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ヤフオクに六人部さんの作ったタナカ.380ガバメントを出品したんで、今回はそれに関する思い出を少し話しましょう。
この.380ガバメント(通称:さんぱあまるがば) は1990年末に発売された製品で、その半年くらい前に同じく六人部さんの手によるベレッタM1934が出てました。このM1934が日本初の1ウェイガスブローバックで.380ガバは2作目になります。どちらも六人部さんお得意のロータリーバルブを使ったアフターシュートでした。
アームズマガジンで1作目のM1934のレポートを書いたのは元K.T.Wの社員でもあったT君です。彼はモデルガン時代からの六人部さんのファンで、よく六人部さんの工房に出入りしてました。それで六人部作品のレポートは全部彼が担当していたんです。彼と一緒に工房を訪れたことも何度かあります。
しかしM1934はあまりいい出来ではなかった。数々の欠陥や弱点がありました。まあ、最初の作品ですから多少のことは仕方ないんですけどね。それに前にも書いたように六人部作品は量産には向いてない物が多いですし。でもT君はレポートでその欠陥や弱点をズバズバと指摘した。スライドを引いて初弾を装填しようとするとBB弾がこぼれるとか、2発発射されてしまうとか、スライドの後退量が少なくてリコイルショックが弱いとか、ある意味ぼろくそに書きました。勿論、悪意で書いたんじゃありませんよ。かれは六人部さんの大ファンだったんですから。六人部さんにもっといい物を作ってほしい。六人部さんならきっと作ってくれる、という願いであえて欠陥を指摘したんです。
六人部さんは専門誌の批評を結構気にする人でした。当時は「月刊GUN」「COMBAT」「Arms MAGAZINE」の3誌がありました。六人部さんはそれら全部を毎月読んでました。マルシンの樹脂製モデルガン「ブロニングHP」を作ったときにその欠陥をくろがねゆう氏に指摘されたんですが、それをずっと気にしてました。そしてタナカでマグナブローバック方式のHPを作ったときに「今度はちゃんと作りましたよ」と誇らしげに語ってました。(HPに関しては何れまた)
ですから当然T君の酷評も読んでました。それで2作目の.380では気合を入れて作ったんです。このときも「T君に指摘された欠陥は全部直した」と言ってました。レポーターは批評家でもありますから、このときは作家と批評家との良い関係ができました。でもまだ完全じゃなかったんですけどね。
今回、オークションに出品する為に完全分解してメンテナンスしたりチューンしたりしたんですが、やはりあちこちに欠陥が目に付きました。できるだけ直して、パワーも当時は0.2J程度だった物を0.35Jは出るようにしました。でも今のブローバック製品に比べたら性能は劣りますね。30年近くも昔の物だから仕方ないと言えばそれまでですが。当時は実射性能なんて二の次で、ブローバックすると言うだけでファンは大喜びでした。古きよき時代だったんでしょうね。
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このブログのトイガンカテゴリー第4回目にアームズマガジンの遊戯銃組合除名の話を書きました。そこで当時(1991年)私は東京マルイで仕事をしてたって書いたんですが、今回はその思い出を話しましょう。 私はフリーのトイガンデザイナー(設計者)でしたが雑誌のライター家業もしてました。出版社の(株)ホビージャパン社とは1985年頃から関係があって、1988年にアームズマガジンが創刊された当初からのライターでもありました。それでジャパンの佐藤元社長にも可愛がられていたんですが、マルイとの関係はそれよりも前の1983年からありました。 それで1990年に名古屋から埼玉に引っ越してK.T.Wの社員になって、そして辞めた後にマルイと契約したんです。マルイは旧社屋の屋上にプレハブで私の研究室を作ってくれました。塔屋ともいいますが屋上の建物、つまりペントハウスですね。プレハブといっても結構大きくて15畳くらいの広さはあったと思います。そして二人の若手社員を助手としてつけてくれました。F君とT君です。 当初の私の仕事は基礎的な研究でした。物になるかどうかわからない、商品化に結びつくかどうかに関係なくエアガンの様々な可能性を探求する、という内容でした。それで研究室です。でもあるとき「これをやってくれ」と当時マルイで開発中だったM16とその中身のVer.2メカボックスが持ち込まれました。マルイはこの年の春に日本(世界でも)初の電動ガンFA-MASを発売したんですが、それがなかなか売れなかった。当時はガスガン全盛の時代でしたからね。今では当たり前の電動ガンですが当時のファンは電動ガンなんて認知していなかった。しかも一部のマニアしか知らないようなマイナーな仏軍のFA-MASです。そこでマルイはより認知度の高い米軍のM16を第二弾として起死回生を計ったんです。でもその開発が思うようにいっていなかった。それでこっちにお鉢が回ってきたというわけです。 「ええっ、聞いてないよー」って話だったんですが断るわけにもいかないし、それに電動ガンを発明したのは私だから、メーカー製の電動ガンを手がけてみたい気もあって直ぐに引き受けました。 私のところに持ち込まれた段階で銃本体のM16もVer,2メカボックスもあらかたできていました。しかしそれが上手く動いてくれない。私の仕事はそれを製品として完成させる事でした。全ての問題点を洗い出して改善していく。修正だけですまない部分は設計をやり直す、というのが私の役目でした。 まず最初にやったのはギアの軸間距離の修正でした。M16はFA-MASより回転速度が遅くなっていました。というよりFA-MASは高回転過ぎた。それを実銃の回転速度にあわせて遅くしたんですが、当然ギア比が変わってギアの大きさも違ってくる。それで混乱があったのでしょう。ギアとギアの軸間距離が少し狂ってました。今の次世代は全てのギアがモジュール1になってますが、それ以前のメカボックスはセクターとピストンのラックギア以外はモジュール0.8でした。モジュールというのはギアの歯の大きさを表す単位です。モジュール0.8は小さな歯なので許容される誤差も小さい。僅かな狂いでも大きな影響が出ます。それでそこを計算し直しました。 次にしたのはスイッチやタペットプレート、カットオフレバーといった作動パーツ全ての見直しです。確実に作動するように形状の変更や設計のし直しをしました。メカボックス本体にも修正を加えました。内部パーツとの関連に加えてメカボックス本体の強化もしました。直したい箇所は沢山あったんですが、メカボックスは亜鉛ダイキャスト製で金型には焼きが入っていました。それで修正には制約もありました。また、金型には水穴というものがあります。型に高温高圧の「湯」を押し込んで成型するわけですが、それを取り出すには型を冷やさなければならない。それでその水穴に水を流して冷やします。ちょうど修正したい箇所にその水穴が通っていて修正できないという事もありました。 それでもどうにかこうにかまともに動くものにできました。それで何とか製品として発売する事ができたんです。M16に目処が立ったら次はMP5が待ってました。MP5に関しては六人部さんに貰った実銃の図面を持っていたのでそれも参考にしました。でもそんな風に電動ガンの開発を引き受けているうちに、最初の「エアガンの様々な可能性を探求する」というのがどこかに行ってしまいました。気づいたら基礎研究ではなくマルイの新製品開発を担当する仕事になってました。電動ガンのほかには固定スライドガスガンのステヤーGBやコッキングハンドガンのオートマグⅢなんかにも関わりました。
私はこの約1年後にホビージャパンのオファーを受けてジャパンの社員となりアームズマガジンの編集兼ライターになりました。結局マルイでは基礎研究はできずに終わってしまいました。助手の一人のF君はその後も電動ガンを担当しVer.3(AK47)、Ver.4(PSG-1)を設計しました。もう一人のT君はその後部署が変わりましたが、私がエアショットガンのSPAS12やM3を設計したときにマルイ側の担当者として尽力してくれました。 当初の目的とは違ってしまいましたが、マルイの屋上、ペントハウスで過ごした事は楽しい思い出です。T君は北海道の出身でしたが北海道の人は実は寒さに弱いという事をはじめて知りました。マルイの多くのスタッフと知り合えたのも大きな喜びでした。その内今でもマルイに残っている人は半分もいません。それが少し寂しいんですが、みな私より若い人たちなので今も元気にどこかで活躍していてくれると思います。 |
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日本のガンファンやガンマニアなら「六人部登」という名を知らない人はいないでしょう。タニコバさん(タニオコバ=小林太三氏)と並んで日本のトイガン(モデルガン&エアガン)の黎明期から今日までをずっとリードしてきた巨匠です。「神様」と呼ぶマニアも大勢いました。六人部さんは2004年にお亡くなりになりましたが、氏が作り上げた作品は今もファンやマニアの高い評価を受け、そういった人たちの心の中だけでなく、流通する製品としてもまだまだ生きています。
私が六人部さんと最初にお会いしたのは1987年です。場所は東京池袋の夏目ビル(夏目漱石のお孫さんのビルでした)にあったK.T.Wの事務所です。当時私はLSなどのエアガンを設計し、トイガンデザイナーの仕事をしていましたが、広告代理店のグラフィックデザイナーとの二足の草鞋でまだ名古屋にいました。東京に行ったのはホビージャパン社で出版する“GUN SMITH3”に掲載予定だった電動ガン「バルカン砲 GE7.62㎜ MINIGUN(もどき)」をK.T.Wの和智社長に届けるためでした。実は当時の和智社長が私のマネジメントをしていたんです。
そのK.T.Wの事務所で偶然六人部さんにお会いしました。その時は夜で六人部さんはこれから飲みに行くところでした。ズボンの後ろポケットに無造作に200万円くらいの札束を詰め込んで。六人部さんはキャバレーが好きでした。六人部さんクラスになれば一仕事のギャランティーは100万単位ですから、そのギャラが出たらキャバレーで豪遊してました。私も連れて行ってもらったことがあります。
その後私は1990年に埼玉県に家族と共に移り住み、東京で仕事をすることになりました。それで六人部さんの工房にも月に1、2度お邪魔するようになったんです。そこで色々と教えていただきました。一流の人というのは出し惜しみしない。自信もプライドも高いからでしょう。聞けば何でも教えてくれました。「ここはどんなふうにやるんですか」と聞けば「それはこうやるんですよ」と実演して見せてくれました。1990年以降に六人部さんがされた仕事の全部を、私はこの目で見ることができました。六人部さんが今何を作っているのか、それがどのくらい進んでいるのか、私は全部見ることができた。六人部さんの仕事のお手伝いをしたこともあります。
それはタナカから出したマグナブローバック方式のルガ―P.08とブローニングハイパワーの製図です。六人部さんは試作屋さんです。手作りで試作品を作る。言ってみれば「原型師」ですね。だから物は作るけれどいわゆる「設計」はしない。図面は描かないんです。設計は六人部さんの原型を基に他の人がする。その意味では「トイガンデザイナー」ではなく「トイガンモデラー」と呼んだ方が正確でしょうね。
六人部さんは超一流の腕を持った職人でもありましたから、その原型、試作品は素晴らしい出来でした。でもそこに問題もあった。それを製品とするためには金型で量産しないといけないわけですが、金型ではその名人芸が再現できないんですね。六人部さんは名人芸の手作りだから何でもできる。でも金型では不可能なことが結構多かったんです。それで量産できるようにあちこち妥協して形を変える。その結果、六人部さんの試作品は素晴らしかったけれど量産された製品は凡庸なものになってしまうことが多かった。「六人部さんの試作は一流。でも量産の製品は二流」なんて悪口も言われてました。
六人部さんは量産のことはほとんど考えなかったんです。原型としての自分の作品を最高の物にすることしか考えていなかった。私はメーカーからの依頼でトイガンを設計するフリーデザイナーですから、当然量産化を前提に設計する。金型を作りやすい形。湯流れが良くて離型もしやすい形に配慮する(「湯」というのは型に流す素材のことです)。成型コストは時間で決まります。一型打つのに何秒かかるか、1分で何型打てるかでコストが決まる。だからそれを考えて設計する。さらに組み立てやすさも重要です。工場で組み立てるのパートのおばちゃんです。そのおばちゃんたちが組み立てやすいように設計しなくては生産性が上がらない。
しかしそんなことは六人部さんの頭の中にはなかった。それで量産できるように、量産しやすいように原型の形が変えられて行く中でどんどん性能は下がって行った。私の場合もありました。六人部さんの原型のままでは量産できないので一部の設計を変えた。そうしたら「私が作った通りにやって下さい」と叱られました。「でもそれじゃ湯が回りませんよ。無理ですよ」と言ったら「無理でもやって下さい」と言われました。
六人部さんはトイガン史に残る数々の名作を生み出して来ました。でもそのほとんどは六人部さんが作った原型とは違っている。六人部さん自身が作った限定品ではなく、量産された六人部作品は玄人向けかもしれません。そのままでも十分に価値のある物ですが、ちゃんと分かってるマニア、自分でチューンできる知識や技術を持ったマニアが六人部さんが作った本来の形に戻せたなら、さらにその輝きを増すことでしょう。
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外観編
SPAS12というのはイタリアのフランキ社が作った軍、警察向けのコンバットショットガンです。対テロ用ですね。SPASというのはSpecial Purpose Automatic Shottogunの略です。直訳すれば「特殊目的用自動散弾銃」ですね。
このSPAS12のエアガンは2回設計しました。最初は1989年にK.T.w
で。2度目は1997年に東京マルイででした。K.T.Wの時に実銃に取材
してそれを採寸したデータで設計したのですが、東京マルイの時もそ
のデータを基に設計しました。ですからこの両社の製品は双子のよう
にそっくりです。まあ、実銃に近づけれはそうなるのは当然ですが。
ただ少し違っているところもあります。それをこれから解説しまし
ょう。
全般的に言えばK.T.W製の方がより実銃に近くて正確です。東京マ
ルイ製は3シリンダー3バレルという、それまでになかったメカニズ
ムを内包させたので、どうしても実銃通りの寸法にはできなかった。
金属製なら薄くできたんですが、ABS樹脂で3本束ねたシリンダー
やレシーバーを作るとどうしてもデブってしまう。無理をして薄くす
ると強度が低くなってしまいますからね。
それで東京マルイのレシーバーは実銃より少し大きくなっている。私
の設計では2.4㎜デブでしたが製品を実測すると2.7㎜厚くなってます。
またバレルも少し太い。これは東京マルイの外径8.5㎜のバレルを
束ねると、どうしてもアウターバレルの内径が20㎜は必要になる。
20㎜でもアウターバレル内を飛んでいくBB弾とのクリアランスは1.5
㎜程度です。精密に作れるカスタムならともかく、製造誤差の大きな
量産品ではこのくらいのクリアランスは必要です。それでアウターバ
レルを内径20㎜、外径22ミリにしました。まあ、その方が太ったレシ
ーバーとのバランスも取れますしね。
それによってバレル下のマガジンチューブも太くなりました。これ
もバランスを取るためです。当然その基部も太くなる。そしてその後
ろのバレルジャケットも厚くなり、フォアエンド(先台)の幅も少し
広がります。レシーバーが厚くなってるからグリップの幅も広がって
います。
でも東京マルイ製の方が正確な部分もあるんですよ。K.T.Wはバレ
ルジャケット、フォアエンド、グリップを実銃から型取りしました。
ですから形は実銃と全く同じです。ですがその型に流す素材の収縮に
よって実際よりほんの少し小さくなってます。
K.T.Wが使った素材は一般に「レジン」と呼ばれる無発泡ウレタン
です。この素材は結構収縮率が大きく2〜3%くらいある。普通の樹
脂より1、2桁くらい違いますね。それでK.T.W製SPAS12のフォアエ
ンドやグリップは形は正確ですが寸法が少し小さい。東京マルイの方
は金型で作ってますから、実銃通りの寸法になってます。
以下は、写真を見てください。キャプションで解説していきます。
メカニズム編
【可変パターン】
ヤフオクで落札した東京マルイのSPAS12を可変パターンにカスタムして出品しました。前にも言ったと思うけど、壊れてジャンクでヤフオクに出てる自分の作品を落札して、それを直してもう一度出品するってのをやってます。自分の作品は子供みたいなものだから、壊れていたらちゃんと直して、もう一度ファンに楽しんでもらいたいと思う。それで「野村再生工場」みたいなことをしてるんです。
それもできるだけ安く出品したいから落札時の価格以下で出してます。落札送料と直したり、チューンしたりの材料費、手間賃はサービスです。だからあまり儲からないどころか大赤字なんですが、ファンに楽しんでもらうのが目的だからそれでいい。
可変パターンのアイデアは私が考えたのではなく、東京マルイが昔から持っていたものです。それをSPAS12を設計したときに盛り込もうとしたんですが、省略されてしまった。それでオークションに出した物につけたんです。マルイのエアショットガンは3発同時発射なんですが、その3発の広がり(パターン)を自由に調整できるというものです。その仕組みを説明しましょう。
基本は簡単です。3本のバレルを捻ることによって角度をつける。そうすればBB弾は斜めに飛んでいきますからパターンが広がっていく。これは捻らなくてもテーパー状に角度をつけても同じことです。でも捻るのが一番単純で簡単だからその構造になりました。
左右どちらにも回せます。回す角度が同じなら左右どちらでもパターンの広がりは同じです。機能的にはどちらか一方だけでいいんですが、右利きの人は右手でグリップを握って左手で回すので右回転のほうが回しやすいし、左利きの人はその逆で左回転のほうが回しやすい。それで両方に回せるようにしました。
具体的には以下に写真で説明しましょう。
【K.T.W. SPAS12-Sメカニズム】
K.T.W.のSPAS12には4種類のバリエーションがありました。今回はその3作目のショーティモデルのメカニズムを説明します。
このショーティモデルはアウターバレルを3インチ(75㎜)短くして、4発同時発射の散弾方式にした物です。その仕組みはコッキングでノズルが後退すると、その前にゾロゾロっと4発のBB弾が給弾されるという物です。
こんな感じ
でも最初の設計は違っていました。回転式のチャンバーに下から上がってくるBB弾を収めて、それを回転させて水平にするという物で、「ロータリーチャンバー」とも言える物です。初めは弾の数も3発でした。
これが誰のアイデアだったのか覚えていないんです。六人部さんだったのか、K.T.W.の和智社長だったのか、それとも私だったのか。この方式は後にマルシンのモスバーグにも使われましたし、六人部さんはガスブローバックで「ロータリーバルブ」を発案しているので六人部さんのアイデアっぽいです。でも私が描いたアイデアスケッチが何枚も残っているので、このアイデアを具体化したのは私で間違いないでしょう。このロータリーチャンバー方式を止めたのは、メカが複雑になって作りにくいしコストも増えるからです。
ただ4発ってのはやはり無理がありますね。0.2g弾を使うとして全部で0.8gになります。それが押し合いながらバレル内を進んでいくわけですから抵抗も大きくなりますし、加速に時間が掛かるからBB弾とバレルの隙間からのエアロスも増えます。それでかなり効率が悪くなる。
今回この12-Sをヤフオクに出品したんですが、4発の散弾ではほとんどまともには飛ばないので、1発だけの単弾(単射)モードも追加したカスタムにしました。それと可変HOPも付けました。これでぎりぎり4発散弾でも使える物になったかなって感じです。
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今回はアサヒファイアーアームズ(以下アサヒと略)のM40 A1事件の話です。長い話なので一回では終わらないかもしれない。この騒動が起きたのは1992年。そして実銃と認定され摘発されたのが1994年。四半世紀くらいしか経ってません。真相を暴露するにはまだまだ早いという気もします。しかしこの事件の真の主役だったホビージャパンの佐藤光市元社長は亡くなっており、ヒール役になったアサヒの築地恵氏も既に故人となっている。この事件に直接かかわった人間はもう数人しか残っていないでしょう。その中で事の顛末を全て知っているのは、私ともう一人しかいないと思います。そのもう一人というのは当時のアームズマガジン編集長だったO氏です。しかしO氏はその後ある不祥事でホビージャパンを去り、今は消息不明です。もしかしたらその時の真相を語れるのは私一人だけかもしれない。その私ももう爺です。まだ元気なうちに書き残して置きたいと思います。
ただ最初にはっきりとさせておきたいのは、アサヒのM40は本当に危険でトイガンの世界には存在してはならない物でした。銃自体は無改造で実弾(実包)が撃てます。.22LR用のアダプターを使うので、それが「銃」だと詭弁を弄する者(アサヒやアサヒ擁護のマニア)もいましたが、こういった物は実銃の世界にはある。.30口径や.44口径のライフルやリボルバーから、.22口径の弾を撃って気軽なプリンキングを楽しむためのコンバージョンキットがある。大口径バレルの中に.22用の細いバレルを挿入して、.22用のアダプターを使う。だから決して特殊なものではないんです。少し銃に詳しいものならそういったアダプターがあることは知っている。
さて、事の発端は私がアームズマガジンに書いたコラム的記事でした。これはアームズ創刊以来ずっと私がやっていた“AIR SOFT GUN Tuning Guide”という連載のなかで、読者から寄せられた「蓄気式カートリッジ」に対する評論記事でした。その中で私は先に摘発されていたコクサイのM29を例に挙げて、蓄気式の危険性を強調しました。この中にはアサヒM40という言葉は出てきません。しかし「バレル後座式」「日野式拳銃のブローフォアード」と書いたのは明確にアサヒM40を思っての事でした。この事件の渦中でGUNマニアの同人誌“SIGHT”からM40事件はアームズのこの記事が発端と批判されたときには、「M40発売のずっと前に書かれた記事で、一般論として蓄気式の危険性を言っただけ。」とトボケましたが、これはアサヒのM40を標的にしたものでした。だってバレル後座によって高圧エアを開放するメカの蓄気式はアサヒM40しかないんですから。(余談ですがこの後この同人誌の中心メンバーが改造銃を作っていて、銃刀法違反で逮捕されたといオマケもつきます。そんな違法なものを作るなんてろくなマニアじゃない)
後に日本テレビに協力してM40の実射実験を行い、組合から除名されそうになった某トイガンメーカのS氏は、裁判所に提出した「意見陳述書」で、このアームズの記事でM40の危険を知ったと記していますが、実はこのS氏も「佐藤元社長と愉快な仲間たち」の一人でした。そう、M40事件は佐藤元社長が中心となって、すべて佐藤元社長の筋書きで運んだ事だったんです。
でも発端となった私の記事は佐藤元社長の指示で書いたものではなかった。私個人の判断でアサヒM40が危険だと思ったから書いたんです。アサヒM40には実弾(実包)を発射する為に必要な要素が揃っていた。弾丸を発射するための金属製の薬室と銃身。鋼鉄製ボルトの頑強な閉鎖機構、そしてカートリッジを発火させる強力な撃発機構。全て揃ってました。唯一つ無かったのはプライマーを叩く「撃針」。しかしそれはアダプターを使えば簡単にできる。アサヒM40は本当に危険なものでした。ですから私個人の判断でその危険を知らせる記事を書いたんです。しかし佐藤元社長はこれによって築地さんのアサヒを攻撃できる格好の材料を手に入れました。
この時はひとつ前に書いたアームズの「検証シリーズ」が続行中でした。事の始まりから半年経ってました。しかしアームズ側は既に勝利を確信していた。前に書いたようにアームズに協力する組合員は多かった。それらの人たちの力でアームズは全ての情報を手に入れ、常に前田理事長、築地副理事長の先手を打つ事ができた。「この戦いはもう勝ちだ。我々の完勝だ」と思っていた。それで検証シリーズの内容も、それまでの批判からより建設的な「提言」に変わった。この号のタイトルは「ASGKへの提言 組合民主化と自主規約遵守のために」でした。アームズ側としては「もう勝負は付いてるんだから、あとはどういう形で終わらせるか」という段階に移っていた。この騒動でアームズは多くのものを得た。多数のメーカーやショップとの絆が深まりました。ともに前田理事長、築地副理事長の専制と戦った同志になれたんですから。しかし佐藤元社長はそれだけでは納得していなかった。そんなところにアサヒM40が舞い込んできたんです「飛んで火にいる夏の虫」状態で。
まあ、今回はこれくらいにしましょう。続きはまた。
【追記】
当時を知らない人はどうして理事長がそんな強大な権力を持てたのか不思議に思う人もいるでしょうね。でもその頃は組合発行の証紙がないと製品が売れなかったんです。流通も組合が抑えてましたから証紙のない製品は問屋も扱わない。そしてその証紙の発行権限を理事長が握ってたんです。理事長に逆らったら発行どころかその前提となる検査も妨害される。だから皆、理事長に逆らえなかったんです。
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