如月の指針

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戦後70年へ、北海道と戦争<第1章・開戦前夜>幻の札幌五輪
<4>特攻直前 母思う手紙
(北海道新聞)
 
 
戦前の1940年(昭和15年)に開催が予定されていた札幌五輪は戦争のため幻に終わった。出場が期待されていた、小樽出身のスキー・ジャンプ選手久保登喜夫の人生も戦争によって狂わされた。
 
 
海軍に入った久保は44年秋、基礎教育などを終え、名古屋海軍航空隊に配属された。同じ航空隊にいた中里正三(90)=神奈川県=によると、まもなく通常の飛行訓練はなくなり、爆弾を抱えて敵艦船に体当たりする特攻の訓練だけを行うようになったという。
 
 
2人乗りの艦上爆撃機に乗り込み、上空1200メートル付近から敵艦船に見立てた地上の目印に向け、一気に急降下する。次に750メートル付近で操縦かんを引いて急上昇する。「急上昇に転じる時には強烈な重力が体にかかり、目の前が真っ暗になり意識が遠のいていく。高度1200メートル付近まで上昇してやっと意識が戻ってくる感覚だった」という。訓練から命がけだった。
 
 
久保はジャンプ選手であることを周囲に告げなかった。ただ中里は、久保と同じ明治大出身の隊員から、久保が学生スキー界の有望選手であると教えられた。駆け足訓練の時、足をあまり上げず、スキーを滑るように走る姿に「やはりスキーの選手なんだな」と納得したという。運動神経のいい久保は操縦技術も一級だった。飛行機を降りると「物静かで、とてもまじめな人だった」と中里は語る。
 
 
久保は45年4月中旬、沖縄に進攻した米軍を攻撃するため、鹿児島・第二国分基地に向け名古屋を飛び立った。それから約2週間後の28日午後3時20分、沖縄方面へ向け出撃。防衛省防衛研究所(東京)に残る戦闘概要には、同日の攻撃に関し「一八三〇(午後6時30分)頃 大半艦船ニ突入成功セルモノト認メラル」との記述がある。ただ、久保の最期がどのようなものだったかは分からない。
 
 
久保の戦死から35年後の80年2月、小樽で国体のスキー競技会が開かれた。ジャンプ会場だった小樽シャンツェに、着物で正装をした久保の母タマの姿があった。大会実行委が招待した。タマが競技を観戦するのは、43年に久保が2位になった学生選手権以来37年ぶりだった。
 
 
久保は、沖縄に向かって出撃する日、母宛てに手紙を書いた。「私がスキーで家にいなかったので母上はどんなに寂しかったかと思います…」。目の前で次々とジャンプ台から飛び出してくる選手たちに、タマは優しいわが子の姿を重ね合わせたに違いない。大会の7年後、91歳で亡くなったという。=敬称略=
(第1章 おわり)
 

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