に対して終戦後は85%の支持率だったが今は55%くらいになっているらしい。これはだんだん減っていると見るべきではなくて、終戦直後の国民意識の高揚を差し引いた率直なアメリカ国民の声と受け取れるとわたしは思う。そういう国の大統領が来たということだから、長い話の細かな文言にどうこうと反応しても意味はないってことかと。
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政治経済
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物事というのはよくしようとしてやることが結果必ずよくなるとは限らない。その典型がゴルフスイングと憲法だとわたしは思っている。ゴルフスイングというのは相当の上級者でもあるいはプロでもいくつか問題点は必ず持っているものである。その問題点を根本から変え理想に近づけようとすることでメチャクチャになってしまうというのはよくある話。もっと言うなら理想のスイングをしたところでスコア(つまり結果)がよくなるわけでもないのである。理想の憲法ができれば国民がより幸せになるのか?という議論をあまり聞かないが、まあゴルフ程度かそれ以下だろう。
改憲論者の言っていることを聞いているとそれなりにうなづけるポイントもある。ただただちに国民の生命を脅かす緊急性ではなく、もっとよくできるでしょう、という主張に聞こえる。もし改憲が理想的な状況で行われば心配しなくてもいいのかもしれない。だが現実社会はそうはいかなく、いざ改憲となれば様々な輩がいろんな議論を持ち出し自分の思うところに憲法を誘導すべく跳梁跋扈する、ということになるだろう。
そして上に書いたように憲法を変えて国民がより幸せになるか? このポイントにどうにも説得力ある論をみない。国民の生命を守るために、、などと言うが実際死の危険を感じている国民がどれほどいる?かである。テロの犠牲者も確かにいるが国民の生命を守るというなら交通事故とか自殺を減らす方が効果が大きいくらいだ。
今の政府も国民の鏡。政府の程度は国民の程度。日本人は政治をアクティブに変えるとなどという能力をかつて一度も歴史上示していない、とわたしには思える。一方日本人の特筆すべき美点は、恐ろしいまでの我慢強さである。その我慢強さをもってすれば、現行憲法のいたらななどさほどの堪え難さではないのではないか? なんて思う。ということでわたしは憲法改正すべきではないと思っている。よほど暇なら話は別だが、、、
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本年から児童養護施設や里親の下で育った子供たちが進学した場合、毎月家賃相当額に加えて5万円の生活費を支給し、そして卒業後5年間仕事を続ければ、その返還を免除する新しい制度を始めました。本当に厳しい状況にある子供たちには、返還がいらなくなる給付型の支援によって、しっかりと手を差しのべてまいります。そして、可能な限り速やかに、必要とするすべての子供たちが、利子のない奨学金を受けられるようにして参ります。返済額についても、社会に出た後の所得に応じて変化させることで、過度な負担とならないように配慮致します。
昨日の記者会見の冒頭部分の報道そのままを引用した、わたしがこのブログで何度も言ってきた、老人もいいが子供にこそ手厚くそれも本当に厳しい状況にある子供たちに援助を、が実現していくのは非常に好ましい。今までなかなか進んでこなっかったのは、こどもは老人に比べて票にならなかったからだ。だがここ最近の所謂待機児童の改善の問題から、いまは子育てをする親を含めてこどもに対するケアが社会の関心事になっている。次の選挙には大きな論点となると思われる。アベノミクスでもなかなか暮らしむき向上に実感が高まらない国民のイラつきをさすがに政府も感じている。選挙対策でもあろうがようやくしかるべきものに順番が回ってきた気がする。安全保障や憲法改正、金融政策の議論よりこっちを先に行うべきであったと思う。 昨日の児童養護施設での卒業を祝う会。わたしが担当しているこどもの一人が中学を卒業して高校に進学するのだが、彼が将来の抱負で、自分は大学に行く、と強く宣言した。施設では大学進学をあまり高らかに語り勧めてきてはいない。そういう意思表示を皆がいる前でこどもが言うのもまずない。すこしづつ子供たちの意識もかわりつつあるような気がしていて、その変化にハルトモもいくばくか関与している実感がある。児童養護施設のこどもの大学進学率は11%という数字がある。これが世間並みの50%にまで行く必要はないが倍の20%くらいにはなるべきだと思っている。それくらいの比率で優秀な子はいる。そして専門学校への進学率も上がっていけば良いと思う。 卒業していく子供たちに職員は、いつでも遊びに来てね、と声をかける。もちろん遊びに来ていいのだが、夢を追いかける自分の姿を後輩たちに示して欲しい。そしてもっと将来、成功した姿を自慢げに見せびらかしに来て欲しい。格好いい車にでも乗ってね。自慢大歓迎である。わたしはいなくなるが、そうやって自慢の輪を繋げていってくれれば、人生悪いもんじゃなさそうだ、ってそう子供が思うようになっていく。そういう流れを起こしたくてわたしは毎日子供に自慢話をしてきている。昨夜はそういうことでわりと気分がよかったので施設の夕食会を終えて家でかみさんと軽く飲んだ。最近は気分が良いことが多いのでついつい飲んでしまう。すこし酒量を抑えねば。 |
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フランスの大統領を始め西欧諸国首脳がベルギーのテロにあたりこれはヨーロッパに対する攻撃だと訴えていた。そして犠牲者に対して最大限の弔意を表明していた。犠牲者に対する哀悼の輪は世界規模で報道されている。そんなことになるとは思いたくもないが、今の日本の政治を見ているといつか日本もテロの標的になるのではないか?とまじめに心配するのはそれほど荒唐無稽ではなくなってきている。もし仮にだ。日本でISの手によるテロが起きたら、、アメリカの大統領や欧州の大統領が沈痛な面もちで日本をテロに対する戦いの仲間と呼び、弔意を表しつつも徹底した戦いを鼓舞するのではあるまいか? それはとても恐ろしく、そして居心地が悪いとわたしは感じるが、日本人の多くはそうは思わないのだろうか? 日本はそういう方向に進んでいるという実感があるなら日本人はそこは考えないといけない。 わたし個人は西欧諸国からそんなふうに扱われたいとは思わない。西欧諸国が日本をどう見ているかは歴史的に見ても知れる通りである。世界の様々な国をさておき特別な仲間と呼ぶには無理があるように思う。
どうしてテロが起きるのか? わたしがここで専門家でもないのに云々する気はないが、テロリストとイスラム教徒は全くの別物であり両者を区別すべきという有識者のコメントがマスメディアに溢れる。テロリストたちが犯罪集団だとしてもあるいは軍事行動だとしても、罪もない市民が犠牲になったということでこれが怒りの原点となっているが、さて欧米諸国の軍事行動は果たしてテロリストと一般市民をどれだけ区別して行っているのか? 空爆で空から爆弾を撒いたりしているようだが、テロリストにだけ当たる仕掛けがあって一般市民は当たらないとは聞いたことがない。事実すごい数の市民が犠牲になっているという情報はいくらでもあるし、死人だけでなく難民となり家も生活もすべて奪われて、どう見ても中東にいる一般市民のほうが酷い目にあっているようにわたしには感じるが、それが世界的な非難と哀悼の対象にベルギーやパリほどにはなっていないのはなぜだろうか?少なくともイスラム諸国の一般市民にも、パリやブリュッセルの市民にも同じ程度の哀悼の念をわたしは感じるがこのあたりがずいぶんと世界的には偏っているような気はしている。
欧米諸国の首脳がテロリストたちを抹殺するためにはある程度の犠牲は致し方ないともし考えているなら、それは原爆や東京大空襲での日本人市民大虐殺を彷彿させる。日本の軍国主義を抹殺するために一般市民が100万単位で虐殺されたが歴史的にはそれは必要なコストであったと、そういうことになんだかんだでなっている。やられた日本がアメリカに一生懸命尻尾を振っているんだから。アメリカだってあれで良かったんだと思うだろう。
わたしはここでイデオロギーや政策の是非を語る気はない。ただなんとも言えない気持ち悪さとおぞましさをテロとの戦いの仲間に入っていくことに感じていると言いたいのである。この奇妙な感覚を日本人は内部でよく咀嚼して納得づくで政府を支持しているのならそういう国だということでまあそれはわたしがここで騒いだところで意味もないが、日本人がそこまで賢くもしたたかとはやはりとうていわたしには思えないのである。
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昨日はかみさんの姉夫婦のお宅にお呼ばれされてのんびりと新年会であった。お手製の料理もたくさん並びさらに購入したおせち。値段は聞かなかったがずいぶん立派だ。三段あったし。おせち料理にどれだけ時間とお金がかけられるかというのはたぶん豊かさの指標になるんだろうね。
家に戻ると我が家のおせちがだいぶ減っており娘が映画を見ながらパクパク食べたそうだ。別にありがたがるわけでもなく普通に食べている。彼女にとっては当たり前のお正月である。正月は豪華なおせちがあるに決まっているのだ。
夜はなにかやっているかと番組欄を見たらNHKのEテレビで日本のジレンマという討論番組をやっていたのでしばらく眺めていた。1975年以降生まれの若き日本の頭脳と称される論客たちでほとんど東大だそうだが、彼ら彼女らが日本の将来について討論する。日本人とは?とか競争と共生とか自由と資本主義とかいくつかのキーワードが提供されたのか勝手に出てきたのかよくわからないが言葉を転がすように話は進む。
2時間半ほどの番組だったが見ていて眠くなったので中ほどでテレビを消して寝た。眠くなるということはおもしろくないのだ。出てきて喋る人間は一生懸命なにか正しいことを言おうとしているというのがよく伝わってくる。ようは真面目なんである。だがあいにくおもしろくない。おもしろければ伝わる量も増えるんだろうと思うんだけどね。笑いを取るという意味でなく聞いていておもしろいと感じさせる努力が低いかできないか?たぶん人選がよくなくて真面目な人間ばかり撰びすぎたのかな? だから議論は妙に小ぶりにまとまっている。皆賢いから安易な結論出しも避ける。暴論を断定的に語る人間なんていない。
日本人と競争社会というキーワードがあって日本人は競争をよしとしないという論が勝っていた印象だった。確かに日本人は競争が嫌いで安定を求める印象はある。また日本人はとても礼儀正しく調和を重んじる人種と日本人はたぶんそう自負をしている。さてその礼儀正しい日本人がなぜ満員の通勤電車の中であれだけ必死にもがき他人をおしのけることができるのだろうか? そして電車を降りた瞬間にまた元に戻る。乗れば入る。どこかにスイッチがついてかみたいだ。電車で同じことができるのはたぶん中国人だけだ。でも見事な切り替えスイッチがついているのは日本だけじゃなかろうか?
日本人は礼節と調和を重んじるというけどどうやらそれには条件がある。日本企業の競争力はいまは凋落しかけているがかつてはエコノミックアニマルと揶揄されるくらい日本企業は欧米企業に打ち勝つためにはとことん戦い手段を選ばぬ風情もある。明治時代の欧米の列強に挑戦する日本人は、どうみても欧米諸国と調和をする気はない。つまり調和というのはある限られた世界で成立していてその限られた世界が安定していて、なおかつその組織で自分の身が安定しているなら、そこから出撃して情け容赦なく外なる世界を蹂躙することは厭わない。なぜならそうすればするほど自分の所属する組織は安定しまたその組織の中で自分も安定するからである。それが日本人(もちろんそうじゃない人もいますよ。わたしのように)。
競争社会で努力が報われるかという話もでていて、これは報われないことがあるのは当然だみたいなことを言う人がいたが、それはどう考えるかである。思うような結果が出なくても受けいれなさい。というのは誰でも言えるが、努力を楽しんでその一瞬一瞬を懸命に生きればその時点で努力は報われている、とわたしは考える。結果はもちろん出したいがそれは報われる報われないという話じゃない。努力は努力することを楽しむ。努力はつらいものだと思い込むから結果で報われたくなる。それで結果がでないと悲嘆する。だが楽しんで努力したほうが実は結果もついてくるものなのである。もちろん大多数の日本人がそうは思えないことはわたしは承知している。
かみさんがチャーシューを作ってくれたがこれは旨い。良い出来だ。このチャーシューは我が家のみで作られて我が家のみので食されて(せいぜい来客まで)決して競争にさらされることはない。競争がなくてもちゃんとまともで良いものは出来上がる世界。それはとても小さな世界でかつ外とも隔絶まではしていないが遮断機能は存在する。
日本人が歴史上もっと良い時代としばしば懐かしむのは江戸時代である。せいぜい遡っても鎌倉から戦国時代。時代劇と言えば有名どこはたいがい江戸時代だ。遠山の金さん、水戸黄門、一心太助、。この時代は鎖国である。外とは競争がなくそして内部で調和が成立していた時代。日本人にとってはもっとも美しく振る舞える状況だったと言えるんだろうと思う。まあ美しいより豊かさを取るとなれば話は違うわけで、懐かしく時代劇を見ても誰も時代劇の世界に行きたいとは思わないということだろうが。
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