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紫陽花  其参十五

余は、封筒の封を切ると息を飲んだ。
薄紫の便箋が一枚入つていた。其処には、綺麗な文字が、華の文字が並んで居た。


影山誠一郎殿

誠一郎さん。お元気でせうか。私は、何不自由なく生活して居ります。
誠一郎さん、許して下さいね。貴方様が出してくだすつて居た文、如何やら私の夫が毎度破り捨てていた様で御座います。斯様な時分になつて気づきました。其文を屑籠から拾つて、繋ぎ合わせて読みました。何時も私の事をを思つてくだすつていたんですね。もう、紫陽花が咲く季節に為つて仕舞いました。
此の度は、貴方様に伝えておかねばならない事を、綴ります。
斯様な事は、貴方様に申し上げても意味が無い事と存知ますが、聞いて下さいまし。
私は、今鴨島養蚕の社長と結婚し、妻及び秘書として、鴨島養蚕に勤めて居ります。
仕事は、苦しいという事も御座いませんし、食べ物も着る物も、全て欲しいものが揃います。
然しながら、私は夫から殴られる毎日で御座います。夫は愛して呉れていました。然しながら、酒に酔うと人が変わるので御座います。お仕事でお疲れなのだと思つて居りましたが、殴るたびに、お前の父親は大馬鹿者だとか、借金塗れの外道だとか、言うので御座います。流石に私も耐え難くなりました。
何度も、貴方の家の前に行きました。馬鹿な女だと知りながら、何度も貴方に縋ろうとしました。
然しながら、貴方様を裏切つて結婚した私に左様な権利は無いと、悟つて居りました。
貴方様に会えて良かつた。でも、会わなければ斯様な苦しい思いはしなかつたのでは有るまいかと、運命を憎んだ事も有りました。貴方様の優しさに恋して、貴方様の優しさに苦しみ、其れでも私は、最後まで貴方様の事しか思う事が出来ませんでした。
然しながら、今の私では如何する事も出来ません。
私は…死のうと思うのです。
誠一郎さん此れは、私の遺書ですわ。
誠一郎さん、貴方は生きて、生きてさうして、幸せになつて下さい。
何時も逃げてばかり居る私を、如何か御許し下さいまし。
最後にもう一度、或の紫陽花が見とう御座いました。


高山 華


此の文が、あと一日でも早く着いていれば、余は、華の死を喰い止める事が出来たかも知れぬ。
さう思つたのと、同時に、余も又、鴨島と同じ様に、華を殺した罪人で有る事に気づいた。
余は、知らぬ間に華を苦しめていたのだ。
さうだ、余は罪深き殺人者である。
刹那余の目から、水滴が零れ、便箋に滲んだ。
華の文字は、まるで華の決心のように、滲む事は無かつた。
紫陽花……
余は、はつとして中庭へ飛び出し、紫陽花を捥いだ。
無論、例の青紫の紫陽花は咲いていない。然しながら、余は兎に角紫陽花を捥いだ。
さうして、両手に抱えて、鴨島の家へ急いだ。

鴨島の家に行くと、矢張り、或の若造が出てきた。

「何です?貴方もしつこい人だ。今から色々大変なんですよ。」

「分かつて居る。然し、最後に一目華に会わせてくれないかい?」

鴨島は唇を噛んだ。
さうして、鼻で笑いながら、自嘲気味に言つた。

「矢張り、華と貴方は、運命の糸で固く結ばれていた様ですね。華は、言つて居ましたよ。
あのような人は、この世で一人だけなのです、とね。全く僕を愛してくれる様子など無かつた。
彼女を振り向かせる事など一度だつて出来なかつた。負けなど初めから分かつていました。
さあ、上がつて下さい。紫陽花、華の為なのでせう?」

余は、深く頭を下げた。
さうして、鴨島の家に上がつた。
すると、立派な棺が用意されていた。

「実はね、此れ昨日準備したんですよ。」

鴨島は鼻を啜つて言つた。

「昨日、華が帰らなかつた時、僕はもう気づいていたんです。自害したんだと。
其れでこつそり買いに行つたんです。棺くらいは、よい物にしようとね。
華は、其中です。眠つている様です。」

余は、其棺に近づいて覗き込んだ。
中には、華の白い顔が在つた。
本当に死んだのだと、改めて感じた。

「華。済まん。余は、お前さんを苦しめて、さうして死へ追い遣つたのだね。
お前さんの好きな青紫の紫陽花は、咲かないんだ。お前さんが、私の側に居ないと、咲かないんだよ。だから、済まないが此の紫陽花で我慢しておくれ…。」

それ以上は何も言えずに居た。
さうして、紫陽花を棺の上に置いた。
刹那、華が笑つた様に見えたのは、余の思い違いであろう。
静まつた部屋、余は鴨島と泣いた。
只、紫陽花が凛と咲くばかりであつた。

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