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私としては初めての事だが二日続けて日記の更新だ(´∀`*)

今日たまたまtwitterのタイムラインに、先日アメリカのコネチカット州ニュータウンにあるサンディ・フック小学校で起きた銃乱射事件後のNRA(全米ライフル協会)の対応に対する呟きが流れてきた。

NRAの対応とは、こういった凶悪事件に備えて学校に武装警備員を常駐させるというもので、その費用を援助するといった内容だ。twitterの呟きはそれに批判的なものだったが、私はそれに対して
私は全米ライフル協会の主張は支持してるんだけどね。「銃が人を殺すのではなく人が人を殺す」「銃を規制すれば権力と悪人だけが銃を持つ」は正しいと思うよ。

と空リプ(誰かに対してではなく、独り言の呟き)をしたのだが、その空リプに反応があって2、3人の人と話をした。そして最後に私の考えを次のようにまとめた。
1.米国で銃規制が進まないのはNRAの政治力が強いからだが、その背景には独立戦争以来の建国の歴史と文化がある。まず銃を持って立ち上がった一般人からなる民兵によって英国の植民地から独立できた事。そして銃によって身を守り、食料を得、広い大陸を開拓して発展してきた歴史。(続く 

2.開拓時代に銃が必要だったのは身を守る為だが、同時にそれは平和をもたらす物との考えも生まれた。互いに相手を撃ち殺す力を持っていれば逆に争いを避けようとする。これが“PEACE MARKER”の由来。これは力の弱い者を暴力的支配(国家支配も含む)から守るという考えにも繋がる。(続く

3.銃を持っていれば、か弱い女性も屈強な男に支配されずに済む。銃は自由と平和と平等をもたらし民主主義を実現させる物だ、というのがNRAの主張であり、多くの米国人がその考えを支持している。それが変わらない限り米国で銃規制が進むことはないだろう。

これに関して、もう少し詳しくまとめてみたい。

米国で銃規制が進まないのはNRAが頑強に抵抗しているからだが、NRAは右翼ではなく思想的には左翼だ。

米国の独立戦争は市民革命でもあって、その思想的源流はフランス革命と同じだ。フランス革命では王制を打倒したが「アメリカ革命」では宗主国であったイギリスの支配を打倒した。ともにその主体となったのは「市民(農民)」であり、アメリカの場合はそれが民兵として組織され、イギリスの支配から自由となった。

これが「合衆国憲法修正第二条」の根拠であり、「自由と民主主義」を建国の理念とするアメリカの考えだ。

合衆国憲法修正第二条
「規律ある民兵は自由な国家の安全にとって必要であり、人民が武器を保有、携帯する権利を侵してはならない」
A well regulated militia being necessary to the security of a free State, the right of the People to keep and bear arms shall not be infringed.

NRAの主張はこの理念に則り、修正第二条を銃規制に反対する根拠としている。すなわちNRAの主張を一言で要約すれば「自由な国家を守る為に我々は銃を手放さない」という事になる。これは権力が自由と民主主義を奪うのなら銃でもってその権力を打倒するという宣言だ。NRAのスローガンの一つである「銃規制すれば権力と悪人だけが銃を持つ」はそれを表している。

映画監督のマイケル・ムーアなどはこのNRAの姿勢を批判し、銃規制の必要性を強く訴えているのだが、銃規制を厳しくして市民から銃を奪えば安全な市民社会が出来るかどうかは単純な問題ではない。日本では銃によらない大量殺人も起きている。凶悪犯から銃を奪っても別の凶器で大量殺人を犯すだろう。銃規制すれば銃による凶悪事件は激減するが、凶悪事件件数自体はそれに比例しないだろう。

更にこの場合困った事には銃規制によって一般市民が「丸腰になる」という問題も生まれる。上記のサンディ・フック小学校での事件にしろ、学校側が丸腰だったから多大の犠牲が出たと見る事もできる。NRAが言う警備員を配置するという考えは、平和な日本の感覚からすればトンデモかもしれないが、アメリカの現実においては合理的な判断でもある。

NRAの「権力と悪人だけが〜」と言うのは銃規制の厳しい日本の現実でもあって、実際に多くの日本の暴力団は銃を隠し持っているか容易に入手できる。確信的犯罪者は銃規制があっても非合法に銃を入手する。米国でこれまでに起きた数々の銃乱射事件でも非合法で入手した銃が使われた例は多い。米国では「銃で強盗を撃退した」「銃で暴漢から身を守った」といった事例が普通の市民社会に多数存在する。単に銃規制で市民から銃を奪うだけでは、市民の防衛力をなくし、逆に市民の安全を低下させる事にもなりかねない。

マイケル・ムーアの主張が間違っているとは思わないが、それが実現される為には銃がなくても市民が安全に暮らせる社会に米国がならなければならない。その場合市民を守る一義的責任は警察が負う事になる。しかしそこにも問題はあって、それは必然的に警察権力の増大を招く。警察による市民社会の管理、すなわち「警察国家」に近づく。

更には、銃規制は銃その物の規制にとどまらず、それに関連した様々な規制をもたらす。銃を製造可能な工作機器類や素材の規制。様々な薬品類や高圧ガスに関する規制。銃器に転用可能な部品類の規制等等だ。これらは全て市民の自由を制限するベクトルとして働く。

これはNRAの主張の裏返しで「銃を棄てて権力に自由を奪われる」という事に繋がる。合衆国憲法修正第二条の、人民の武装権によって自由を守るという理念の放棄になる。建国の理念として自由を掲げている米国の多くの人々はそれを受け入れるだろうか。むしろそれを受け入れないからこそ、米国の銃規制が進展しない現実があるのではないかと考える。

ずっと更新しなかったブログだが久しぶりに日記を書いた。

警察官の職質等をポイント制にして市民の側に何らかの利益をもたらす制度に変えるという提案だ。

 今日、自転車で買い物に出てたら若い警察官に呼び止められて、自転車の防犯登録の照会を求められた。早い話が窃盗自転車ではないかと疑われたわけだ。

 こういった事は若い頃から何度もあって、その度に不愉快な思いをしているのだが、何とかならないものだろうかと痛感する。ここ2年程の間でも4度同じ事をされている。全部が若い警察官で、職務に忠実といえば聞こえはいいが点数稼ぎに必死なのだろう。

 今までは市民として仕方のない義務といった感じで応じてきたが、今日は面倒だから「嫌だ」と拒否した。だが、しつこく食い下がるので氏名を告げ、免許証も自発的に見せて自転車窃盗犯ではないことを示そうとしたが、その警察官は一切取り合わず照会を続けた。
 
 大抵は今住んでいる名古屋市南区内での事だが、今日の場合は瑞穂区で瑞穂署の警察官だった。若いからてっきり巡査だと思っていたが、写真で確認してみると巡査長だった。なるほど。私の勝手な印象に過ぎないが、如何にも必死で点数稼いで昇進試験もガリ勉して出世を目指すタイプに見えた。

 対応は非常に礼儀正しい。言葉使いも至って慇懃である。その点の教育は行き届いているようだ。しかしこちらは無駄な時間を取られたり、行動の自由を制限される事が不愉快なのだ。丁寧に対応すればよいという話ではない。私は
「これまでに何度も照会されてる。照会しても無駄に終わるだけだ。私の無駄になった時間をどう補償してくれる」
と聞いたが
「ご協力をお願いします」
というだけだった。
 
 もちろんその自転車は私が購入したもので、照会は何の問題もなく終わった。その警察官は協力に対する感謝と、時間を取らせたことに対する謝罪の言葉を述べたが、私の怒りは収まらなかった。それは単なる「マニュアル」に過ぎない。私はその警官の氏名を聞き、証拠の写真を撮影し、瑞穂署にクレームをつけることを告知してその場を去った。

 約一時間後、自宅に帰った私は瑞穂署に電話を入れ事の顛末を話した。応対に出た担当者は謝罪し、その警官に十分注意しておくと約束してくれたが、多分何もしないか、逆に頭のおかしなジジイだと笑うのが関の山だろう。警察自体がそう言った活動を奨励しそれを個々の警察官の評価の対象にしている以上、それを咎める事はありえない。

 警察のそういった「防犯活動」が犯罪防止や摘発、社会秩序の維持に役立っている事はあるだろう。だから市民の側も少々の不便や不愉快は我慢すべきだというのもわからなくはない。この点は行きすぎれば「警察国家」となる危惧もあるし、日本は特にその心配が強いように思え警戒が必要だとも思える。
 ただここで気になるのは、それが警察官の職務として評価されるのに対し、市民の側は一方的な不利益しか受けないという事だ。もちろんそれには「安全な社会を維持するためのコスト」とか言った優等生的考えもあるのだが、私はそれを首肯しない。

そこで一つ提案したい。ポイント制の導入だ。自転車の防犯登録照会にしろ、あるいは職務質問にしろ、それを受けたらポイントが貯まる制度だ。警官がポイントカードに捺印し1回につき1ポイント貯まる。10ポイント貯まったら図書券500円分とか、20ポイントならお米券1000円分とかにすればいい。単なる無償の「協力」ではなく、市民の側にも何かしらの見返りがあれば不愉快な気分も緩和されるだろう。

 当然それには税金が充てられるわけだが、全国各地の警察は莫大な裏金を作っているという話だから、それを充当すれば新たな財源を設ける必要はないと思われる。れには無用な照会や職質を減らす効果もある。ポイントカードを見せて既に数ポイント貯まっていれば、この人は犯罪者ではないという判断にもつながる。
 イメージ 1
この人が瑞穂署の○巡査長。瑞穂署に電話した時に「公務中だから名前や顔写真をネット公表してもいいですね」と念を押したら「それはやめてっもらいたい」と言われたので顔を塗りつぶした(*´∀`*)
 
(この小文は池田さんのエッセイを批判する意図ではなく、この文章がもたらす影響や人々がどう受け取ったかをちょっと考えてみたものです。)

 このエッセイは信濃毎日新聞に掲載された「トカゲのしっぽ 蟻の影 3『避難したあなたへ』」というものです

 大変心優しく避難した人への思いやりに満ちた文章で、これを読んで感動した人も多いと思います。
 しかし、そういった表面的な優しさや思いやりを脇に置いて、この文章全体の意味を分析して見ると、そんな単純に感動ばかりしていていいのかとの疑問も持たれます。
 
 サブタイトルに「人生懸けた決断を支持」とあるように、池田さんは一貫して避難した人を支えようとしています。そして避難した事を肯定しています。ですがその文章を良く読んでみるとかなりの矛盾を含んでいます。

「発災当時、私たちにはなんの知恵もありませんでした」
と書いて、だからその不安から避難したのも当然だとします。
しかし
「あれから、情報は日々改まり、わかってきたことがたくさんあります」
と続き
「福島でも学校給食からはほとんど放射性物質が検出されない」
「福島の部活の高校生79人をホールボディカウンターで計ったら、心配なほど内部被曝している人は一人もいなかった。」
と書いた後
「極め付きは、放射線の影響がより深刻だとされていた子どものほうが、むしろ被曝をはねかえす力をもっていることを示す知見です。」
「修復能力も子どものほうが上なのだそうです。」

 上の「子どものほう…被曝をはねかえす力をもっている」「修復能力も子どものほうが上」は科学的には誤りですが、そんな不確か事例もあげて安全性を強調しています。
 このように当初は何も知らなくて、その不安から避難したけれど、今は色々と分ってきた例をあげて、そんなに心配ではないという意味の言葉を連ねています。これだけでは当初避難したのは仕方ないが、今避難し続けているのは誤りという事になります。今重要なのは過去がどうだったかではなくこれからどうするかですから。

ここで疑問がわく訳です。避難したのは「危険かもしれない」からです。それが避難の理由です。しかし池田さんはいくつかの例をあげてその危険性を否定しています。「情報は日々改まり、わかってきたことがたくさんあります」と。

さらに
「避難した人びとは考え過ぎだったのだ、という声もあると聞いていますが、それは後知恵です。」
と書いてます。

これは避難した事を擁護する書き方ですが、同時に「当初、私たちはなにがなんだかわからなったから…当然でした」が、今になって振り返れば「考え過ぎだった」という意味にもなります。後知恵とは後から分った事なのですから。

この文脈で「当初避難したのは情報不足で仕方ないけど、いまは様々な情報があって心配するほどの危険は無いのだから戻ったら。」という結論なら、この文章全体の整合性は取れるのですが、ここで池田さんは
「安心材料が出てきたとはいえ、だれも何年も先までの安全は保証できません。どうするかは一人一人にゆだねられています」
と、結論をぼかし
「どちらに決めても、私はあなたの味方です。」
と書いて、優しさと思いやりを発揮しています。

文章全体としては歯切れが悪いというか、何の意味があるの? と思ってしまうエッセイです。現時点では安全なのだから避難し続けるのは間違いだ、とも読める事を書いておいて、何年も先は解らないしリスクを負うのは当事者だから個々で判断して、って、結局何も言ってないのと同じです。池田さんは単に「私はあなたの味方」と優しい言葉をかけたかっただけなのでしょうか。

この何とも意味のない文書がどうして書かれたんだろうと考えていた時、下の池田さんのツイートを読んで納得できました。

避難に大きなコストを払った人は「被曝、現状はそれほど懸念はない」「瓦礫広域処理」「再稼働」を認めたら、自分がした事を自分で否定するような気持ちになるのかもと思ってます。なんとかサポートしたいけど…RT @kumikokatase: @kikumaco_x @son_in_law
返信する RTする ふぁぼる ikeda_kayoko 2012/06/08 23:19

池田さん自身はこのエッセイにある通り「安全だ心配ない」と思っている(少なくとも無意識のうちに思っている)。「被曝、現状はそれほど懸念はない」と思っている。だから本心は「戻ったら」と言いたいのではないでしょうか。ただそれは言えない。何年も先の事は保証できないし、戻って何かあったときの責任も負いたくない。だから「一人一人にゆだね」るしかない。でもそれだけではいかにも人として冷たい。それで結局「私はあなたの味方」と優しさと思いやりの言葉をかけたのではないかと思えます

このエッセイに関してtwitter上で何人かの人とやり取りして感じたのは、この文章の表面的優しさや思いやりしか読み取っていない人の多さでした。例えば「避難した人びとは考え過ぎだったのだ、という声もあると聞いていますが、それは後知恵です。」を単に避難を擁護したとだけしか読んでいない。その裏には、「今にして思えば考え過ぎだった」という意味がある事を理解できない。

最初、私はこれを単なる読みの浅さと考えたのですが、どうもそうではないと思い始めました。多くの人がこの池田さんの優しさに同調したのは、多分その人たちも池田さんと同じ気持ちだからではないかと考えました。

つまり上に書いた「被曝、現状はそれほど懸念はない。だから戻ったらと言いたい。しかし戻って何かあったときの責任も負いたくないから一人一人にゆだねるしかない。でもそれだけではいかにも人として冷たいので優しさと思いやりの言葉をかける」という事です。

普通の人の普通の常識や倫理観にぴったりとあてはまった反応なのでしょう。困ってる人を助けたいという普通の同情心から優しいだけの言葉をかけたという事でしょう。でもそれで傷ついたという避難している人もいました。
「被災者の心を傷つける文学の力−池田香代子氏の「避難したあなたへ」 #原発 #被曝 #福島」http://togetter.com/li/319336
「私はあなたの味方」のエクスキューズを除いた文意は、避難した事は考え過ぎだったけど当初は仕方なかった。しかし今は安全だから戻るのが正しい。でも自己責任だから自分で決めてね。なのですから。

菊池誠氏が言うように「やすっぽい正義感は、所詮は自己実現」なのでしょう。

余談ですが、以上の事を考えていたら「一杯のかけ蕎麦」の話を思い出しました。

この件に関連した私のtogetter纏めです。

これも『もうダマされないための「科学」講義』(光文社新書)に収録されているます。テーマはタイトルにある通りで、日本版「信頼の危機」を克服する為の科学技術コミュニケーションがどうあるべきかの論考です。これは本書の中では第四章にあたり「付録」を除いて最終章になっています。この書は直截的には、市民を騙す「ニセ科学批判」や「デマ批判」なのですが、その射程には個々の事例を越えて科学そのものの在り方。我々が生きている社会の中で科学がどのような位置と関わりを持ち、その関係の中でどういった役割を果たしていくかと言うテーマがあります。氏の論考はそれを俯瞰的に総括しこれからの展望を提示するものでしょう。

そこで語られているのはこれまでのそれ(社会における科学の位置と関わり)の簡潔なまとめと、現在の“日本版「信頼の危機」”と呼ばれる状況の分析。そして今後克服していかなければならない課題として、従来からの「欠如モデル」ではない、科学側と市民側との双方向の「科学技術コミュニケーション」の重要さが強調されています。

特に重要とされているのは「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題群」を扱う“トランスサイエンス・コミュニケーション”です。これは原発の是非などの科学だけでは決められない問題に対して、科学者と市民間のコミュニケーションだけでなく、それ以外の様々な分野の専門家や政治家、産業界、メディア等を包括したコミュニケーションです。3.11以降の科学や政治、行政等に対する市民の信頼が大きく揺らいでいる「信頼の危機」状況では、そのトランスサイエンス・コミュニケーションを築く事が重要視されています。

このトランスサイエンス・コミュニケーションがどのようなシステムと具体的な組織形態で動いていくのか。その理念からして一元的、画一的ではない多元で多様なシステムや組織になるだろうと思われます。ただ、原発の是非の様な国家的問題では、一元化する「センター」は必要でしょう。それを既存の「日本学術会議」のような組織が担うかどうかは、これからの課題だと思います。

それと、全体のシステムがどのような物になるにしても、そこにインターネットの存在は不可欠だと思います。公開性や透明性を担保するだけでなく、広く一般市民(その中に学者や専門家が含まれる場合もあるでしょう)の意識や意見を拾い上げるにも、またトランスサイエンス・コミュニケーションの場で集約された結果を市民にフィードバックさせるにも、ネットは欠かせないと考えます。組織化されてもいないしルールも何もありませんが、twitterなどは既にその原初的機能を果たしつつあるのではないか、とも思われます。少なくとも「双方向コミュニケーション」のツールとしてネットが有用である事は証明していると思います。

漠然とした全体像は国家的問題を検討するセンターと、それとは別のオルタナティブなトランスサイエンス・コミュニケーションの場が、平面的にも重層的にも多種多様にあって、それらをネットで繋ぐと言ったものでしょうか。地域的なローカルな問題は個々の場で解決し、国家的課題は全てのネットワークがその問題意識を共有し、それぞれが市民との相互コミュニケーションを図りながら、そこでの決定をセンターに集約していく。そしてその結果をフィードバックして更に議論を深め、最終的な認識を市民も専門家(政治や行政、財界等)もが共有する。といったものでしょうか。

ちょっとスケールが大きすぎるし漠然ともしすぎているので、私にはそれ以上解りません(笑)。

以下専門家と市民とのコミュニケーションに関して思いついた事を述べて見たいと思います。
(ここからは急に下世話な話になります、私の個人的偏見、科学者に対する誹謗中傷も含まれますので、ご注意ください。)

科学者(専門家)にコミュニケーション能力は必要か

科学者、特に物理系は基本的に「引き籠り」だと思います(勿論偏見ですw)。元々彼らは「オタク」的ではありましたが、現在はそのオタク度が増している気がします。いえ、前から変わっていないけど、3.11以降科学者が矢面に立たされる機会(ネットも含めて)が増したからそう見えるのかもしれません。

菊池誠氏などは半ば自虐的に「科学者のコミュニケーション能力不足」を繰り返しツイートしています。これは科学者になったからコミュニケーション能力が不足したのではなく、元々不足していたから科学の道を選んだともいえる訳です。人と人とのコミュニケーションには感性的な「信頼感」であるとか「共感」が欠かせないのですが、彼らは自分を感性的に表現したり相手を理解したりが苦手だった。つまり「感性的コミュニケーション」が非常に不得手だったのではないかと思います。

それでそう言った対人関係や他者との社会的繋がりを億劫に感じ(あるいはそう言った関係で傷つく事を恐れて)感情を排除できる世界、言ってみれば1+1=2の「非人間的社会」を選んだのではないか? 数式や術語だけの世界ならいくら議論しても感情的に傷つく事はありませんし、感性的コミュニケーションの得手不得手も関係ありません。

以上は私の全くの独断と偏見な訳ですが、もしそうだと仮定すれば科学者の社会性や政治感覚の無さも了解できる気がします。彼らはそう言ったものから無縁になりたくて科学の道を選んだのですから。しかしその場合、トランスサイエンス・コミュニケーションの立場からすると、科学者はそのメンバーとしての適格性に欠ける事になります。実際にそう言ったコミュニケーションの齟齬はtwitter上でも頻繁に見られます。私自身も何度もそんな経験をしています。

では、トランスサイエンス・コミュニケーションの場で、科学者の立場や科学的な事柄を市民側と「対話」する「人材」にはどんな人がふさわしいのか。菊池氏は「文系の人」に丸投げしようとしているようですが(w)。 実際に大学などの教育機関で「科学技術コミュニケーション」を学んでいるのは理系の人がほとんどの様です。しかしその人たちも基本は「引き籠りオタク」な訳ですから、あまり相応しいとは思えません。勿論科学者が一様である訳はなく、「引き籠りオタク」ではない理系の人もいるはずです。そう言う人がコミュニケーション能力を高めて、トランスサイエンス・コミュニケーションを担ってくれればよいのですが人材確保はなかなか難しいだろうと思います。

私は市民の側から一定の科学知識や方法論を身につけた人(文系の専門家でも勿論構いません)と、科学者側から「科学技術コミュニケーション」を学んだ人とが複数でグループを作るのが良いのではないかと思います。元々コミュニケーション能力が高く、その訓練も受けているメディア関係の人も必要でしょう。そこで「科学を市民に伝える役」と「市民の意見、考え等を科学者に伝える役」に役割分担して、そしてそのグループ内で何をどのように伝えるかを討議しながら、コミュニケーションを深めていく。

ちょっと伝言ゲームの趣ですね。その過程で科学的には不正確な事や市民側の意向が科学者側に十分理解されない事も起きるでしょうが、それはコミュニケーションを重ねる事で解決していくしかないと思います。理想的にはそんな「仲介者」なしに直接科学者側と市民側とが対話できればよいのですが、現状ではそれは「夢物語」に近いので、トランスサイエンス・コミュニケーションを具体化し実践していくには、当面そう言った「仲介者」は必要だと感じます。

あと、科学者の感性的鈍感さ(「正しく怖がる」でさんざん経験した)なんかもこきおろしたい気分ですが、それはtwitterで呟いていきましょう(笑)

twitter上の一部で話題になっている『もうダマされないための「科学」講義』(光文社新書)を読んでみました。この新書は「菊池誠」「松永和紀」「伊勢田哲治」「平川秀幸」「片瀬久美子」各氏の(関連はあるが)それどれ独立した、5つの論考から構成されています。その中で片瀬氏の「放射能物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込むひとたち」は「付録」という位置付けにされています。

最初に片瀬氏の「付録」から読み始めました。「付録」を最初にしたのはそれがtwitter上で批判を受け話題になっていたからです。そこでは主張の是非ではなく、表現の仕方とか著者の姿勢とかが批判対象とされていた印象でしたが、ここではそれに関連しつつ、この「付録」を読んで思った事を述べてみたいと思います。

この部分は新書にありがちな“HOW TO”的色合いの強いもので、様々な「デマ」のパターンや具体例の紹介と分析により、その「デマ」に騙されない為の考え方や姿勢と言った物を提言しています。

一読して違和感を持ったのは、「デマ」の例としていくつかの事例が紹介されているのですが、その中には動植物の奇形や変異があり、現時点では原発事故で漏れ出た放射性物質の影響である可能性が「極めて低い」と推論することはできるでしょうが、それを「デマ」だと決めつけるのは乱暴に思えました。と同時にずいぶんと勇気のある主張にもとれました。ここでの片瀬氏の論理は「他にも同様の事例がみられるから原発とは関係ない」と言うもので、原発事故によるそう言った影響は「無い」と言っているのに等しいように感じます。これは後にそう言った事例(被害)が出ても原発とは無関係だと言う論理的根拠となり、被害者に不利益を与える事も考えられます。決して「全く影響はない」と断定している訳ではありませんが、読者の方がそういう風に受け取りかねない書き方になっているように思えます。(これに関しては最後にもう一度触れます。)

科学に不信感を抱く人々には届かない

もっとも、私が抱いた最大の違和感、疑問はそこではなく、この「感想」のタイトルである「伝えたい人々に届いているか」と言う点です。片瀬氏の目的が「デマ」に騙されて健康被害や金銭的損失を受ける人々を救いたい。またそう言う被害を予防したい。と言う事であるのは疑えません。しかし問題は、この「付録」がその目的を達成できるかであり、ひいては本書そのものがその目的の為にどこまで有益か、という疑問です。収録されている5編の論考は(バラバラではないが)その問題意識もテーマもそれぞれに異なっているので、一括りにするのは難しいのですが、片瀬氏の目的に限って言えば、本当に伝えたい人、救いたい人々には氏の思いは伝わらず、その目的達成は不十分に終わるのではないかと言う疑念です。

氏のスタイルは、科学的思考法や方法論で事実を理解すれば騙されない(騙されにくくなる)という、所謂「欠如モデル」なのですが、「信頼の危機」にある現在、それを受け入れるのは既にそう言った科学性を(潜在的にであれ)身に付けている人か科学的思考法が正しいと信じている人で、その人たちは元々「騙されにくい存在」だと考えられます。一方「騙されやすい存在」があるとすればその人たちは科学的思考や科学そのものに不信感を抱いている人達であり、その人達に対して「欠如モデル」はほとんど無力ではないでしょうか。彼(彼女)らはけして蒙昧でも論理や合理が理解できない訳でもなく、科学的に正しくない事は理解できても、それでは納得できない人達だと思います。

この事は私自身も「Oリングテスト」で経験しました。二重盲検法でテストの非科学性を立証するのは簡単なのですが、納得はしてもらえなかった。科学的に理解はしても科学的思考や方法論だけが正しい訳ではないし、それが全てでもないからです。

その意味ではこの新書の書名自体が、すでにそう言った人たちを「排除」していると思います。この書名は、「あなたたちはダマされている。もうダマされないようにこの本を読んで科学を勉強しなさい」と読めます。これを受け入れられるのは科学を信奉している人だけです。最もダマされやすいであろう科学に不信感を持っている人や科学を嫌いな人は引いてしまいます。「ウエカラ目線で何言ってんだ」と反発する人もいるでしょう。実際の購買層も科学者たちと同じ立場かその同調者がほとんどではないかとすら思えるのです。実際に騙されてほしくない人たちに届くのだろうか。これは「科学なしでは解けないが、科学では解決できない」トランスサイエンス コミュニケーションの領域の話だと思えます。

毒をもって毒を制する事は可能か?

では、そう言った、科学が全てではないと思っている人たちが騙されないようにするには、具体的にどのような事が考えられるもでしょうか。大切なのは「あれもデマ」「これも嘘」と否定ばかりするのではなく、「こうしたらよい」と具体的な方法や行動指針を勧める事だと思います。「○○mSv以下は科学的に安全だから気にしなくて良い」ではなく、少しでも被曝を減らす具体的方策(それが科学的にはほとんど無意味だとしても)を広める事ではないかと思うのです。

「被曝の危険よりそれを心配するストレスの方が悪影響」。と言った、不安を感じている人を責め立てて追いつめるような言動ではなく、こうすれば被曝が軽減できると言った、安全で経済的負担も少ない方法で、少しでも不安を和らげストレスを減らす事が重要ではないでしょうか。そしてそこには「イワシの頭」的な必ずしも科学的ではない物を含んで良いと考えます。

御幣を恐れずに言えば、危険を孕む「デマ」や「ニセ科学」に対し、もっと安全で経済的負担も少ない別の「デマ」や「ニセ科学」を作りだし、それをぶつける事でもあります。無茶な暴論に聞こえるでしょうが、かの武田邦彦先生は意図的にそれをやっていると思えなくもありません。これは科学的正確さを身上とする科学者には不可能なことでしょう。やる事は科学ではなくある種の「芸」と呼べるものだから、芸達者な武田先生の様な人で無いと務まらないだろうと思います(菊池誠氏にはその才がありそうですが)。←これは私の誤解でした(2012.05.16註)

これをトランスサイエンスと呼ぶのは無理すぎるでしょうが、騙されている人、騙されやすい人を助けるのに重要なのは、「デマ」だ「ニセ」だと否定するのではなく、(たとえそれが科学的な言動ではなくとも)、それを「肯定」し支える事だと思えます。

相手がどう思うかがコミュニケーションの基本でしょう

ここで先ほどの「デマ」の件をもう一度考えてみます。念のために言っておきますが、以下は片瀬氏を批判するものではありません。

付録には具体的な「デマ」の例として1から6までの事例があげられています。その中で気になったのは「【デマの例5】耳なしウサギ」です。他の例はそれが「デマ」である事を事実で否定しているか、もしくは「○○と考えられる」と著者の考えを明確に述べているのに対し、このウサギの話だけその結論が無いのです。以下に引用します。

「福島県浪江町で原発事故後に生まれた耳のないウサギがネットで公開され、珍しいので放射線による影響ではないかと話題になった。しかし、福島第一原発事故とは関係なく、耳なしウサギは世界各国で生まれていることが報告されている。」(『もうダマ』付録P224)

ここには「○○と考えられる」といった結論がありません。奇形は様々な要因で起こりますから、他に同じ耳のないウサギがいても、それで福島のウサギが放射線の影響ではないとは言い切れません。勿論、この文章には何の断定もありませんから嘘でも間違いでもありません。しかし問題は、これを読んだほとんどの人が勝手に「このウサギの話もデマなのだ」と思ってしまうだろうと言う事です。

片瀬氏が意図的にこういう書き方をしたとは思いませんが、これは「ダマす側」のテクニックでしょう。これは広告のテクニックでもあります。私が今でも最高傑作だと思っているCMは桃井かおりさんのSONYのCMです。このCMは彼女が「ソニーだからね」と呟くだけです。いいとも悪いとも何も言っていません。しかしこのCMを見たほとんどの人は「ソニーだから素晴らしい」「ソニーは特別」と思ってしまう。広告のプロはそれを計算して作っている訳です。これは「相手の言いたい事を推し量る」という日本文化を前提としているので外国では通用しないでしょうが、「言い間違いは聞き手の粗相」などと言われるように、言葉の論理ではなくそこに込められた「心」を読まなければならない、日本独自のコミュニケーション形態でしょう。

これが非常に効果的なのは、その評価などが外から押しつけられたものではなく、自分が「勝手に」そう思ったからです。つまりその評価は内在化して「信念」となる訳です。しかもこの信念は根拠のないものですから他との比較を許さない「絶対的な物」となります。他社と比較してSONYが良いと判断したのではなく、自分が勝手に自分の意思で根拠もなく信じたのですから。

これはもっぱらダマす側のテクニックとして悪用されるのですが、こういった手法を良い方のコミュニケーションテクニックとして利用する事も可能かもしれません。

話が少しそれましたが、ここで言いたいのはコミュニケーションで重要なのは、その言葉を相手がどのように受け取るかを常に考えなけれないけないと言う事です。科学技術コミュニケーションでは、科学的に正確に言わなければならないのは当然としても、科学的知識も乏しく訓練も受けていない素人がどう受け止めるのか。が重要だと考えます。

こんな事を書いたのもtwitterで科学者と一般人の会話を側聞していて、科学者側の言葉の使い方の「無神経さ」が気になったからです。特に感情面では相手がどう反応するかまるで考えていないような発言も少なくありません。また最近のプルトニュウムが「飛ぶ、飛ばない」の議論でも学者間では了解済みの概念でも素人には全く通じない事も多々あります。

3.11以降科学や科学者の存在は市民にとって非常に重要となっています。そこで科学技術コミュニケーションの重要性もかつてないほど高まっているのですが、現状は円滑なコミュニケーションとは言えない状況です。市民の側が科学を学ぶのは必要ですが、科学者側も一般市民がその言葉や理論をどう受け止めるのかに、注意が必要だと思います。

追記:これを書いた当時は片瀬さんの事は良く知らなかったので、自分としては善意に解釈して好意的に書いたつもりでした。しかし現在では片瀬さんに対して、その姿勢や考え方に疑問を抱いているので、今書きなおすとすれば正面からの批判になると思います。(2011.05.16)

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