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痛覚への注文

 タンスの角に小指をぶつけた。

漫画のような話である。足元への注意の無さと、そこにタンスを設置した人間。どちらにしても自分以外に責めようの無い問題である。

猛烈な痛みは軽率な僕に「絶対今のは折れた」と軽率な判断を下させるのにさして時間を必要としない。念のためだがもちろんそんなことで骨に異常が起きるわけが無い。

僕の思う限りでは、痛みというのは生命の危険を察知するためのセンサーである。
たとえば足が折れた時、大自然の中では逃げる力を失うわけであり、それは即ち捕食の対象へとつながる。多量の出血は根本的に生命の危機を暗示させ、それをいち早くわかりやすい形で知らしめるのが痛覚、つまり痛みとして信号を送るのだと思う。

しかし今、そのセンサーが僕に伝えようとしている痛みはタンスにぶつけた小指だ。
或いは、小指を失うことで俊敏さを失った僕がサバンナに放たれたら、ライオンから逃げ切れずに食べられるやも知れない。しかしここは日本であり、小指をぶつけて数分間の痛みに耐え切った後には、充分過ぎるほどの文化的な生活が待っているのである。

捕食される危険も無い環境におかれながら、たかが小指をぶつけただけでのた打ち回る自分が情けなくなると同時に、これからは生命の危険にさらされるような痛みで無い限り、平静を保つことが文化的な人間の務めであると感じた。そう思えば大抵の痛みなど命を脅かすものではないではないか。痛みと精神を切り離せてこそ強い人間になれるというものだ。

今しがた机の下に落としたライターを拾う際、しこたま後頭部を打ちつけた。きっと頭蓋骨が陥没したに違いないと涙ぐむ自分に、人間とその痛覚への不条理を感ざるを得ない。


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