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さて、死刑に関する記事をいままで書いてきたのだが、もうだいたいのことは書ききっているつもりでいた。
が、思えば私は「更正・矯正」についてきちんと書いていなかった。 もちろん、死刑や刑罰などの話の中に、「更正」「矯正」という私の考え方は書いてはきたはずだが。 今回、あらためて「更正」について書こうと思ったのは、最近ドラマの「モリのアサガオ」を観たからだ。
サブストーリーとも言うべき、第二話で、星山という死刑囚の話があった。 詳細はHPなどを見ていただくとして、ここでは割愛させてもらう。 死刑を語るうえで必ず言われることが「被害者の気持ちを考えると」である。
以前、死刑の話を友人としているときに、自分の愛する人が殺されたら、その人に苦しんで苦しんで死んで行ってほしいという話になった。
そして、だから本当は死刑ではあきたらないけれども、せめて死んでくれるだけでも、気持ちは区切りがつく、というような話だった。 私もその友人と同じく、苦しんでほしいと思うだろう。
それは、私の愛する者を殺した人間が「殺されて残念だったなぁ。あはぁー」と舌をだして嘲笑するのが耐えられないからだ。 「自分は死ぬんだからいいだろう」も同じです。 ドラマの中の星山はまさにそういう男だったのです。
私は、友人と話しているとき思いました。
自分の愛する人が殺されたら、その無念や苦しみをそのまま背負ったまま死んでほしいと願うだろう。 そのためには、その殺人犯が「死にたくない」と自分のやったことを悔やむときだと思っていました。 ドラマの星山は、刑務官(主人公・直樹)が関わっていく中で、自分の中にある大切な思い出(家族)をよびさまされ、被害者への謝罪の気持ちと贖罪の気持ちが生まれてきます。
そんな中に突如死刑執行が決まり、「死にたくない」と叫びながら死刑にさせられます。 その姿は、私が望んだ「後悔しながら死んで欲しい」という姿ではなかっただろうか?
あいかわらず、話がまとまらないが、少しずつ整理していこう。
世の中、「更正」とか「反省」というものに意味がないと考える人が意外と多い。
特に、死刑囚に関しては「税金投じて極悪人を更正させてなんの意味がある?それで被害者は救われないし、更正させた人間(施設)がいい気持ちになるだけじゃないのか?」というような意見を異口同音に耳にする。 しかし、現実的には加害者の更正や謝罪は、そのもので被害者や遺族を慰撫することはできなくても、加害者の心理が「モンスター」から「人間」になることで、被疑者の気持ちを理解することができるという状況に、救いがあるのではないかと思う。
私自身の考え方としては、今までの記事でも述べてきたが、謝罪や反省と刑は別個のもの。
罪の応じた刑は刑として処せられるべきもの。 謝罪や反省は刑罰の要件とか刑罰の一環としてでなく、社会の責任としてやっていくべきものと考えてる。 そして、懲役刑の模範囚が刑を減刑されることがあるように、結果として被害者や刑務官や裁判所、弁護士などが「死刑はとりやめるべき」と判断したときに、死刑が懲役刑に減刑できるものがいいと考えている。 更正は、加害者のためではなく、社会を構成する私たちのためであり、被害者のためにもなる、と私はそう信じている。
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死刑存廃論
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見たら記事にしようと思いつつ、ずっと見れないでいて、記事が遅くなってしまいました。 |
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以前から書こうと思いつつ書けない(まとまらない)でいた命題。 「責任」と「罪と罰」。 いまだまとまらないまでも、少し自分の中を整理する意味も含め、ちょっと書いてみます。 そもそも「責任」とは何か。 刑法における「責任」について。 Wikiから引っ張ってきたんですけど↓ 刑法における責任能力とは、刑法上の責任を負う能力のことであり、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力のことである。責任能力のない者に対してはその行為を非難することができず(非難することに意味がなく)、刑罰を科す意味に欠けるとされている。
責任能力が存在しない状態を責任無能力(状態)と呼び、責任能力が著しく減退している場合を限定責任能力(状態)と呼ぶ。責任無能力としては心神喪失や触法少年が、限定責任能力としては心神耗弱(こうじゃく)が挙げられる。刑法は第39条および第41条において心神喪失者・触法少年の不処罰および心神耗弱者の刑の減軽を定めている。 これらはあくまで刑法上の責任ですね。 しかし、私たち一般人は刑法にそんなに詳しいわけではないので、もちろん凶悪犯罪のニュースなどで「心神耗弱により減刑」などなど取りざたされて考える機会はありますが、重大な結果をみるにつけ、それを起こした人間に責任がないのはどういうことだと怒りがわくのが自然です。 一方で、少年犯罪などの場合は、「加害少年が悪い(=責任は加害少年にある)」とする人たちと、「親が悪い(責任は親にある)」とする人たちがいるのです。 もちろん、社会が悪いとか誰も悪くないと考える人もいますが、大勢はそのふたつと認識しています。 こういう一般人の心理は、応報感情とでもいうのか、「悪いことをしたらそれなりの罰を受けなくてはならない」という心理なのでしょう。 だから責任がどこにあるか、その結果の償いは責任をちゃんと果たせという思い。 それらが悪いとか間違っているとかいうのではないのだけど、自分自身の責任はどこにあるのだろうと悶々としてしまう。 以下は本当にまとまらないが、たとえば、という鬱々とした妄想です。 主婦Aは主婦仲間と結託して主婦Bをイジメていた。主婦BはAとその仲間を殺害した。 主婦Cは主婦仲間と結託して主婦Dをイジメていた。主婦Dは自殺した。 主婦Eは主婦仲間と結託して主婦Fをイジメていた。主婦FはEへの日ごろの恨みからEの幼い子どもGを殺害した。 このとき、自分が主婦Aの家族や友人だったら? 自分が主婦Bの家族や友人だったら? 私の責任はどこにあり、AやBといった彼女たちの責任はどこにあるのだろう。 法は、一方で事実だけを切り取る冷酷さをもちながらも、判決の面では加害者のほうにも事情があったと情状酌量する温情もある。 私はどんな理由があろうとも、法に触れることをしたのならばその罪に相当する罰を受けるべきだと思う。 でも、毎日毎日虐待を受けていて、それに反抗することは果たして罪なのか?とも思える。(いじめ・DVなど) そう考えると、私にとって「責任」というのは、結果が起こることに対して誰がどれだけ関わったかということなのかなと思った。 もしも、情状酌量という形で、被告の罪が軽くなるのだとしたら、軽くなった分の罪を誰かが責任とらなくてはならないのではないのか。 それは刑法上の罰としてでなくてもいい。 慰謝料や、ボランティア活動、亡くなった方への供養になることそういうことでもいい。 そうすることで、やっと「犯罪という結果」が解決されるといえるのではないだろうか・・・。 と、今日は本当に全然まとまってなくて・・・いや、いつもまとまってないけど、今日は特にです。
でも、とりあえず、いつかまたまとまるために、メモとして、って感じで。 |
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齋藤孝さんの本の紹介記事を書いたばかりですが、これは忘れないうちに・・・というか心が折れないうちに書いておきたいので、続けて書かさせてもらいます。 ま、正直齋藤さんも世界史も関係ない話です。 このブログ記事のどこかにもひょっとしたら書いたかもしれないけど、私はヒトラーの独裁政治というのが、実は現代でも残っていると思っています。 それは、死刑存廃論を語るときの死刑存置論の人の中に見えるのです。 というと、存置論の人は気を悪くしてしまうかもしれませんね。 存置論の人の多くが、被害者への共感や同情といったごくごく人間らしい感情が原動力となっていることは私もよくわかっています。 そういう状況(悲惨な事件を見聞きしている状況)にもかかわらず、「冷静に」「客観的に」「論理的に」なんて言ってる人間のほうが、非人間的ではありますよね。 ただ、存置論の人たちと話をつきつめていくと、大多数の人が最終的に「本当にそういう殺人犯がこの世に必要なのか?」的な意見にいきつくんです。 更正が可能なのかどうかとか、更正が不可能ならば死刑にしたほうがいいのではないかという意見も含めて、です。 ある種無法な罵詈雑言とびかう掲示板ではもっと直接的に「殺人犯はクズだ。クズは人間ではない。そういう汚物は処理すべき」と言ってる人もいるわけです。 私はそういう風に「自分自身が善良な者」という位置づけのうえで、「悪辣なヤツ」というものを見下して排除しようとする心理が、ヒトラーのホロコーストを思い起こさせるのです。 こういう風に言うと、いつも「とんちんかん」「支離滅裂」「全然関係ない」という反応が返ってくるのは覚悟のうえですが、ちょっと私の話を聞いてください。 私は長い間、「ユダヤ人=ヒトラーに虐殺された被害者民族」という認識が強くありました。 少しずつ知識が増えていくなかでちょっとその認識は変わってきました。 ユダヤ人が大虐殺の被害者となったのは、ヒトラーの単なる独裁政治や権力によってなしたのではなく、ヒトラーはむしろ自分の権力を増大させるためのひとつの手段としてユダヤ人虐殺をおこなったのだ、と理解しはじめたのです。 はじめに「ユダヤ人」にイメージがゆらいだのは、シェークスピアの「ベニスの商人」でした。 この話は知っていたけれども、思えばずっとちゃんとは読んでいなかったんですね。 かなり大きくなって(たぶん20歳近く)読んで愕然としました。 そこで「善良な主人公」をおとしめる「性悪商人」はユダヤ人だったのです。 でも愕然としたのは、被害者としてのイメージが強かったユダヤ人が性悪商人として描かれていたからだけではありません。 善良なイメージを持っていた主人公が、「借金をチャラにしてくれるといっても、お前たち(ユダヤ人)を軽蔑することをやめることはできない。これからもお前たちをみたらツバをはくだろう」みたいなことを言ってたことですね。 ヒトラーの時代もそうですが、長い間ユダヤ人は高利貸しとしてキリスト教徒に蔑まれ、憎まれていたんですね。 そして、「そんな社会のクズ民族は一掃してしまえ」というのがヒトラーのやりかただった、と私は今認識しています。 私は自分が少数派だということは理解しています。
けれどもどうしても「クズは処分したほうが社会のため」という思想にはなれません。 死刑制度を存続させるのならば、まずは社会を形成する私たちが「大多数の善良なる人間」という地位をかさにきず、死刑というのは、少数の悪辣な人間だけがなるものではなく、どんな人間でも死に相当する罪を犯したものの罰としてくだされるものだという認識が必要なのではないでしょうか。 そして、「疑わしきは罰せず」。 悪いことをした人間が罰も受けずにのうのうと生きているということへの悔しい「感情」や、被害者としての、もしくはそれに共感しての応報「感情」で、「疑わしきで罰しよう」とか「こいつを罰するために理由をつけよう」とするのことがない法秩序を作らなくてはいけないのではないでしょうか。 「死刑に相当する罪」をきちんと明文化し、それに当てはまるかどうか微妙なときは死刑回避。 そういう社会になってはじめて死刑は存続させていくことができるのではないのでしょうか。 |
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最近更新していませんでしたが、久しぶりにこの書庫も更新します。 更新していない理由は、私自身の考えはだいたい書いてしまったからもあるかもしれませんが、特に刺激になるニュースやテレビ、本などを見てないからかもしれません。 ここ最近では千葉法務大臣就任や以前本の感想でも書いた『さまよう刃』の映画化もあったりするし、ちょっと最近考えることについて今日は書きます。 別の記事でぼつぼつ書いた気もしますが、死刑存置論の根本にあるのは、「処罰感情の解消」だと思うのですね。 現在の日本の死刑の対象は誰かの命が奪われたときに限定され(確かテロ防止でそうでない人が死刑になる場合もあったとは思いますが、一般的な法の範囲で)、被害者が亡くなってない場合や、自殺した場合は死刑の対象外となります。 それゆえか、社会の求めている死刑は「命を奪った罪は命によってあがなう」という認識を持っている人が多くいます。 けれども、実は多くの人が怒りを覚え、「この加害者は死刑にすべきだ(死刑になってもしょうがない)」と思っているのは「命を奪う」ところにはないように思います。 最近話題の『さまよう刃』を例にとってみましょう。 小説も映画も見てない人のために解説すると(私は映画はまだ見てません)、一人の若い女性が通りすがりの不良少年に目をつけられ、車で連れ去られクスリを打たれて強姦され、DVDに撮られ、クスリの多量投与により亡くなってしまうという事件が描かれています。 さて、小説内でも言われていますがこの加害少年たちは殺人の意志がないので(現実にあったら未必の故意なんかは認められるのか?)、殺人罪ではなく致死罪です。 この物語の中心のこの被害少女はクスリによって亡くなってしまいますが、他にも何人もの女性たちが強姦され、自殺した少女もいたようです。 さて、「命を奪うことに罪があるのか」というところに話を戻しましょう。 『さまよう刃』の被害少女が誰も死んでなかったとしたら、私たち読者はこの加害少年に対して「死刑はかわいそう」と思うでしょうか? 多くの人が「こんなやつ殺されて当然」「死刑にしてやりたい」と思うのではないでしょうか? 以前も書いたかもしれませんが、死刑存置の意見の人たちの多くの意見は、死刑対象として「加害者が(加害状況が)残虐非道である」「被害者が無関係の第三者」「動機が身勝手」などの要件があるときに、「人が人を殺したら、命で償うべき」という結論になってるようです。 何度も言います。 ここで一般庶民の求める法益は本当に「生命」なのでしょうか? 私は、加害者の善良さや悪質さとかそういうものを精査するのは難しいように思うし、でもそれらが死刑への欲求の大きな原動力であるのも事実で、そのへんの調整の難しさを言ってきました。 でも、こう考えるとある部分整合性がつくと思いました。 それは、死刑の対象は「生命」というものを奪った者ではなく、「人間の尊厳」を踏みにじった者に課せられる刑であると考えることです。 以前から私のブログを読んでくださってる皆さんはご承知のとおり、私は死刑廃止論者の人間で、そういう人間が「人間の尊厳を踏みにじったら死刑」なんて、死刑拡充の意見を言うのはおかしいと思うかもしれませんね。 別に法を変えて強姦罪でも死刑にとかそこまで言っているわけではありません。 でも、死刑とか無期懲役とかそういう現在の限られた刑罰の枠だけで考えるのではなく、「刑罰はその罪の重さによって決められる」→「ではどういうことで罪の重さは決まるのか」という中で、極刑となるのはそこに人間の尊厳が踏みにじられる行為があるとき、という考え方が存在すべきではないか、と思うからです。 けれども、もしも「人間の尊厳」というものを保護法益として刑法を考えると、これはたくさんの議論と思索が必要だと思えます。 命というのは(脳死の問題はありますが)、人が死んでいるか生きているかでわかりやすいですが、人間の尊厳が踏みにじられたかどうかというのはあいまいで漠然としているからです。 個人によっても違うし、時代によってもかわってきます。 だからこそ私は判例によって人間の尊厳とは何たるかを確立していき、それが課罰対象であること認めていくべきだと思うんですね。 近年、判例主義に対して批判がとても多いのですが(日本人は・・・特に裁判官はマジメで前例破れないからねぇ)、私はこの判例というのはとてもよくできたシステムだと思っています。 法律を作るというのは時間がかかります。 特に刑法の分野になると事件が起こってから法律が作られることも多いです。 けれども新しくできた法律が時間をさかのぼって法律ができる前の人まで罰することはできません。 そこで判例がある程度の柔軟性で時代に即した裁判をすることを可能にします。(でも今の裁判は明治とか大正なんかの古い判例でも簡単に踏襲しちゃうことに問題あるんだけど) 一方でじゃあ裁判官に最初から自由な裁量を許していたらそれは無法と同じです。 けれども過去の判例で「あんたの判断はムチャクチャだ」とすることで裁判官をある程度しばることもできるのです。 というわけで、話はそれましたが、判例によって罪を重くするのは人間の尊厳が踏みにじられたときということをしっかりと意識として確立されていくことが望ましいと私は思いました。
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