|
6月14日は、前田健(まえだ けん)さんの誕生日でした。1971年生まれの45歳になるはずでした。 2016年4月24日、仕事を終えて食事をした後、午後7時過ぎに新宿3丁目の路上で倒れ心肺停止状態で病院に搬送されました。26日午前1時36分、搬送先の病院で亡くなりました。死因は虚血性心不全、44歳の若さでの突然の死去でした。ご冥福をお祈りいたします。 |

- >
- エンターテインメント
- >
- 映画
- >
- 俳優、女優
こんにちは、ゲストさん
[ リスト | 詳細 ]
|
6月14日は、前田健(まえだ けん)さんの誕生日でした。1971年生まれの45歳になるはずでした。 2016年4月24日、仕事を終えて食事をした後、午後7時過ぎに新宿3丁目の路上で倒れ心肺停止状態で病院に搬送されました。26日午前1時36分、搬送先の病院で亡くなりました。死因は虚血性心不全、44歳の若さでの突然の死去でした。ご冥福をお祈りいたします。 |
|
原節子さんがお亡くなりになりました。 2015年8月中旬、神奈川県内の病院に入院して、9月5日、肺炎で死去されたとのこと。95歳、葬儀は近親者で営んだようです。 以下は、2000年に私がネットに書いた記事です。 6月17日生まれ、原 節子(はら せつこ) 本名・會田昌江(あいだ まさえ) 1920年6月17日、神奈川県横浜市保土ヶ谷区月見台生まれ。 会社員の父・藤之助と母・ナミの二男五女の末っ子。 1927年、保土ヶ谷尋常小学校入学。 1933年、横浜市立高等女学校入学。 1934年8月、次姉(光代)の夫・熊谷久虎監督の薦めもあり、女優になるため学校を中退、東京市世田谷区上北沢にある姉夫婦の家に同居する。 1935年4月、日活多摩川撮影所に正式入社する。 同年8月15日封切りの『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲)で映画デビューする。 『緑の地平線・前後篇』(1935:阿部豊)、『白衣の佳人』(1936:阿部豊)、『河内山宗俊』(1936:山中貞雄)などに出演する。 1936年6月、日独合作『新しき土』(監督:アーノルト・ファンク、伊丹万作)に出演。 1937年1月、日活退社。 同年3月10日、『新しき土』のドイツ封切りの舞台挨拶のため、東京駅を出発、満州、シベリアを経て、3月26日にベルリン着。 パリ、ニューヨーク、ロスアンジェスを経て、7月28日、横浜港に帰国する。 帰国早々、J・Oへ入社。 1937年9月、J・OはP・C・Lと、新発足の東宝映画株式会社に吸収合併され、自動的に原節子も東宝映画の所属となる。 最初の作品は『東海美女伝』(東宝京都1937:石田民三)。すぐに、 東宝東京撮影所に移籍して、『母の曲・前後篇』(東宝東京1937:山 本薩夫)に出演する。 その後は、大女優の階段を着実に上がっていくことになる。 1946年11月、第二次東宝争議の最中、組合の政治闘争化に反対して立ち上がった大河内伝次郎に同調して、十人の旗の会(大河内、長谷川一夫、黒川弥太郎、藤田進、高峰秀子、山田五十鈴、入江たか子、山根寿子、花井蘭子、原節子)を結成して組合を脱退する。 1947年3月、新東宝設立に参加、『かけ出し時代』(1947:佐伯清)に出演する。 1947年6月、フリーとなる。 1962年11月3日封切りの『忠臣蔵/花の巻・雪の巻』(稲垣浩)に大石内蔵助の妻・りく役で出演する。その後、映画出演はなく自然と引退のかたちとなる。 3番目の姉・喜代子は銀行員と結婚して、その長男が東宝の映画監督になった木下亮である。 フィルムセンターでは、女優特集として、田中絹代、飯田蝶子、山田五十鈴を取り上げているが、次は、絶対に原節子であろうと予想している今日この頃。 『二人の世界』 (東宝東京1940.09.01公開、監督:島津保次郎) 島津保次郎が松竹大船から東宝へ移籍しての3作目。『光と影』、『嫁ぐ日まで』と連続出演した原節子もコンビ3作目。 誠実一点張りの技術部長・丸山定夫の娘に扮した原節子、その恋愛相手は、父親の部下・藤田進である。藤田進はこの作品で主演に大抜擢されたので、原・藤田のコンビ作品はこれが最初だと思う。 では、また。 ぴくちゃあ通信なんばあ1512 2000.11.29(水) という15年前の私の記事です。 原節子さんと最後まで交流があったのは司葉子さんのようです。 朝日新聞11月26日の朝刊によると、 「報告したいことがある時とか、贈り物をしたりいただいたりした時に、お電話をしていました」 と明かす。最後に電話したのは今年の初夏で、 「普通のお話をして、お元気だった」 という。 「女優としてスケールの大きい、横に並ぶ人がいないような方だったと思います」 としのんだ。 ご冥福をお祈りいたします。 |
|
女優の加藤治子さんが11月2日午前7時7分、心不全のためお亡くなりになりました。92歳。葬儀は本人の遺志により既に家族葬で執り行われました。 加藤治子さんはTBS系ドラマ「浅見光彦シリーズ28・高千穂伝説殺人事件 〜歌わない笛〜」(2009.10.05放送)に出演したのを最後に仕事を控えていました。3年ほど前に体調を崩し、昨年からは自宅で療養を続けていたとのことでした。 1922年11月24日、東京市赤坂区(現・東京都港区)生まれ。 1936年4月、松竹少女歌劇学校(4期生)に入る。 1937年3月、同上卒業。御舟京子(みふね きょうこ)の芸名で、松竹少女歌劇団に入る。同期に後の男役トップスター・小月冴子や曙ゆり、並木路子、矢口陽子(後の黒澤明夫人)、月城彰子(後の十代目・岩井半四郎夫人)など。 1939年、東宝映画に入る。『花つみ日記』(東宝映画京都1939:石田民三)にて映画デビュー。 1941年4月、慶應義塾大学の学生だった加藤道夫、芥川比呂志らが結成した「新演劇研究会」に参加。同年、新劇の初舞台を踏む。 1942年9月、芥川比呂志の召集で解散。 戦後、加藤、芥川、長岡輝子らと「麦の会」を結成。 1949年1月、文学座と合流。同年、加藤道夫と結婚。以後、芸名は現在の加藤治子となり、主演級で活躍。 1953年12月、加藤道夫と死別。 1958年、高橋昌也と再婚。 1963年1月、文学座を脱退して、福田恆存を代表に芥川、高橋、岸田今日子らと「現代演劇協会付属劇団雲」を創立。 1964年1月、TBSドラマ「七人の孫」で森繁久彌と共演し、人気者となる。 1975年、劇団雲を退団、高橋昌也とも離婚。 最近の活躍は、TBをご覧ください。 ご冥福をお祈りいたします。 |
|
きょう8月25日は、三條美紀(さんじょう みき)さんの誕生日でした。1928年生まれですから87歳になるはずでした。残念ながら2015年4月9日、うっ血性心不全のため東京都内の自宅で亡くなられました。 三條美紀さんは、京都市右京区嵯峨天竜寺北造路町生まれ。俳優であった父・佐藤圓治と母・末子の二男二女の長女。1934年、父親が日活多摩川撮影所に移籍した際、東京に転居。世田谷区立上北沢尋常小学校を経て、都立桜水女子商業学校(現在の東京都立杉並総合高等学校)を1946年に卒業。当時、俳優をやめて大映東京撮影所の演技課長をしていた関係で、大映東京撮影所経理課に勤務する。 その後、演技課に異動して、佐藤美紀の名前で『君かと思いて』(大映東京1946.07.04:島耕二)の端役にて映画初出演。次いで、三條美紀と改名して『踊子物語』(1947.01.07:小石栄一)にて主演デビュー。 1950年前後にかけて、大映東京のトップクラスとして大活躍しました。 ご冥福をお祈りいたします。 |
|
きょう8月16日は、菅原文太(すがわら ぶんた)さんの誕生日でした。1933年生まれですから82歳になるはずでした。残念ながら昨年の2014年11月28日午前3時、転移性肝がんによる肝不全により東京都内の病院でお亡くなりになりました。 宮城県仙台市生まれ。宮城県仙台第一高等学校卒業。早稲田大学第二法学部中退。モデルクラブ、新東宝、松竹、東映を経て、フリー。晩年は山梨県北杜市に住み、農業に従事しながら、講演活動も行っていました。 菅原文太さんの映画遺作は、 アニメ『おおかみこどもの雨と雪』(2012:細田守)、 です。 『おおかみこどもの雨と雪』では強面でぶっきら棒だが花(宮崎あおい)に農業の助言をしてくれる韮崎老人に扮していました。 ドキュメンタリー『飯舘村 放射能と帰村』(2013:土井敏邦)では題字を担当していました。 2014年11月30日、福岡県太宰府市の太宰府天満宮祖霊殿で家族葬を行なわれたようです。 ご冥福をお祈りいたします。 |
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
| 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
| 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
| 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
| 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
[PR]お得情報