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最近、報道番組なんかで夫婦別姓について特集しているのをよく見かける。
憲法裁判(判決は12月にあるやつ)の影響なわけだけど、なんかどの番組も微妙に大事なところがズレてるような気がする。
たとえば、「夫婦別姓について賛成ですか?反対ですか?」という風に問われたら、みなさんだったらどういう風に思考をめぐらしますか。
自分なら夫婦別姓を選択するとか、しないとかではないですか。
この問題は、夫婦別姓を選択するべきかどうかということではなく、夫婦別姓を求めている人に対しても法律が強制的にそれを拒否すべきかどうかということです。
賛成の人の意見の中に「選択肢が広がるのはいいことだ」という意見があったのだけど、そこなんですよね。
で、反対の人たちの意見として「子供がかわいそう」とか「家族の絆が弱まる」とか、「彼の名前になるってのが結婚するという感じがしていいなど」およそこの違憲判断とは関係ないような意見ばかり。
したい人は夫の姓なり、妻の姓なりで統一すればよいことなんです。
問題は、「自分は夫婦が同じ姓を名乗るほうがよいと思う」という個人的意見を、他人に押し付けてよいのかどうかということなんです。
基本、結婚というのは法的にも社会的にもその人にとっての大きな選択で、人によっては本当に難しい選択をしなくてはいけないこともある。
恋人とか同棲などとは違って、家と家との関係も発生するのです。
いくら嫁が姑が嫌いだから、姑は家族じゃないと言っていても、法的には保護されない。
逆に、内縁の妻などある程度の権利は保障されていても、法的な本当の妻に対して圧倒的に弱い立場にある。
結婚というのはメリットもデメリットも含めて、大きなこと。
その中で、さあ結婚しようというとき、女性は仕事を辞めるべきかどうかという選択肢を迫られる。
また、出産のとき、育児のとき仕事をどうするかという選択を迫られる。
男性だって、いかに妻の家事育児をフォローするかという選択を迫られる場合もある。
また、離婚のときには財産分与や子供の親権について大きな選択を迫られる。
そのとき、夫婦になる男女はその問題に向き合って解決していかなくてはならない。
世の中には、「子供がある程度大きくなるまでは保育園に預けずに子供の世話を母親がするべきだ。
(そうでないと子供がかわいそうだ」という考え方がある。
また、離婚したら子供がかわいそうだという考え方もある。
でも、それで夫婦ともに働いている人たちが法的にその行為を否定されることはないし、もちろん離婚も法的に認められている。
どういう形の家族が幸せかとか、どういう形の家族であるべきかなんていうのは、思想の問題であって、法律でどうこうする話ではないのだと思う。
だから、夫婦別姓を選択しようとする夫婦がいるのなら、それを認めるのが当たり前だと私は思う。
みなさんも、夫婦別姓にしたいかどうか、周りの誰それがしたら嫌かどうかではなく、
自分が妻の姓にしなくては結婚ができないと法律で決まっていたらどう思うか、
自分の子供には親の苗字を名乗らせてはいけないと法律で決まっていたらどう思うか、
など今の自分と逆のことを強制されることについて、反対か賛成かで考えてほしいと思う。
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ニュースな話題
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日々のニュースで思ったことを書いています
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最近の政治のニュースで、安保の話題で私の周りでよくきくのが「日本は戦争になる」という話。
母などと話していても、やはり「戦争をしたいのだ」というようなことを言う。
なんというか、基本的にそこがこの問題がすすまないことではないかと思う。
わかりやすくするために、ここでは安倍さん指示を右、反対を左と便宜的にしておく。
右の考え方を左は「戦争がしたいのだ」とか、「国民のことを考えてない」とかで批判する。
一方で右側では「左のやつらはなんにもわかってない。説明しても話がすすまないから強引にすすめてしまおう」とするから、なおさら話はこじれる。
基本、右も左もどっちも戦争を回避したいという気持ちは同じなのだと思う。
ただ、日本が誇り高く強い国であることで国を守れるという考え方と、力を持つことは権力が暴走し国民を犠牲にするだろうという考え方なのだと思う。
お互いに相手を間違ってると思ってるし、バカにしてるし、もちろん、自分は正しいと思っている。
以前テレビでダウンタウンの松っちゃんが、「ダメだだけで、対案が見えない」という話をしていた。
「ダメだけで大丈夫なら、本当の平和ボケだ」ということも。
さて、タイトルに書いた「70年談話」に話を移す。
ニュースなどでは、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」の部分がとりざたされます。
それは、もちろん賛否ありつつの中だろうと思います。
私の感想としては、「戦争(武力行使)はダメだ。でも、なんでこんなに謝りつづけてきたのに、まだ謝りつづけないといけないんだよ」という印象をもちました。
この心理はある種当然にでてくる気持ちです。
毎年おこる靖国神社参拝議論とも共通の問題かもしれません。
日本は敗戦国であり、そういう意味で国際的犯罪国家であるということを、現代の国民の多くに認識できるものではないし、そこでただ謝罪や反省を続けていたら、「なぜそこまで卑屈にならなくてはならないのか」という不満がでてきても当然で。
かといって、海外にむけて「もう謝らんでもいいだろう」と言ったら大変なことになるので、国民の後の世代には宿命背負わせたくないけど、反省はしないとね、というようなものになったのかなぁと感じました。
で、あるなら(松ちゃんの言う対案はどうしたらいいか)
国民がおそろしく寛容になればよいのではないか。
私はこのブログで死刑関連の記事をずっと書いてきたので、加害者に対する一般的意見は、だいたい「どんなに償っても許されるものではない(法のもとの刑罰では許されない)」というものであると認識している。
その日本の風潮が、「ある一定年数加害者が被害者に謝罪を続け、刑罰もきちんと受けたのならば、(個々の気持ちはともかく)国民全体(社会全体)としては許そう」というものになればよいのではないだろうか。
日本人は、罪を犯したものは、それが謝罪しようが何年たとうが、被害者や遺族の心の傷が癒せるものではないのだから、許されないという風潮であるのに、
一方で自分たち国がした罪は「謝罪したから」「年数が経ったから」などで許してもらおうというのは甘いのじゃないかと思う。
核廃絶もそうだし、戦争放棄もそうだけど、この戦時中の日本の罪の謝罪についても、日本が「国際社会でその責任を果たしてまいります」と本気で考えているなら、まず日本人がそういう国家にならないとダメだから。
あいも変わらずまとまらないわかりにくい文章になりました。
おそまつさま。
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酒鬼薔薇事件の加害者が手記を出すということで、今日テレビで話題に出ていた。
たまたまつけたテレビであっていたので、全内容ではないけど、そのときにこういう話が出ていた。
「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いに、「なぜ殺してはいけないかはわからない。けれど、絶対に絶対にしてはいけないことだ。自分が思うよりもずっとずっと苦しむことになる」という返答だったそうだ。
それに対して番組のコメンテーターたちが「命を奪われる側の視点がない」「(罪を犯す側は)勝手に苦しめばいい」というようなことを言っていた。(うろ覚えですが)
さらに、手記での謝罪の言葉が足りなかったというようなことも言っていました。
また、手記を出版するにあたって被害児童の遺族たちには何の連絡もなく、遺族側は憤り、出版中止を訴えてるというような話もでていた。
これについて、まず私は社会犯罪という視点で考察したいと思う。
被害者側の感情としてという視点ではない無機質な記事になるだろうと思うので、そういうのが不愉快な方は読み飛ばしてほしい。
私はこのブログで長く死刑や少年犯罪について書いてきたけれど、その中で被害者救済ということについてもずいぶんと考えてきた。
そしてその最終結論として、結局実際に被害にあってしまった被害者を(その遺族を)本当の意味で救える方法はないということだ。
被害者を救うということは、究極は被害者を出さないということなのだと思う。
では、どうやったら犯罪による被害者を出さないことができるのか。
それは加害者を作らないことなのだ。
だから、加害者について考えたり、その人がどうしたら犯罪を犯さない人間になるかや、社会に戻れるかという考え方は、「加害者の人権を守ろう」という単純なものではなく、加害者のいない、しいては被害者のいない社会を作るために必要なことなのだと思う。
そのうえで、この番組でとりあげられた一文をみてみる。
被害者の気持ちによりそった視点でいえば、確かに被害者のことをまったく考えてない、自分勝手なものともとれる。
ただ、世の中には実は酒鬼薔薇予備軍のような人間はたくさんいて、そういう人たちに向けたメッセージとしては、これは意味のあるものだと思えた。
先に言っておくと私は罪として重いのは、命を奪うことよりも、人間の尊厳を奪うことだと思っている。
もちろん、命を奪うことはたいていの場合はその尊厳も奪っているが、さらにそのあとの被害者や遺族への愚弄は尊厳をさらに傷つけるものだと感じている。
では、なぜ犯罪を犯す人は簡単に他人の尊厳を奪うことができるのか。
それは自分自身の尊厳をすでに踏みにじられているからだという考え方ができる。
いわゆる「自己肯定感」の欠如。
簡単に言うと、自分はすごく殴られた。じゃあ相手も殴ってなぜ悪い。
から派生し、自分はいままですごく殴られた。じゃあ人間は殴っていいものだ。自分も他人を殴ってなぜ悪い。
ということ。
それはさらに、こういう心理になる。
「なぜ、自分はこんなにつらい目にあわなくてはならないのだろう?みんなも同じくつらい目にあってもいいじゃないか」
これが正しくないことは、大抵の大人ならわかると思うけれど「それは違う」と言ったところでそう思ってしまっている相手には届かない。
そう思いこんでる人を仮にAさんとする。
一方、いじめや虐待など差別的行動とはまったく無縁の善良なる一般市民をBさんとする。
(ちなみに私は本当の意味での差別をしない人はいないと思っているけれど)
Bさんにしてみたら、Aさんがどんな辛い目にあってきたかはしらないが、自分とは関係のないことだ。Aさんが憎む、Aさんの尊厳を踏みにじった人とはまったく別の世界にいるのだから。
だけど、Aさんから見たら。
それこそ下から上を見上げたとしたら。
どん底にいる自分と自分を踏みつけたやつらと同じ上の世界にいる人たちはみんな同じにみえる。
愛すべき生命ではなく、醜いうごめく害虫なのかもしれない。
苦しんで苦しんで苦しんでいるときに、「人は殺してはいけない」「人には優しくしなくてはいけない」などは、のろいの言葉でしかないだろう。
けれどそのどん底で虫けらを見上げていたときに、同じどん底にいる自分と同じような人間に「だけど、あいつら殺したら、よけい苦しむんだよな」と言われたら、虫けらとしか見えない状況は同じでも、それを殺そうという思いには歯止めがかかるかもしれない。
最後に、私たちは虫けらではない。
私もずいぶん性格悪いし、人に嫌われたりひどい言葉を投げつけてくる人もいた。
だけど犯罪はすることなく、普通に家族をもって無事12歳の年まで子供を育てることもできた。
いわゆる「善良なる一般市民」だ。
だけど、私は虫けらではない。
そうではあるけれども、私がもし誰かを(尊厳のある人間を)虫ケラ扱いしたら、私も虫ケラの世界の人間になってしまうのだろう。
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前の記事のつづきで、今回は少年事件について書かせてもらいます。
死刑については、別でたくさん書いてきたので、今回は割愛します。
少年犯罪
みなさん、今回のニュース記事などを読んだでしょうか?
「更正の可能性」そういう言葉が多くみられなかったでしょうか。
私は前の記事で更正について書きましたが、私は更正は刑罰とは別に語られるべ
きもので、罪の重さに更正の可能性を入れてはいけないと思っているのです。
それを入れるゆえに、「更正=加害者の減刑」とイメージができあがり、本当は社会にとって、被害者や遺族にとって、必要なものであるにもかかわらず、「更正など意味がない」と思わせているのではないか、という気がします。
私は、少年犯罪だからという理由で罪が軽くなるとは思いません。
ただし、大人が犯すときと少年が犯すときでは、同じ罪でも責任能力が違うという法律の考え方には納得がいくのです。
でも、年齢ではないのですよね。
法律という世界は、どこかで区切らないといけないので、年齢というのがバロメーターとなるのは仕方ないですが。
そこで、私はここでも更正というものについて考えるのです。
少年を更正させる。
それはイコール1人の立派な大人にさせるということではないか、と。
前に更正の記事を書いたときにテレビドラマの話をしましたが、そこで加害者は「人間ではないモンスター的犯罪者」だった人が「人間」になるわけです。
そういう風に、モンスターや少年を大人にさせたときに、反省や悔悟といった人間と
して当然あるべき感情が芽生え、罪と向き合えると思うわけです。
私はいつも死刑の執行猶予という話をするのですが、少年犯罪者は大人相応の判断力がつくまで死刑を執行してはならないという条件つきにすればいいと思うわけです。
雫さんは、「更正の可能性さえ打ち消す死刑判決」とおっしゃっていました。
何度も繰り返しになりますが、更正と刑は別のものであるべきというのが私の考えなのです。
その少年が死刑相応の罪を犯したのならば、死刑判決が出てもそれは仕方ないのです。
ただ、少年は大人たちよりも生きてきた時間が短い。
罪というものを「理解」するだけの時間は与えるべきではないだろうか。
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今回、裁判員初の少年事件での死刑判決がされました。
以前の私の記事『死刑について13<更正>』にて、雫さんより意見を求められましたので、この記事をその返信に変えさせていただきます。
実は、この問題は3つの大きな問題があります。
ひとつは、裁判員裁判の問題。
ひとつは、少年事件の問題。
もうひとつは、死刑問題。
実はそれぞれ違う問題を抱えているけれども、それぞれが深く関わりあっているのですよね。
裁判員裁判
それは、私は世論が厳罰化に向かう中で、司法判断に対する疑問(距離?温度差?)ができたことによりできた制度ではないか、と最近考えます。
まあ、いろいろ言われているので、どういう経緯でできたかは、確定できませんが。
私は、最近「更正」や「死刑」について考えていたことがあります。
人は自分のとった言動に責任をとらなくてはならない、と。
それは必ずしも、「刑罰」ということではないのだけれども、少なくとも犯罪を犯した人
間はその罪に応じた罰をうけなくてはならない。
そして、刑罰だけではなく、社会的評価や被害者・遺族などからの怒り・憎しみもまた、応報となって返ってくる、と。
同時に、私たちは「そういうヤツは死刑だ」「死刑は絶対ダメだ」など言うならば、相応の結果が待っていることは当たり前のことではないだろうか。
いままで私たちは簡単に「死刑だ」とか「被害者はかわいそう」と、逆に「加害者は更正できる」「加害者にも事情が・・・」と言う。
本当は、簡単でないその事実に、裁判員というもので向き合っていかざるをえなくなったのだと、私は思う。
長くなるので、つづきは別記事にさせてもらいます。
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