たかじんのそこまで言って委員会

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レジでのひと手間

今日、昨日放送分の「たかじんのそこまで言って委員会」を見ました。
そこで「梅沢富美男がレジでの未成年確認で『自分が未成年に見えるか』とキレた」という話題になりました。
以前から、この番組のレギュラー・勝谷さんはそのレジ業務に反対してました。
 
企業の責任のがれだから、そういうのがよくないとかいろいろあるでしょう。
このブログで私も何度か規制の話をしたら、「規制はよくない」的な意見はかなり熱をおびていただきますし。
ただね、よく考えてみてください。
レジ前でブチ切れるとき、困るのはお酒の販売を規制してる法律関係の人でも、政治家でも、そしてコンビニチェーン店でも、システムの人たちでもなく、時給で働いてるバイトの人たちなんですよ。
客側は「自分のポリシーでそんなの押したくない」ってわがままも言えるけど、従業員が「そんなの客にやらせるのは間違ってる」とか言えるわけないでしょ。しかもコンビニのバイトで。
もちろん、そういうとき普通のコンビニなら「上(店長)を呼ぶ」ってことになってるでしょうけど、コンビニの店長さんもご苦労さんです。
そして、ゴタゴタとして他のお客に迷惑かけたりもするわけです。
 
基本的に、「明らかに未成年じゃないだろう」って人までチェックするのは、ひとつはその方法が簡単なこと(画面にタッチするだけ)だけど、もうひとつは「微妙なラインの人だけチェックすると角が立つから」ですよ。
梅沢富美男や勝谷誠彦をチェックからはずすってことは、結局は今までとおなじで未成年だろうがなんだろうがお酒を売るってところに戻るのだと思います。
 
私も未成年時代酒飲んだことあります。
だけどそれを法律や社会や、ましてや売った店に転嫁することはなかった。
でも今は「売る店も売る店だ」と言われる時代。
そこが間違ってる。店は堂々と未成年に酒を売れ。
とか、未成年と思える客だけをチェックしろ。
とか、そういうことは、別にどんどん世間に訴えていってください。
 
だけど、バイトにあたるのだけはやめてほしい。

『たかじんの』天皇論

昨日、『たかじんのそこまで言って委員会』見ていてふと思ったこと。
 
んじゃ、天皇制いらないんじゃないの?
 
って。
 
 
私はもともと憲法に象徴天皇の項目も削除していいって考え方なんだけどね。
 
君主ってのは、国民を統治するのに都合の良いようにイメージ化される。
戦後、敗戦国として国民をまとめる役割として象徴天皇の役割は重大だったと言われたら、統治する側にはそうだったかもと思う。
 
ただ、たかじんの番組では「同じ血を何百年もずっと続けていくというのはすごいことで、やめるのは簡単だが、一回終らせたらもう復活はできない」的な理屈が普通に通っていて、それにはもう全然共感できないんです。
天皇家のご先祖がアマテラスオオミカミであるとか、古事記や日本書紀のようなものを「信じるのが当たり前」前提で、語られても、いやいやいやいや、あれも絶対統治のために時の権力者が神格化したものやろう、と思ってしまう。
 
神話として、宗教の象徴として尊敬すべきと言われたら、キリスト教でもイスラム教でも立派な方は尊敬できるように、今の天皇陛下は立派な方で、国民のために尽力されてると言われたら、尊敬申し上げます。
 
でも、宗教家として立派なのと政治の世界での君主は違うからなぁ。
宗教家として、ならもう憲法から削除してもいいと思うし、政治の世界での君主になられるべきだっていうなら、「血を受け継ぐことのメリット」をちゃんと説得力あるものを提示してほしい。
 
そして、今回の番組で、廃太子論とか女帝論とかでてて、国民の多くも「立派な(国民の望む立派)方が天皇でおられるならよいが、そうでないなら辞めさせるべき」なんて思ってるんですね。
 
大昔からどこの国でも君主になった人は自分の子孫(血筋)に統治してほしいと思ってる。
だけどそれを連綿と続けていくと、絶対に暴君が現れたり、宰相とかの側近に利用されたり、女で失敗したりする人は出てくる。
「ダメな君主だったらリコール」とかそういうのでやるなら、「血をつなぐことの重要性」がいっこうに感じられない。
どんなにダメな人であっても、その血を受け継いでいるっていうだけで、国民に安心感を与えるんじゃなかったのかよ、とツッコミを入れたくなるのです。
 
ちなみに番組では、「廃太子論とか誰それが次の天皇になるべきだとか、奥方がふさわしくないなどは、不敬である。そういいったことを国民が許容することも必要」的なことでまとまってた。
私も、全くそのとおりだと思いますよ。
天皇制がその血を理由に必要だと思うなら、どういう人であれ象徴でさえあればよいのだから、「立派な方です」と言うのが国民の仕事で、「こんな天皇はイヤだ」なんて言うのは間違ってます。
だけど、血を継ぐことに重要性を感じてない人間にまで、強要されるのは、もう民主主義ではないですけどね。
 
『たかじんのそこまで言って委員会』「命について考えるスペシャル」について、4つ目の記事です。

ここまで、袴田事件や冤罪、死刑、裁判についてなど語ってきました。
でも最後に、もっと一般的に「命について」を。

番組内で「あなたにとって命とはなんですか?」という質問をパネラーだけでなく、街頭インタビューなどでも行っていた。
「かげがえのないもの」「母からの最初のプレゼント」など、いろいろと心に残る言葉が多かった。

パネラーの桂ざこばさんは「強くてもろいもの」の書いていた。
インタビューVTRの中に、救急外科の医師の話がでていて、事故で運ばれてきた人を助け、3ヶ月かけて治して退院させたら、事故で即死したという話をしていた。
医師は「助けるのはたいへんだが、失うのは簡単」とも言っていた。


こんなブログ記事で書くととても軽くなってしまうかもしれないけど、それでも多くの人に命というものの儚さとそれゆえのかけがえのなさと強さを知ってほしいからあえて書く。

私は、自分自身の身体の中で命が消えていくのを体験した。
妊娠3ヶ月の時、腹痛と大量の出血とともに消えていった命。
そしてそれから望んでもできなかった命。
人工授精(体外受精)によって、お金も精神的苦労も肉体的苦労もたくさんたくさんかけて、やっと授かった命。

番組の街頭インタビューの中で「奇跡」と答えた人がいた。
私もそうだと思う。
「命」というのは、ものすごくたくさんの「奇跡」の中で存在している。
今は医療もすすんで、結婚したら妊娠して子どもを生んで育つものと思っている人も多い。
けれども、子どもを授かることも、その子どもを無事に産むことも、大きくなるまで無事に育てることも、すべて「奇跡」ともいえるいくつもの条件の中でできることなのだと思う。
多くの人から望まれ、守られ、愛され、受け継がれてきたもの。
それが「命」なのだと思う。

なんだか文章にすると安っぽくて、ちっぽけだなぁ。
最後に、このブログでも以前書いたことがある「命」についてふたつ書いておく。

今を生きるぼくは もっと生きたかった誰かの 明日かもしれない

   【かりゆし58『さよなら』】


誰でも死ぬのは怖い。

自分にウソをつくな。

「生きたい」と心の底から叫べ。

誰に迷惑をかけてもいい。

人の命とはそれくらい価値のあるものだ


 【ドラマ『薔薇のない花屋』】

『たかじんのそこまで言って委員会』の「命を考えるスペシャル」について、第三弾です。

番組内で、秋葉原事件を裁判員制度でもし裁いたら、など死刑についてなども議論されました。

その中で私が印象に残ったのは勝谷誠彦のセリフ。
そのセリフを要約すると、彼が(もしくは社会が)死刑を望むのは「自分が被害者だったら」という共感だけではなく、人を殺した罪人がのうのうと生きているということが許せないからだ、ということ。
被害者への慰謝ではなく、社会への慰謝というように言っていた。
私なりに解釈した言い方をすると「悪いやつは死刑になっちゃうんだ。だから真っ当に生きようね」ということだと思う。

私はこれは的を得ているというか、まさにそうなのだろう、と思える言葉だった。
死刑存置論の人たちの「抑止力」も「被害者の気持ち」も「死には死を(目には目を的言い方での)」も、結局根底にあるのはそれなのだと思う。
もちろん、言い訳にしてるとかそういうことではなく、自分の中にあるもやもやとした思いを言葉にするとそういった「抑止力」などになるのだろうという意味。
けれども、本当のところは勝谷氏の言うところのこと。
社会への慰謝なんだろう。

だから、社会でいっぺんちゃんと死刑にすべき人間像を考えるべきだ。
あたかも「人を殺した罪に対する罰」のように死刑は言われるがそうじゃない。
社会の一般人にとっての危険人物であり、モンスターであり、クズでありゴミである人間を処分するために「死刑」が必要なのでしょう。
どんな人間が「処分」すべき人間か決めましょう。
人を殺したらみんなそういう人でしょうか。
善良な市民を殺した人でしょうか。
では善良な市民というのはなにかも考えなくては、ですね。
利己的な理由で他人を傷つける人でしょうか。
利己的な人ばかりだとお互い罵り合うだけになってしまうかな。

そうして、ちゃんと「死刑=クズ人間を処分するシステム」と認識したうえで、どういう人間を「クズ人間」と認定するかをキチンと決めたうえで、死刑を設定し、執行しなくてはならないのではないでしょうか。
それが決まるまでは、死刑というシステムは停止してほしいですね。

と、言うとなんか死刑存置論の人にケンカ売ってるみたいになってしまうので、最後にフォローしておきましょう。
(私は死刑存置論者と廃止論者がお互いを罵り合う議論にはうんざりなので)

刑とは、罪に対する罰です。
ゆえに死刑も法律で定められた罪に対する罰であるべきです。
加害者がどういう生い立ちで社会の責任がどれだけあるかは罰(刑)には関係ない。
一方で、被害者がどれだけ善良な人間であったかもまた罰(刑)には関係がない。
だけれども、強い者が弱い者を(大人が子供をとか、若い人がお年寄りをとか、健康な人間が病気の人間をとか)など、それらが罪として重くなるのは当然でしょう。
何人の人間を犠牲にしたのかも。
そして、被害者の尊厳がどれくらい踏みにじられたかも、罪の重さとして大切な要素でしょう。
そういったことを証拠にもとづき検証し、「疑わしきは被告人の利益に」を重視し、罪の重さをはかり刑を決める。
それができるような社会であり、司法システムでなければ、やはり死刑は危険な存在といわざるをえない。
それが私の考えです。
先日の『たかじんのそこまで言って委員会』の「命について考えるスペシャル」の話について、つづきです。
袴田事件について、もうちょっと書かせてもらいます。

組織の問題点

袴田事件での問題について、大きくはふたつ「警察(検察)の捜査・取調べの問題」と「裁判(裁判官)の問題」とがあると番組内で言われてました。
でも、これはどちらも同じ質の問題であると思えた。
それは、「組織」ということだ。

警察は「おとしの○○さん」と容疑者に自白させられる人が優秀と評価される。
裁判官は上級審でくつがえされる(自分は有罪としたのに上級審では無罪と出るなど)ことがなによりの懸念材料。
これらは、個々人にあるのは出世にひびくとか、自分の評価さがるなど、利己的なものと言ってもいいだろう。
だけれども、私は組織というのはそういうものだと思う。
番組内では問題点としてとりあげられていなかったけれども、「検察は裁判で負けるような事件は起訴しない」など裁判にあがる前に検察が絶対的な権力をもちつつも、検察はその動機に出世や世間体があるということ。
袴田事件の再審請求が通ってないように、日本の裁判は最高裁まで行って出た判決をくつがえすような判断はまずしない。
そんなことをしては裁判所の威信にかかわるからだ。

私は裁判員制度には全面的に反対ではないのだけれど(もうはじまってしまっているからね)、本来ならこういった「裁判をやりなおすべきじゃない?」「起訴についてもう1回かんがえなおすべきじゃない?」というときに国民が司法参加をすべきと思う。
ま、起訴について云々は小沢一郎問題で検察審査会によって不起訴のものが起訴相当になったりなどしていて、動いてはいるんだけれども。
警察も検察も裁判所も、本来守るべきは自分たち組織ではなく国民ひとりひとりなのだから、そういう風に向くような制約がやはり必要なのではないだろうか。

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